さて我が一家は博多から、さてどこの港に向かったのだろう。ばっぱさんの別の文章「四十七年目の証言」によれば、そのとき玄界灘を渡り、朝鮮半島を縦断、鴨緑江を越えて奉天(現瀋陽)に向かったらしいが、どの港に上陸したかはまだ調べていない。
奉天の伯母の家にて一先ずは
旅の疲れをしばし休めぬ
伯母とは母方の祖母の姉で、その夫は当時奉天の製薬会社勤務だった。またそこには島尾敏雄の妹一家おり、そこにも寄ったらしい。
外科医師のつまとなりたるわが従妹
しあわせの色 頬に満ちいて
たしかその従妹は終戦時、そこで悲劇的な死を迎えたのではなかったか。
幾山河 大陸列車にゆられつつ
熱河の果ての宿舎めざして
確かに奉天などにくらべると、熱河はまさに秘境であった。いつか機会があれば北京から灤平をまわって瀋陽へ、逆回りにこの鉄路をたどりたいと思っていたのだが、はたしてこれから先そんなことが実現できるだろうか。
そしてばっぱさんの歌集、つぎのタイトルは「熱河の秋」となる。父は熱河省灤平県公署に勤務していたが、ディスクワークではなく、馬に乗って僻地を回って、いわゆる集家工作とやらをやらされていたようだ。
興安嶺につづく熱河の山々を
馬を走らせ治安に尽くす
すすき穂のなびく部落のともしびを
頼りに幾夜旅寝の夫よ
生来の体質ならむ過労より
やがて夫は病いに臥せり
孫(そん)といふ心やさしき職員は
たびたび夫の見舞いに来たり
四国出の初老に近き軍医さん
薬も注射も覚束なかりき
父は日本人職員よりむしろ中国人の職員に好かれていたことをばっぱさんは昔から言っていたが、ここで初めてそのうちの一人が孫さんだということが分かった。残っている父の当時の写真に彼が写っているのだろうか。また拙作「ピカレスク自叙伝」にも書いたとおり、父が薬の代わりにスッポンの生き血を飲んでいたことを覚えている。軍医とはいってもどうも無資格らしき人に頼らざるを得なかった父の最後の日々、父の無念さが今更のように思いやられる。