思い返すと、中学生の終わりから高校生時代にかけてカトリック作家を一種禁欲的に読んだようだが、J. グリーンの作品は、さて何を読んだのだろう。はっきり読んだという記憶はない。しかし『運命(モイラ)』に関しては、特にそのラスト・シーンに関してはなぜか覚えている。主人公が相手の女を殺して、その死体を雪に埋め、そこに雪が降り積もる、というシーンである。
その『モイラ』ともう一つ『ヴァルーナ』のフランス語版ペーパーバックス(フランス、プロン社、1964、1963)が書庫にあった。神田の田村書店のラベルが貼ってあるので、たぶん1980年代に買ったものらしい。それで『モイラ』の最後のくだりを辞書を引き引き読んでみたのだが、そんなラストにはなっていない。おかしい。貞房文庫の目録を見てみると、その翻訳がわが家にもあった。福永武彦訳で1953年に新潮社から出たやつである。私のフランス語の力はひんぱんに辞書を引きながらなんとか推理する、といった程度なので、この際翻訳を読むしかない。
確かに女を殺して雪に埋めるシーンはあったが、それはラストではなく、その描写もあっけないほど簡単だった。しかし小説の主題は題名が意味しているように重くて暗い。自分を肉欲の罪に誘惑した女性の名前モイラはケルト系の名前であるが、ギリシャ語では運命を意味するし、もう一つの『ヴァルーナ』の方もインド神話で永遠を意味する。
翻訳の方をぱらぱらとめくってみたが、やはり読んだ記憶はない。なぜ前述のような劇的なラストが頭にこびりついていたかというと、どうもシャルル・メレールというルーヴァン大学教授の『二十世紀の文学とキリスト教』のJ.グリーン評が強烈だったかららしい。メレールは、この救いのない小説は、死体の上に降り積もる雪のイメージで罪の浄化を表している、とかなんとか言っていたからである。つまりそのスペイン語版全五巻を持っていてその中のウナムーノ論や、G.グリーン論、J.グリーン論、カミュ論などを熱心に読んだ時期があったのである。それを確かめようと、実は今日、何回か寒い階下に行って探したのだが、まだ見つからないのだ。暖かくなったら、本格的に書庫の整理をしなければ、今日のようにいざというときに本が見つからない。
話はまるっきり別のことになるが、アジア・カップの決勝戦で、貴重な一点をゴールに叩き込んだのが、在日四世の李選手だったことはいろんな意味で最高の結末となった。狭隘なナショナリズムへの傾斜を常に内包しているわが国にあって、在日の存在は実に貴重なのだ。先日来話題にしてきた藤原正彦の日本語論・祖国論に欠けているものを教えてもくれる。
藤原正彦は(もう噛み付くのは今回限りにしたいが)国語の重要性をシオランの「祖国とは国語」という言葉やドーデの『最後の授業』を例に挙げて主張しているようだ。しかし、まずシオランがルーマニア生まれでフランス語で執筆する思想家であること、そしてドーデの小説が、実のところドイツ系の言語を話す子どもたちに外国語であるフランス語で授業をしていた教師の物語として現在では問題視されているのをご存知だったのだろうか。その間の事情を詳しく書いた田中克彦の『ことばと国家』(岩波新書、1981年)が出版されたことで、国語の教科書からドーデの小説が一斉に姿を消してかなりの時間が経っているそうだが。なーんて偉そうなことを言ったが、ドーデの小説のことは、今回ネットで初めて知った。それでわが家にもあるはずのその田中克己の新書も探しているのだが、まだ見つからない。
要するに私が言いたいのは、純血種の日本人こそが日本語の価値を知り、それを保持できるのだという単純なものの考え方では独善的に過ぎるということ。我が日本に即して言えば、まさに在日の人たちやアーサー・ビナードのような外国人の目線で日本語や日本を複眼的に見る必要があるということである。藤原君、お分かりかな?
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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