ディアスポラからあゝ上野駅まで

先日ここでご報告したように、徐京植氏との初対面の、しかも互いに相手をほとんど知らないままに、つまり氏は例の新聞紙上の私たち親子三代の写真、私といえば氏が在日の作家である、というだけの知識しか持っていないのに、なぜ旧知の間柄同士のような対談に進むことができたのか。
 氏に宛てた最初のメールで、私は考えようによれば実に不遜というか失礼なことを言った。まるで父違いあるいは母違いの兄弟(他に異父兄弟とか異母兄弟という言葉や、もっと露骨な日本語があるが好かないのであえて)に会うような気持ちです、と。といって白状すれば、私はこれまで身の回りに在日の知人はいなかったし、在日の友人もいなかった。さらに言えば、在日の歴史について正確な知識もない。それなのに、在日に対して、なぜか親しい、懐かしいような感情を持ってきた。いや、少年の私が朝鮮人の集落に生きていたような感じさえ持ってきた。もちろん錯覚である。
 しかしたとえば少年時の貧しさ、疎外感、不条理なものへの怒り…それらはすべて在日の人たちと共有できると思えたのである。先ほど身の回りに在日の人はいなかった、と言ったが、これまで何回か擦れ違ったことはある。最初は、旧満州から引き揚げて北海道の帯広に住むようになったとき、まだ終戦後間もなく世情騒然としていたある時、町の朝鮮人たちが戦中のひどい扱いに抗議して、槍玉に上がった人たちを襲っている、という噂が立った。相手をリンチするときの彼らの戦法、つまり人差し指と中指をV字型にして、それで相手の眉間を狙うなどという細部までまことしやかに伝わってきた。実際にそんなことが行なわれたわけではなかったのに。
 次は、イエズス会という修道会に入り、広島で修練していたとき、その修練院の裏手の急峻な小道を降りた先に朝鮮人の集落があった。それはほとんどが掘っ立て小屋のような貧しい集落であった。バス停への近道としてその側を通ることがあったが、後にそのときのことを「午睡」という掌編(「修練者」の中の)にこんな風に書いている。

 「夢の中の鶏たちは、裏山の裾に点在する朝鮮人部落で飼われている鶏たちだった。そしてその家の一軒がわが家だった。そのわが家の縁側に坐ってだれかと激論していたはずだが内容は思い出せず、ただそのときの熱気だけがこめかみのあたりに残っているだけだ。家を捨てたはずなのに夢にまで見るとは、これは本物ではないなと反省しはじめたとき、今度こそ本当にベルが鳴った」。(「青銅時代」、第27号、1984年所収)

 次は五年間の修道生活から足を洗って(?)相馬に帰ることになったとき、以前そこの学生寮にいたときに知り合った教会のカテキスタ(志願者などに教理を教える人)のおばさんが、将来結婚する相手候補として在日の娘さんを紹介してくれたことがある。還俗したての私にはあまりぴんとこない話で、そのときは特に気に留めないで聞き流していたが、その後相馬に戻っていた私のところにそのカテキスタから、今度その娘さんが東京を去って郷里の青森に帰るが、途中原町駅で途中下車させるので、迎えて欲しいと連絡があった。その日、次の列車(まだ電車ではなかった)までの時間、彼女を曇り空の殺風景な町の中を案内した。楚々としたもの静かな娘さんで好感は持ったが、結局その小一時間ばかりの淡い思い出しか残っていない。名前も彼女の住んでいる町のことも覚えていないので、もしかすると当たり障りのない話に終始したのだろうか。いま彼女も青森のどこかで孫たちに囲まれた幸福な生活を送っていると思いたい。
 最後は、定年前に辞めた大学で、或る年、朝鮮人の名前を持った女子学生が入ってきた。授業の際に教室で会うだけの接触しかなかったが、機会があれば話し合ってみたい、と思っているうちいつの間にか卒業してしまった(当時はまだ短大だったので)。
 以上が在日の人と擦れ違ったすべての過去である。
 いや、今回、徐氏とお会いしたときに感じたあの親密な感じは、そうした頼りない経験だけから生まれたものではなさそうだ。要するに私が現在置かれている状態が、どこか在日の人のそれと相通じるからではなかろうか。つまり今回の大震災とりわけ原発事故によってもたらされた精神的位相が在日のそれと酷似していることから来る親近性ではなかろうか。氏はディアスポラ(離散の民)という言葉を氏の思想のキーワードの一つにされている。換言すれば根扱ぎにされた人々(デラシネ)のことである。もちろん私自身は、ディアスポラにされること、デラシネになることに抵抗してきた。しかしそれは小状況にあっての抵抗であって、別の角度から、つまり俯瞰する視点から眺めれば、私もまた一人のディアスポラアに過ぎない。少々キザな表現を使って「奈落の底」と言ったのもそのことと関係がある。
 いやもっと巨視的な視点に立てば、東北それ自体が、近代日本発展史の中では常にディアスポラの位置に置かれ続けたと言ってもいい。富国強兵の時代には人買いも介入しての労働力として、太平洋戦争のときには最前線の尖兵として、列島改造論・高度成長の時代には集団就職組として、そしてGNP世界第二位の時代にはそれを支える電力エネルギー供給の拠点として、絶えざる収奪の対象であった。
 おや、気のせいだろうか、井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞 関口義明 作曲 荒井英一)が聞こえてくるようだ。

   どこかに故郷の 香りをのせて
   入る列車の なつかしさ
   上野は俺らの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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ディアスポラからあゝ上野駅まで への1件のコメント

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    お待たせ! 今朝菅さんから届いたメールです。彼、ときどきそうするように、件名のところに初めの部分を長々と打っているのですが、以下の通りで間違いないでしょう。
     「お蔭様で無事終演致しました。450強収容の客席には恐らく400人は入ったと思います。募金箱にも入れてくださる方々が大勢いらっしゃいました。澤井さんが開演前に来てくださって、楽しみにしていたのですが聴けなくなり申し訳ない!と仰ってチケット代を置いて行かれました。見るからに優しそうな70前の方でした。出来たら川口氏と3人でお礼の意味で再会したいです。最後に会場の方々と〔上を向いて歩こう〕〔ふるさとを〕熱唱でした。目をハンカチで拭っている方々が多く、日本は未だ未だ捨てたものではない!を実感しました。この情景を想像なさって下さいね。幸せな1日でした。今、大学に向かって地下鉄に乗っていますが、男の子で目を潤ませていた学生に礼を言いたいです。今思うのは企画して良かったということです。」

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