午後、曇り空の下、久し振りに新田川河畔に行く。今日は鴨の一家が堰の手前で五羽ほどかたまって川面に浮かんでいた。そこは流れが緩やかなところだが、しかし水中でしきりに水掻きしていないなら、あのようにじっと止まっては見えないはずだ、などとぼんやり考えながら側を通る。さらに進むと桜の木が数本立っているところがある。今年は桜を見たんだろうか、どうもそのへんの記憶がはっきりしない。「桜見たっけ?」と側の美子に語りかけてみたが、独り言を続けるだけで返事はない。
大きな木の幹に名前の分からない昆虫が止まっている。不意に昼前のテレビの画面を思い出した。なんとかいう昆虫写真家が南米の、エクアドルだったかの密林に珍しい昆虫を尋ねるという内容の番組だった。きちんと見たわけではない。通りすがりにちょっとだけ見た画面には、葉っぱの裏に、その葉っぱと同じ形と色をした昆虫がへばりついていた。背中部分は葉っぱの表側を、腹の部分は葉っぱの裏側をそっくり真似ているのだ。驚くほど精巧に。
気の遠くなるような進化の過程で、そうした擬態を身に着けたのであろうが、しかしあの小さな昆虫のどこに、そんな智慧(?)があったのだろう。葉っぱになーれ、葉っぱになーれ、とどんなにしゃかりきになったって、そうなれるものではないのに。凄い、すごすぎる。
そんな人智を超える不思議を前にして、これはだれかが、そう、神様がそう望まなければ、こんなに精確に真似できるものではない、と考えても不思議はない。昔から神様の存在を証明する喩えとして、時計の歯車やゼンマイばらばらにして、さてこれを組み立て、しかも正確な時を刻めるようにするには、決して偶然では説明できませんよね。そうです、この何百と言う部品を組み立てるには、誰かが組み立てなければなりません。同じように、この世界のすべてのものは、決して偶然から出来上がったはずがありません、その不思議を可能になさった方こそ神様なのです。
「うーん、そうかな。だって人跡未踏と言ってもいいような、そんな密林深くに生息するそんな昆虫にまで神様手がまわるの? もしかして人間様に気付かれもしないでこの世の最後(ってあるの?)まで生きるかも知れないというのに?」
「いやだからこそ神は全知全能で、人間の浅智慧など思いも及ばぬことをなさっておられるのだよ。」
「でも時計の部品のように、ばらばらにせよ、もともとそこにあったのではなく、それこそ何万年?いやもっと長い時間の中を、薄暗い密林の中の、葉っぱの裏で少しずつ少しずつ、葉っぱに似せよう、葉っぱになろう、と息を潜め、注意力を集中させながら頑張ってきたその昆虫の〈思い〉〈努力〉〈根性〉って凄くない?」
「そうだね、この一匹の昆虫の思いや努力や根性に比べたら、人間様の誇っている科学、たとえば宇宙ロケットや、ほれ、あのクソ忌々しい原発なんぞ、及びもつかないよね。すごいよー、一匹の昆虫のその自己努力っちゅうか忍耐力っちゅうか、その独創力、アイデア」
「おっとさっき言いかけていた神存在を証明するものとしての、昆虫の擬態の不思議の話どうなった?」
「あゝ覚えてたの? いや正直難しい問題だね。たしか時計を使っての神存在の証明に関して、バートランド・ラッセルが無神論の立場から反論したはずだが…」
「プラトンもその宇宙生成論で神の別称として製作者・職人を意味するデミウルゴスという考え方をしているよね」
「いやー、難しい問題だ。でも自然界、宇宙の神秘など考えると、人間の科学なんて偉そうなことは言えないね」
「そう、だから原発にしろ遺伝子組み換えにしろ、そうした自然界の秩序を壊したり変えたりすることは止めたいね。もっと謙遜になろうよ」