「平和菌」再説

9.11も無事(?)過ぎた。十年目ということで、テレビでもいくつか特集を編んでいたようだが、特に見ようとも思わなかった。あの事件から学ぶべきことどもを、私たちはまたも見過ごし無駄にしてきたと分かっているからだ。直近の3.11にしたって、当初期待したような覚醒は、結局は為されないまま、益体もない日常へと、あたかも何ごとも起こらなかったかのように戻りつつある。
 悲観論的楽観論者を自認している者として申しわけないが、本体たるべき楽観論が揺らいだまま推移しているような気がしている。そしてこれらの日々、「平和菌」という懐かしい言葉が時おり頭の中を駆け巡っていた。つまり社会構造や世の中の仕組み自体を変えていく方途が見つからないまま、それなら、日々あらゆる場所、機会を捉まえて、「平和菌」を撒いていくしかないのでは、と考えていたのである。その「平和菌」なるものについては、確か今年の一月に書いた文章の中で触れておいたはずなので、右(→)のブログ内検索エンジン(?)を使って、どうぞお読みいただきたい。
 平和菌を思いついたのは、例のバイオテロリズムで一時期騒がれた炭疸菌からであった。もちろん炭疸菌のような致死的な毒性などあろうはずもない、架空の菌である。効果? そういろいろありますよ。まずこれを吸い続けると、世の中のおかしなことがおかしなこととしてはっきり見えるようになります。そういえば、あのチャップリンの映画には、この平和菌が大量に仕込まれていました。『独裁者』をご覧なさい。ヒットラーがどれだけ滑稽でバカで誇大妄想狂の殺人者であるか、映画を見て初めてはっきり見えてきました。つまりこの平和菌を吸い続けると、この日本に毎日起こっている実に馬鹿げたことがそのまま馬鹿げたこととして見えてくるのです。たとえば、いつのころからかテレビでは日常的な映像になっているあの各種謝罪パフォーマンスが、実にげれーつ極まりない茶番であることなど、少しでも平和菌を吸っていればすぐ分かるのです。
 なーんだ、平和菌ってそのくらいの力しかないんだ、と思うかも知れませんね。いやいやそうではありませんよ。この平和菌は、炭疸菌のような劇的な効果性は持ってませんが、しかしだからこそ知らぬ間に広範囲に、しかも持続的にじわじわとその効力を蓄積していきます。もしかして、いや確かに、手前味噌になるかも知れませんが、実はこのモノディアロゴスにはいたるところにその平和菌が仕込まれています。うんそうだよなあ、と思われるところをもう一度ゆっくり読み直してください。いやその菌はすぐには姿を見せませんよ。でもゆっくり読みながら、いわゆる行間というやつを右手親指と人差し指でピチンと弾いてご覧なさい。小さな紙魚よりももっと小さな、透明ですばやい動きの菌が、別の行間に逃げ込むのが見えるはずです。
 いつものことですが、とつぜん話が飛びますよ。今度の騒動で、それまで気づかなかった親子、夫婦、兄弟、友人間で、ものの考え方がどれだけ違っていたか見えてきましたよね。そんな統計はどこにも公表されてませんが、たとえば震災離婚、震災別居がいたるところで起こっています。いちばん多いケースは、放射線の危険に意外と鈍感な夫に嫌気がさして子供を連れて別居生活に入る奥さんが急増していることです。まあ、皮肉な見方をすれば、平和時にはそれと意識しないできた相手に対する根本的な不信感が表面化しただけなのかも知れませんがね。
 でも別居からついには離婚に進むケースが多いとしたら、やはり日本の家族がいかに柔(やわ)な土台に辛うじて立っていたかが見えてきます。でもいま、そんな大きな問題を取り上げようとしているわけではありません。ただ平和菌ということに関して言えば、たとえば夫の一見優柔不断な姿勢の中に、もしかするといつの間に沁み込んでいた平和菌の成果が見えてくるかも知れません。つまり平和菌は、短兵急に事の正否、適不適などを決めることをしません。平和菌保持者はものごとをもう少し広い立場から、あるいは単眼ではなく複眼で見ようとしますから、いきおいなんとも煮え切らない態度に見える場合が多いのです。
 世間ではいつごろからか、草食系の男がやけに評判を落としています。白黒はっきりさせる肉食系の男がもてはやされるようです。確かに主体性のない、責任逃れに汲々とする男性は男性の風上にも置けないかも知れませんが、しかし……
 おやおやいつの間にか男性擁護論を展開しそうになっています。それは本意ではありません。じゃ別の角度から。たとえば先日、辛口の批判をしたいわゆるジャパニゼーション、つまり日本のポップカルチャーを代表するアニメなどの影響で、いまや世界語にもなってしまった「カワイイ」とか「クールジャパン」も、考えてみれば「平和菌」の一種というか「亜種」であると言ってもいいでしょう。
 つまり口では世界平和とか人道主義を言いながら、一方でミサイルやディジーカッターなど大量殺人兵器を輸出している軍事大国に較べるなら、よほど道徳的だし人道的です。テレビなどで、そうした兵器産業の見本市たる航空ショーなどをなんの批判も加えずに報道してるなど、考えてみればこれほど不見識なものはないでしょう。
 つまり「平和菌」はそうした全ての愚行・愚挙を嘲笑し呵呵大笑する強力な武器となる可能性を秘めているわけです。そういえば過去の日本にも世界にも、そうした人間の愚かさを笑い飛ばす文学が健在でしたなー。セバスティアン・ブラントの『阿呆船』も、あのエラスムスの『痴愚神礼賛』も、そしてもちろんスペインのピカレスク小説やあの不朽の名作『ドン・キホーテ』もそうでした。
 笑い飛ばしたってなんの効果も期待できない? そうかも知れませんなー。でもそれでもとりあえず愚かな人間の愚かな所業をまずは笑い飛ばすことから始めましょうや、さしあたっての現実変革の妙案が無いんでしたら。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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