若き哲学徒への手紙

A. T君、君からの初めての手紙、嬉しく読みました。二週間ほど前でしたか、いや十日前? 正直言うと最近、正確に言うと(?)震災後、どうも時間の感覚が狂っており、君が指導教官のH先生とお父さんと三人で訪ねてきたのがいつだったか、はっきり覚えてません。でも、震災後たくさんのお客さんを迎えましたが、君の訪問は私にとってまた特別の意味がありました(それにしては日時がはっきりしないのはおかしいですね)。
 もうブログのどこかで書いたと思いますが、南相馬の真の復興は、経済的・政治的なそれよりもまず第一に人間の復興、それも町の将来を担うべき若者たちの再生の歩みなしには不可能だからです。特に君が、O大学の大学院で哲学を専攻していると聞いて、君のずっと昔の先輩としてとても嬉しく、そして頼もしく思いました。
 最近のブログで、私にもしも小説家の才能があれば、南相馬の再生の物語を一人の若者を通して描くだろうと書きました。すべての国の発端に国造りの物語があるように、ここ南相馬の再生にも国造りの物語が不可欠だからです。でも下手な小説家の手になる物語よりも、実在の人間の挑戦と冒険の方が何倍も効果があり説得力があるのはもちろんです。といって心配しないでください。君がその再生の物語の主人公になりなさい、などと説得したり唆そうなどとしているわけではありません。君には君の好きなような人生を選ぶ権利があります。
 それに、君が大学院を終えてすぐ、たとえば母校(原町高校)の教員になるために戻ってくるよりも、その前に、他の仕事や体験をしてみるのも、君だけでなく君を待つ後輩たちのためにもいいかも知れません。つまり一種の武者修行です。私の場合は、定年前に、ふと思い立って故郷に帰ってきましたが、正直それではちょっと遅すぎました。私としては決して引退したつもりはないのですが、社会的には引退して隠居生活に入った人と思われてしまったからです。ボランティアでスペイン語教室や文学教室をやってはきましたが、若い人が教室に来ることはほとんどありませんでした。
 それでも一度はインターネットを通じて地元の高校生のグループを作ったことがありました。しかし残念ながら長続きしませんでした。簡単に言えば、今どきの高校生は忙しすぎて、学校以外のことに使う時間がなかったからです。特に最大の敵(?)は、日曜休日までも使っての部活でした。いや部活が楽しく有意義なものでしたら何の文句もありませんが、ほとんどの場合、受験や就職に有利だという理由から、半ば強制的にやらされているようで、結果的にはそれがなにかと障害になりました。
 先日も言いましたが、今度の震災・原発事故ではっきり見えてきたことの一つは、近代日本の歩みの中で、東北は常に中央からの収奪の対象であったという紛れようもない事実です。富国強兵の時代には正にその尖兵として、高度成長の時代には集団就職に集約されていたように人的資源として、またGNP世界第二位の時代には、まさに電力供給源として絶えざる収奪の対象でありました。
 私の、そして君の母校でも、大多数の者は都会の大学に進学して、そのほとんどは地元に戻ってきません。あやうく私もその末路(?)を辿ろうとしていたように、大都会で就職し、そこで結婚し、その片隅にマイホームを作り、年に一度お盆に戻るという生活パターンを繰り返してきました。
 地方出身者のそうしたパターンを、これまでだれも不思議と思わないできました。たとえば原発立地町村の若者たちにとって、東電の正社員となることが協力社員である父親たちの世代からワン・ランク上の生活へ登る栄光の道だったわけです。
 でもそんな仕組みからいつかは抜けださなければ、と思います。東北人の誇りを、宮沢賢治(急に呼び出されてびっくりしてますが)の矜持を取り戻さなければなりません。君が生を享けたこの相馬は、二宮尊徳の高弟・富田高慶を初めとして、『将来乃東北』を書いた実業家・半谷清寿、開拓農・平田良衛、憲法学者・鈴木安蔵、「近大文学」七人の侍のうちの二人すなわち埴谷雄高と荒正人、そしてわが島尾敏雄……丹下左膳おっとこれは架空の人物でした…要するに実にユニークな人間を輩出してきた土地であることをどうぞ忘れないでください。
 最初の手紙としてはちょっと長過ぎました。また書きましょう。ともかくH先生のご指導の下、残された研修の時間を目一杯使って、将来のための準備をしてください。君は時々、H先生の助手として、社会人対象の哲学教室を手伝っているとか。貴重な体験です。哲学は教室や書物のものではありません。生活の中に生きるているものでなければなりません。
 哲学は時に詩と較べられます。その直感の働きからの連想でしょうか。しかし私は、哲学はむしろ散文に近いものと思ってます。「散文的」というのは、ふつう「平凡で、つまらないもの」の意味で使われます。しかし哲学は一瞬の直感よりも、むしろ地味で一見つまらない「日常」の中でこそその強みを発揮するものと思います
 たとえば今回の原発事故に際して、学者や詩人はその恐ろしさを強調するあまり、「生きる」ことの辛さやしんどさを避け、逃げているように思います。しかし大事なのは、生きる可能性のあるところなら、どのような不利な状況にあっても、逃げずに執拗に闘っていくこと、生きる可能性の領域を少しでも広げていこうとすることこそ大事だと、そしてこれこそが散文的な生き方だと思うのです。そのような地味で目立たない努力の末に、ふと現われ出るものこそが真に詩的なものであると思っています。

  山路来て 何やらゆかし すみれ草   芭蕉

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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