活字本の行く末

午後、ようやく机の周辺を片付ける気になった。前にも書いたような気がするが、大地震のあと、部屋を片付けたり、ただ乱雑に本棚に戻されただけの本を以前の順序に並び替える気にもならないまま半年が過ぎた。と言っていつも歩く道、獣道(?)、つまり動線の周囲だけはなんとかゴミを取りながら生活してきた。そんなところにこれまでたくさんの客人を迎えてきたのだから、我ながら天晴れ!とその度胸を褒めたくもなる。
 ほぼ一月ごとに帰ってきてくれている頴美が風呂場や玄関や便所や、つまり家中を掃除してくれたので、なんとか腐敗臭や黴菌の繁殖は防げてきた(と思う)。その息子一家が今日の夕方、四度目の帰還を果たしてくれる。たぶんそんなことが微妙に意識の変化をもたらしたのか、少しばかり片付けを…いや嘘を言うのはよそう。久し振りに装丁の仕事をしてみる気になっただけである。先月、十和田経由で我が家にやってきた祖父幾太郎の本の中に、徳富健次郎の『思出の記』があったことは既にご報告済みであるが、やりかけのまま放置していたその装丁を完成させただけである。背は茶色のビロード、そしてあとはそれよりも薄手のやはり茶色の麻の装丁となった。明治三十七年、第十八版、民友社刊のボロ本がこれでようやく見栄えのする古書となった。
 そんな作業を続けながら、近ごろ勢いを増してきた電子ブック(と言うのだろうか)に押されて活字本が衰退の瀬戸際にあることなどぼんやり考えた。しかし先日も、中央図書館の安齋館長にも話したことだが、活字本というのか印刷本というのか、つまり従来の本の存在意義が減じることは絶対にないし、またそうならないためにも、われわれ年長者が若い世代に本の魅力を大いに伝えていかなければならない。たとえばこの古色蒼然たる『思出の記』だが、たしかに紙は古びて活字も鮮明とは言えないが、しかし自分たちの先祖がこれを読み、そこから夢や希望を織り上げていったことが感覚を通して伝わってくる。
 たとえば中扉に四角い「井上蔵書」の印が押されている。つまりこれは祖父が安藤家に婿入りする前に所有していた本で、彼以外にも弟の豊記大叔父も読んだはずだ。いや同じ兄弟でも、本好きの幾太郎と違って豊記大叔父は相馬郡で最初にハーレーダビットソンを乗り回したモダン・ボーイだったから小説など読まなかったかも知れない…という具合に、一冊の本を通して歴史に触れることができる。これは電子ブックでは決して味わえない活字本の醍醐味であろう。
 ただ私としては、活字本の行く末はともかく、死ぬまでに何とかし遂げたいことがある。つまり我が「貞房文庫」にある本全体を森、あるいは大きな建物に喩えて、この森あるいは建物探索のガイドブックを作ることである。とりあえずは孫たちを案内するという形式をとるはずだが、他の子供たちにも利用可能なガイドブックにするつもりだ。
 もちろん集められた本にかなりの癖というか偏倚(バイアス)があるのは避けられない。しかし人間の生きる「世界」は広大無辺であろうとも、それを理解する人間自体が有限なのだから、とっかかりは或る限定された地点からであるのは当然である。問題はそのとっかかりから、それぞれがどう独自の道筋を見つけていくか、である。
 それで今晩は、私自身の最初の本との出会いを語った作文を紹介しよう。今から46年前、広島の修練院で広島大学の稲賀敬二先生から作文指導を受けたときに書いた幼い(といっても今とそう変わらないか)文章である(呑空庵刊『宗教と文学』所収)。

  
   思い出の漫画

 漫画らしい漫画とのそもそもの出合いが何時であり、どんな漫画であったか、今は残念ながらはっきりしない。小学校に入る前の、というと丁度満洲時代に当たるわけだが、読書の記憶としては、講談社の絵本数冊位なものである。それさえも、どんな内容の絵本であったか曖昧である。何の印象も残っていない。
 終戦後まもない頃のことであるから、何しろ本が少なかった。だから思い出に残る最初の本は、帯広市の祖父母の家の押入から、偶黙に掘り出した講談社の『鉄仮面』ではないかと思う。或はやはり同じ押入にあったと思われる田河水泡の『のらくろ』だったかも知れない。その本の中では、のらくろは上等兵だったろう。とに角痛快だと思った。何処がそんなに気に入ったか今も分からないし、恐らく当時も分からなかったに違いない。しかし階級を示す星印が何とも魅力的であったし、登場人物が動くたびに足元から巻き上がる砂煙の形に大いに愛敬があった。それに足や手のふっくらとした様子が、爪をたてない時の猫の足の感触を思わせ、無条件にのらくろの善良さを信ずることができた。
 でもおかしなことにのらくろという名がどんな意味を持っているか、字を分析して分かったのは、ずっと後のことである。その本は表紙もとれていたし、うす汚れてはいたが、当時の私の宝物の随一であった。幾度のらくろ全集の夢を見たことだろう。続きが読めるなら、どんな犠牲でも払おう位の意気込みだったに違いない。ところで最近少年雑誌を何気なく見ていると、昔懐かしいのらくろの姿が現れたのでびっくりした。現代版のらくろだった。旧軍隊では具合が悪いのか、舞台は自衛隊である。しかし読んでみてがっかりした。二番煎じもいいところ、皺くちゃな風船を見た様な味気なさだった。
 漫画といえば、もう一つ思い出がある。小学校二年生の時だったろう。現在では時計屋に変わってしまったが、東京堂という本屋で買ってきた『轟先生』のことである。あの日どうしたはずみか、本一冊買える位の小遣いを貰ったものである。十勝特有の見事な夕焼けが町並を神秘的に浮き出し始めた時刻、今日を逸すれば、すべての町並と共にその本屋も消えさってしまう様な不安を感じながら、面白そうな本をせかせかとさがし回った。しかし思っていたより高いものばかりで、持っていったお金で買える様なものは一つもない。そのまま引きさがるのは、何とも情け無かった。しかし月刊雑誌にまじって一寸装丁の悪い漫画が眼に入った。値段も手頃だった。それでその『轟先生』を買っていそいそと家に帰ったのである。
 ところが結果は散々。兄と姉に「それは大人の漫画だよ」と一言の下に片付けられてしまったのである。当時の私にとってこの宣告は手酷い。大変な不始末をしでかしたと思った。恨めしい気持で夕飯を食べた後、多分祖父の書棚にそっと、幾分未練がましく置いてきたようである。後年『轟先生』の顔を見る度に、あの頃の思い出が蘇って、撤笑ましく思ったものだ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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活字本の行く末 への1件のコメント

  1. beautiful sky のコメント:

    「ちゃんと楽譜を読みなさい」「もっと、うたいなさい」
    ピアノの先生に、よく言われた言葉です。
    本を読む、というのも、同じことなんですね。
    音もたくさん集まって、一つ間違えると、不協和音を響かせてしまいます。
    先生が、とても素敵に「うたって」くださるので、「読む」ということに時間を割くことができます。
    その時流れるBGМの1曲目は、エルガーの「愛の挨拶」に、次に続く曲は、しっかりと「読んで」から考えることにして、「うたう」ことができるよう、ピアノの練習を継続します。

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