「3.11という終末論的な出来事が、浪漫的な叙事詩としてではなく、個々の人間をすり減らす日々の困難としてのしかかってくるのだ、多くの人々が忘れたり無関心になったりした後になっても、それは続くのである」。
これは『原発禍を生きる』「解説に代えて」の最後近く、徐京稙さんが書かれた文章である。そう、地方局のテレビでも原発関係の番組はひと頃よりずっと少なくなった。東北地方以外のところでは、さらに少なくなっているだろう。しかしこれは、私としてはむしろ歓迎したい事態である。しかし我が家を訪れる人も、とうぜん途絶えてしまった。もちろんこちらの方は願っていたわけではない。それに時はいま冬へと向かう淋しい時節。2002年に相馬に戻ってきての最初の年、東北の秋ってこんなにも淋しいものなのか、と改めて感じたことを思い出す。かつて終の住処を求めて相馬を訪れた島尾敏雄さんが、そのあまりの「うすら寒さ」に相馬移住を断念したのも、それがちょうど今ごろの季節だったからかも知れない。
ところが昨日、徐さんが再び我が家を訪ねてくださったのだ。しかも今回は奥様、反原発運動家のハン教授(漢字表記はお聞きできなかった)※、そして哲学者の高橋哲哉教授ご同道で。もっとも今回の主目的は、韓国から10人近くの客人を案内しての被災地訪問であり、四方(よんかた)が拙宅で歓談していた間も、他の人たちを近くに待たせていたのであったが。
別れ際にも申し上げたことだが、その貴重な短い時間のあいだ、人に飢えていた(?)のであろう、なんだか私だけが一方的にしゃべった感がある。でもおかげで本当に楽しいひと時を過ごすことが出来た。印象的なのは、美子の側に坐られた奥様が終始美子に優しくしてくださったこと。本棚に飾ってあった、まだ元気なときの美子の写真を立ってしばしご覧になったときは、夫人の温かなお気持ちが伝わってきて嬉しかった。かつては痴呆症と言われた病である。最初のご挨拶にも応えられなかった。「でもなんだか私たちの話をちゃんと分かってるみたいですよ」とずっと美子の隣で相手をしてくださった。
先ほどの私の「一方的」という言葉も、「いま奥様がイッポウテキと言われたわよ」と皆が別れの挨拶で慌しくしている中、夫人が拾い上げてくださった美子のコトバである。旅の途中なので、その時は差し上げなかったが、今日あたり、美子の婚約時代の写真も載っている往復書簡集『峠を越えて』をぜひ奥様にお送りしようと思っている。ついでに言わせてもらうが、この私家本は美子が認知症にならなかったら決して作ろうなどとは思わなかったものである。つまり末期の目から思いついた本。
峠で思い出した。一昨日も一つ嬉しいことがあった。それは菅さんが市の中央図書館開館時に流される「幸福の鐘」という曲を完成したと知らせてきたことである。二分ほどのメロディーが、これから開館時に響くと考えただけで元気が出てくる。菅さんは曲想の勢いが消えないうちに、閉館時のための「希望の鐘」も作り始めたそうだ。そして…これを言うと変なプレッシャーをかけて止めてしまうのではと怖れながらバラすのだが、菅さんは以前から『峠を越えて』から曲想を得て、「嗚呼、八木沢峠」という小曲を作っている最中らしい。つまり何十年も前、八木沢峠を越えて交わされた美子と私の幼い、いや拙い、ラブレターを主題にした曲ということなのだ。
当事者(の一人)からすれば、もうひたすら小っ恥ずかしいことではあるが、これも「末期の目」の視点から雄々しく(図々しく?)耐えてみせます。と、ここまで書きましたので、ついでに宣伝しておきます。なにか読む本がなくてお困りの方がいらっしゃいましたら、どうぞ『峠を越えて』を読んでください。貞房夫妻の若―いときの写真が四枚、そして美子のT. S. エリオットについての英文卒論も付録として付いていますです、はい。
※後日の注記 後から分かったのは、この教授は韓洪九(ハン・ホング、1959-)という著名な歴史学者・聖公会大学人権平和センター所長で、その著『韓洪九の韓国現代史』はわが国でも平凡社から翻訳出版されている。さっそく手に入れ読みはじめたところである。
澤井Jr.さん
昨日、お父様からも旅立ち直前の昂揚したメールいただきました。それに応えて「失敗しようのない大冒険」と書きましたが、それでも私同様たくさんの人がドキドキして事の経過を見守っています。どうぞ四半世紀ぶりの親子のご対面を存分に味わって、そして楽しんでください。祈ってます。