音声付き線量計

今日も美子を置いてスーパーに行ったが、入り口のところで以前くにみの郷の認知症の奥さんのところに毎日のように訪れていた人(お名前は知らないまま)と出会い、しばらく立ち話をした。奥さんがくにみの郷から一時、宮城県の方に移ったことは前回お会いしたときに聞いていたが、その後肺炎を患い、老健と病院を何度も移り歩かされ、今も胃瘻(いろう)処置が可能な病院の空きベッドの順番を待っているところだと言う。
 ところで老健とか胃瘻は最近覚えた言葉である。辞書には前者は「老いてなお健康なこと」としか出ていないし、後者は「遺漏なき」の「遺漏」はあるがまだ収録されていないのではないだろうか。もちろん前者は「介護老人保健施設」のこと、後者は一種のストーマ(小穴の意=人工肛門)、つまり主に経口摂取困難な患者に対し、人為的に皮膚と胃に瘻孔(ろうこう)を作り、そこにチューブを留置し、水分・栄養を流入させるための処置のことである。
 大震災後、グループホームから出されなければ、いくつかの施設を渡り歩くこともなかったであろうし、そうであれば肺炎になることもなかったのではなかろうか。くにみの郷にいた時も、認知症はだいぶ進んではいたが、独り黙々と元気に廊下を歩いている姿が今も目に浮かぶ。震災後の老人や病人の移動の犠牲者が身近なところにいたわけだ。ご主人は私と同じ、いやもしかして私より若いのかも知れない。美子は今のところ食べさせてやりさえすれば、咀嚼・嚥下は出来るが、いつかは胃瘻処置をしてもらわなければならないときが来るのだろうか。
 ともかく認知症の進行は止められないが、肺炎など他の病気が命取りになることがこの例からもよく分かる。彼も一人暮しらしく、お互い無理せずに頑張りましょうと言って別れたが、買い物袋を提げて帰っていく姿が淋しそうだった。
 その帰り道、ケータイを耳にあてがいながら自転車で下校する男子高校生の姿が目に入る。そうした姿は高校生だけでなく、今や日本中、いや世界中、いたるところで目にする光景になってしまった。NTT(ですか?)ソフトバンク(ですか?)に遠慮してか(まさか!)誰も言わないが、あれは明らかにビョウーキ、つまりケータイ依存症である。空を流れる夕焼け雲、塒(ねぐら)に急ぐカラスの姿など一切目に入らず、今別れてきたばかりの、そして明日また会えるだろう友だちとくだらない話を続けている。それで友情が深まる? ウソつけ、仲間外れにならないよう必死になってるだけだぞ。
 帰宅して何気なく(いま流行りの「なにげ」と平気で言うヤツの知性を疑っている)見たテレビの画面では、福島市の仮設住宅に住む目の不自由な老夫婦が、音声で知らせてくれる線量計を手に持って(あるいは持たされて?)、「あゝこれで安心です」などと言っている。本当かねー。本当に安心できる? いや、線量計が無ければ不安になる、つまり線量計依存症が昂ずるだけとちゃう? 五万円もする機械らしいが、線量計製造会社はボロ儲け、今年のボーナスはずみまっせ!
 目が不自由であっても、遠く線量の高いところまで行くこともあるかも知れない若い人ならともかく、仮設住宅と近所の買い物だけの生活で、なんで線量計が必要なの? いや、私はなにも目の不自由な方だから、こう言っているのではない。それが晴眼者の老夫婦だとしてもまったく同じことを言うはずだ。
 つまり以前、子供をいわばダシにして、放射能の怖さを強調する報道機関のやり方を批判したように、ここでも障害者をダシにやたら不安を煽っている報道のあり方を怒っているのだ。本来なら、線量の高いところなどは私たちがチェックしてますから、あなた方はどうぞ安心して生活を楽しんでください、と言うべきなのでは?
 家屋も無事なのにここよりはるかに線量が高い福島市の体育館で「放射能が怖くて」避難生活をしていた若い母親、精密な機械で食品検査をしてもらったのに、それでもなお不安を訴える主婦…そういう人たちを報じる側はいったい何を考えているのだろうと不思議でならない。結論は、何も考えていない頭の悪い連中だとしか言いようが無い。こうして無用な不安・恐怖だけが際限無く増殖されていく。
 まっ、こんなことにいちいち腹を立てていたら身が持たない。今夜は美子も無事にめでたく二日ぶりの大をして安らかに寝てくれたことでもあるし、心を鎮めて感謝の気持ちを持ちませう(これ、わざと旧仮名遣い。今晩はそんな気持ち)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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