さらば、愛しきひとよ!

先日、今は■に住んでいる■から悲しいニュースを聞いた。新聞・テレビをほとんど読んだり見たりしない日が続いているので、目と鼻の先の事件を遠方の知人から知ったというわけだ。そのニュースとは、家からそう離れていないところにある履物屋さんの60代の母親と40代のその長男が凍死のような状態で死んでいるのが見つかったという事件である。死後かなりの日が経っていたらしい。一種の孤独死であろう。
 以前から魂の液状化ということをしきりに言ってきたが、震災・原発事故以後明らかになったのは、地域社会や親戚・友人関係までもがいかに柔(やわ)な土台の上に乗っていたかの悲しくも苦い確認である。原発事故以後、その液状化現象はさらに進み、かつての鬱陶しいがしかし親密で温かな人間関係が冷えきっているだけではなく、さらには寸断されているという現実である。
 愛憎相半ばする、とはよく言ったもので、不正や裏切りに対する怒りや憎しみが希薄なだけ、隣人への愛や思いやりが磨り減ってきている。大都会ならまだしも、こんな田舎にも他人への無関心が進んできているのであろうか。
 話はまた突然変わるが、先日たまたまアマゾンの広告を見ているうち、どうしても手に入れたい二枚のCDが見つかり、新品はめったに買わない主義を無視してさっそく注文し、そしてそれらが今日届いた。一枚はファドの女王、あの「暗い艀(はしけ)」のアマリア・ロドリゲスの「スペイン語歌謡」と、「セファルディ・ユダヤ――魂の紡ぐ歌――岡庭矢宵」である。
 アマリア・ロドリゲスが地元のファド通から批判を浴びながらもスペイン語歌謡を愛し得意にしていたことを初めて知った。17曲ほど、初めて聴くスペイン歌謡が収録されていて、とうぶん楽しめそうである。
 話は変わると言ったが、実は二枚目のCDが今夜の本題と関係している。岡庭矢宵(おかばやよい)という若い(と思う)歌手がセファルディの歌を情感たっぷりに歌い上げているのに驚いたが、今晩はCD収録全曲についての感想ではなく、そのうちの一つ「アディオス、ケリーダ(さようなら、愛しいひと)」についてである。
 15世紀末(正確には1492年、コロンブスの新大陸発見と同じ年)、スペインやポルトガルから追われたユダヤ人をセファルディというが(もう一つ東欧のユダヤ人をアシュケナジムと言う)、彼らの作った歌は、とうぜんその旋律も歌詞も望郷と悲しみの溢れ出るものが多い。そのうちの一曲「アディオス・ケリーダ」は先ほど確かめただけでも、ゆうちゅーぶでいろんな歌手が歌っているのを聞くことができる。岡庭矢宵のCDパンフレットに載っている歌詞はこうなっている。

あなたの母があなたを産んで
この世に生を授けた時
人を愛する心を
お与えにならなかった

さようなら、さようなら、私の愛しいひと
あなたに苦しめられる
そんな人生は望まない

 わーお!、もう一連続くのだが、あまりに下手糞な訳なので写すのが馬鹿らしくなった。
 原語のラディノ語(スペイン語とヘブライ語の混合方言)が横にあるのでそれを参照すると、3行目の「人を愛する心」の「「人」はセグンドとなっており、自信はないがこれは文字通り「二番目の人」、つまり「あなた以外の人」の意味ではなかろうか。
 いや問題にしたいのはそんなことではなく、「愛しきひと」はだれか、ということである。これは恋人のことであると同時に、いやそれ以上に彼らが追われたスペインそのものであることは間違いないであろう。つまりこの歌は失恋の歌である以上に、彼らの祖国(つまりパレスチナを追われた彼らの先祖たちがようやく見つけた第二の祖国エスパーニャ)への激しい望郷の歌なのだ。
 さてここで本題の核心部分に入る。彼らディアスポラ(離散・流浪)の民の心情に、いまもっとも近いものを感じている(はずの)われらの原発難民についてである。
 理不尽な理由で故郷を追われた人たち、避難しないまでもそのとばっちりを受けて、肉体的にも精神的(この方がはるかに深刻かつ甚大)にも完膚なきまで痛めつけられ、先祖伝来の土地や山や川や海を汚された人たち、いやわれわれは、その怒りを、悲しみを、そして募る無念を、抑えるな! 吐き出せ! 叫べ! 怒鳴れ! と言いたい。
 オカミとかギョウセーとかトウデンとかバイショーキンとかシンセイショとか、要するに大事な大事な心の叫びをいつの間にかはぐらかし、ごまかし、手なずけてくるあらゆるものに抵抗し、抗議し、否と言え!
 俺たちの祖国を、故郷を、里を奪い汚したものに、徹底的に反抗せよ! 理不尽なものすべてに怒れ!
 そして怒鳴って、怒って、泣き喚いたあとに、さわやかに微笑め!本当の和解と許しは、本当の、心の底からの怒りや悲しみからしか生まれないんだぞ!
 そのためには先ず、失ったものへの激しい愛が、溢れ出る望郷の念がなきゃ、すべては元の木阿弥、中途半端で、薄笑いの、おべっか笑いの妥協しかありませんぞい!

★追記 私にはその能力がないので私の「アディオス、ケリーダ」は作れませんが、こうなればせめてあの「原発難民行進曲」や「平和菌の歌」などが早く聴きたいし歌いたいです。菅さん、川口さん、よろしく願いまーす!

【息子註】思うところあり、冒頭の文章の一部を修正、また伏字にして再公開した(2020年10月25日)。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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さらば、愛しきひとよ! への3件のフィードバック

  1. 松下 伸 のコメント:

    「言語があらゆる仕方で非領域化の強力な要因の影響を受けている」
    カフカの文学の第一の特徴とされます。
    ドゥルーズ・ガダリ共著『カフカ・マイナー文学のために』

    よく分かりませんでした。
    今日の先生の文章を見て
    少し分かったような・・
                              塵(難解)

  2. 阿部修義 のコメント:

     先生の熱い思いが伝って来ます。「この世に生を授けた時 人を愛する心を お与えにならなかった」この言葉は真実だと思います。人間は愛する事を学ばなければ身に付かないものです。良い習慣も、それを実行する時は意志の力を必要とするもので、それと同じように愛する事もそうだと思います。「理不尽なものすべてに怒れ!」その怒りを越えたところから、新たな「人を愛する心」が生まれる。先生の言われている怒りは、単なる人間の感情から出たものとは違い、冷静に現実を直視し、強固な意志と節度を弁えて発せられた義憤のように思います。先生の怒りは常にそういうものだと私は思います。そして、そういう怒りだから新たな再生の道が生まれて来るんでしょう。

  3. 宮城奈々絵 のコメント:

    私が10代の頃、年末になると、さだまさしさんが主題歌を歌う「年末時代劇スペシャル」がありました。毎年、涙しながら見ていたのですが、特に忘れられないのは幕末の会津藩を主題にしたドラマです。幕末の頃は特に自分の故郷を守る為、故郷の未来を守る為に若者から老年の方まで真剣に考え、行動していたと思います。
    自分が白虎隊について知ったのは丁度12歳でしたので、自分とたいして年の変わらない若者が故郷を愛し、憂い、守る為に戦ったことは心に重く突き刺さり、「クニ」に対する自分について深く深く考えさせられました。
    この原発禍の状況、「国−福島」を見るにつけ、なぜ、また福島なんだ…と正直何度も思いました。
    福島を、故郷を愛する皆様の気持ちが、セイジカやトウデンやカンリョウやゲンシムラの思惑を越え、ふるさとを守れますように、人生を取り戻せますように…と心から願い、祈っています。
    そして、自分の故郷、宮城も復興を果たして欲しい…と願いつつ、自分の出来ることを模索しています。

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