「本日も中央図書館にお越しいただきありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしください。」
いま南相馬市中央図書館の開館時にチャイム代わりに流れる曲「幸福の鐘」の最初の部分のアナウンスの文句である。閉館時にはまた別の曲「希望の鐘」とアナウンスが入る。作曲したのは菅祥久、つまり盃を交わしたわけでもないのにいつの間にか私と義兄弟として認め合ったピアニスト、そしてアナウンサーは声から察して中学生か高校生の女の子(? もしも正式の館員だったら失礼!)。
私がいま聞いているのは図書館でではなく、昨日西内君が菅さんに送るからコピーしてと持ってきたCDである。初めは何気なく聞き流していたが、繰り返し聴いていくうち、心に染み入るような美しいメロディーであることにようやく気が付いた。前にも言ったような気もするが、あの堂々たる(?)体躯からは想像もできないような繊細で素敵なメロディーである。毎日このメロディーを聴きながら図書館を出入りする市民もそう感じるに違いない。
曲も実に味わい深いがアナウンスしている女の子の声を聴いているうち、なぜか不思議な感動を覚えた。原発禍そのものというより無責任な憶測や報道によって散々に痛みつけられた町の女の子が、さあ良い本をたくさん読んで元気を出そうよ、と言っているように聞こえてきたからだ。そうだ心の滋養を充分に摂ってこの町での青春を謳歌しようよ、原発事故のことなんか忘れて、人生のもっとも素晴らしい時期を心置きなく過ごそうよ。
そして対照的に、昨夜の電話での一人の青年との会話を思い出した。町に戻りたいけど親から反対されて迷っている。どうせ帰るなら家族の納得を得て帰りたい。聞いていて、そうだね、まず親を説得した方がいいね、まっあせらずじっくり決めなさい、と答えた。
電話を終えてしばらくしてからやっと気が付いた。そうか、彼自身が迷っているんだ。だったら帰ってこない方がいい。前もって責任逃れをするつもりは毛頭ないが、彼に帰郷を薦めているなんて思われたくない。それで電話をかけ直してこう言った。君が迷っているなら帰ってこない方がいいよ、と。
もちろん私は、誰かが帰郷するかしないかの判定を任されているわけではないが、戻ってきて欲しくない、と思ったのだ。そしてなぜか行き場のない怒りのようなものさえ感じた。つまり彼が、この町の十年先二十年先のことを考えると正直不安になる、と言ったことにこだわったのだ。ざけんじゃない、この町の未来を信じて必死に生きている人、とりわけ子供や青年たちに対して失礼じゃないか、と。
原発事故のあと、たくさんの人から、もちろん肉親や親戚の人たちからも、励ましや同情をいただいてきた。それはそれで有難いし感謝もしている。しかし正直に言うと、時に彼らの言葉や表情の裏に汚染されたものに対する同情、いやそれよりむしろ憐れみの影を感じても来たと言わなければならない。もっと正確に言うと、それは私という人間に対してではないにしても、少なくとも私の住むこの町や土地に対しての憐れみである。つまり汚染地帯という烙印、それが言い過ぎならホーソンの小説の姦通者を示す緋文字、あゝそれもちょっと言いすぎ、だったら武田泰淳の『ひかりごけ』の人肉嗜食者を示す光輪、おっとさらに過激な喩えになってしまう…
こうした感情は過敏なもの、被害妄想であるかも知れない。たぶん、いや大いにそうであろう。しかし時にそう感じる自分がいることもこの際言わなければ、とも思う。こうした感情は、もちろん私だけでなく、ここに住む多くの人に共通したものと言えよう。そして中に生きる者と外から眺める者との間のこの疎隔感は、ある意味では仕方がないこと、避けようもないものかも知れない。病者や障害者や弱者や被害者と、そうでない人との間に横たわる越えがたい溝……。
しかし悄気てなどいられない。健気に必死に、しかも明るく生きている、そしてそうしようと努力している若い人たちを励まし、支え、応援していかなければならない。真の復興支援はまさにここに極まれり、ということをどうか理解していただきたい。今後ともよろしく、よろしくお願い申し上げます。
『緋文字』の主人公ヘスタと「健気に必死に、しかも明るく生きている、そしてそうしようと努力している若い人たち」と私には何故かダブって見えました。先生が英米文学の代表格のホーソンの『緋文字』をここに持って来た意味を考えていましたが、恐らく意図的に入れたように私は思います。原発禍の当事者でなければ分からない様々なことがある事は事実だと思います。回りにいる私たちに出来る事は、この事実を決して忘れず見守り応援し続ける。そして、緋色のA字がヘスタのそれと同じようにAngelやAbleのA字になれるように祈ること。そう私は思いました。