私の小さい頃は、たぶん当時はどこの家庭でもそうだったが、誕生日なんてことさらに祝ってもらえなかったと思う。初めて祝ってもらったのは、小学校四年生のとき、帯広市東三条の煙草屋さんの裏にあった小さな借家でのこと。明日が夏休み明けの登校日だというので、いつもの通りお尻に火が付いたように宿題をやっていた夕方のことである。勤めから帰ってきたばっぱさんが(当時は「お母さん」と呼んでいたが)今日は何の日か言ってみろとおっしゃる。さあ突然そう聞かれても咄嗟に答えられないでいると、そんな歳になっても自分の誕生日が分からないのか、とさんざん説教された。そんな奴にお祝いなんてやりたくはないんだけど、と言いながら、ばっぱさんおもむろに古びた黒い手提げからなにやら平べったいものを出した。「きびだんご」というお菓子である。
ネットで調べてみると、大正2年から北海道の谷田製菓で作られているお菓子らしい。板状のものを包んでいる袋をやぶるとオブラートにくるまれた柚餅子(ゆべし)に似たものが出てくる。いまどきの子供がもらうケーキには及びもつかない素朴極まりない駄菓子だが、今でも時おりスーパーなどで見かけるとどきどきして、つい買ってしまう。
とここまで書いてきて、この菓子については既にどこかで書いたことに気づいた。いや今日書きたいと思っていたのは別のことである。それにしてはいつもの通り前振り(芸人用語らしいが便利なので使わせてもらう)が長すぎたが、言いたかったことは私と同じ誕生日の作家、それも好きな作家に出会ったということである。べつに占いにこっているわけではないから、誕生日が同じであることにことさらの意味を認めているのではないが、でも他のこととは違う共通点だと独り悦に入っている。
貧しいアルメニア系移民の出身で、庶民の哀歓を描くことでは定評のあるウィリアム・サローヤン(1908-1981)である。彼の短編集(古沢安二郎訳、新潮文庫)を読んでいて、そのことに初めて気づいたのだ。好きな作家とは書いたが、実はあまり読んでいなかった。しかしその短編集を読みながらそこに描かれている人間たちへの作者の実に温かな目に感銘を受けたのだ。他にはないか探してみたら、『人間喜劇』、『ロック・ワグラム』が見つかった。いちばん有名な『わが名はアラム』はスペイン語訳があったと記憶していたが、貞房文庫のリストにはない。思い違いかも知れないが、確かにミ・ノンブレ…というスペイン語を見たような気がするのだが。
その代わり(?)アマゾンから『リトル・チルドレン』、『ママ・アイラブユー』『パパ・ユアークレージー』、『ワンデイインニューヨ-ク』、『ディア・ベイビー』を安く(例の魔法の一円で)手に入れ、さっそく座布団のカバーだったいい感じの臙脂の布で表紙を装丁して三冊の合本にした。さてみんな読めるかが問題だが、愛すべき登場人物たちの魅力に引きずられて読み進むことはできるだろう。
「ふつうの人間たち」ほど魅力に富んだ愛すべき生き物はいない。実はその流れで、さらに面白い本との出会いがあったのだが、それはまた日を改めてご紹介しよう。
-
※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
キーワード検索
投稿アーカイブ
-
最近の投稿
- 再掲「双面の神」(2011年8月7日執筆) 2022年8月25日
- 入院前日の言葉(2018年12月16日主日) 2022年8月16日
- 1968年の祝電 2022年6月6日
- 青山学院大学英文学会会報(1966年) 2022年4月27日
- 再掲「ルールに則ったクリーンな戦争?」(2004年5月6日執筆) 2022年4月6日
- 『或る聖書』をめぐって(2009年執筆) 2022年4月3日
- 【ご報告】家族、無事でおります 2022年3月17日
- 【3月12日再放送予定】アーカイブス 私にとっての3・11 「フクシマを歩いて」 2022年3月10日
- 『情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い』 2021年10月15日
- 東京新聞コラム「筆洗」に訳業関連記事(岩波書店公式ツイッターより) 2021年9月10日
- 82歳の誕生日 2021年8月31日
- 思いがけない出逢い 2021年8月12日
- 1965年4月26日の日記 2021年6月23日
- 修道日記(1961-1967) 2021年6月1日
- オルテガ誕生日 2021年5月9日
- 再掲「〈紡ぐ〉ということ」 2021年4月29日
- ある追悼記事 2021年3月22日
- かけがえのない1ページ 2021年3月13日
- 新著のご案内 2021年3月2日
- この日は実質父の最後の日 2020年12月18日
- いのちの初夜 2020年12月14日
- 母は喜寿を迎えました 2020年12月9日
- 新著のご紹介 2020年10月31日
- 島尾敏雄との距離(『青銅時代』島尾敏雄追悼)(1987年11月) 2020年10月20日
- フアン・ルイス・ビベス 2020年10月18日
- 宇野重規先生に感謝 2020年9月29日
- 保護中: 2011年10月24日付の父のメール 2020年9月25日
- 浜田陽太郎さん (朝日新聞編集委員) の御高著刊行のご案内 2020年9月24日
- 【再録】渡辺一夫と大江健三郎(2015年7月4日) 2020年9月15日
- 村上陽一郎先生 2020年8月28日
- 朝日新聞掲載記事(東京本社版2020年6月3日付夕刊2面) 2020年6月4日
- La última carta 2020年5月23日
- 岩波文庫・オルテガ『大衆の反逆』新訳・完全版 2020年3月12日
- ¡Feliz Navidad! 2019年12月25日
- 教皇フランシスコと東日本大震災被災者との集いに参加 2019年11月27日
- 松本昌次さん 2019年10月24日
- 最後の大晦日 2019年9月28日
- 80歳の誕生日 2019年8月31日
- 常葉大学の皆様に深甚なる感謝 2019年8月11日
- 【再掲】焼き場に立つ少年(2017年8月9日) 2019年8月9日
- 今日で半年 2019年6月20日
- ある教え子の方より 2019年5月26日
- 私の薦めるこの一冊(2001年) 2019年5月15日
- 静岡時代 2019年5月9日
- 立野先生からの私信 2019年4月6日
- 鄭周河(チョン・ジュハ)さん写真展ブログ「奪われた野にも春は来るか」に追悼記事 2019年3月30日
- 北海道新聞岩本記者による追悼記事 2019年3月20日
- 柳美里さんからのお便り 2019年2月13日
- かつて父が語っていた言葉 2019年2月1日
- 朝日新聞編集委員・浜田陽太郎氏による追悼記事 2019年1月12日
- 【家族よりご報告】 2019年1月11日
- Nochebuena 2018年12月24日
- 明日、入院します 2018年12月16日
- しばしのお暇頂きます 2018年12月14日
江戸川区に妙勝寺という日蓮宗の寺院があって、そこに仏教学、インド哲学の泰斗で、NHKの「こころの時代」にも出演されていた故中村元先生の「慈しみ」というブッダの教典を訳された石碑を見に、たまに出かけることがあります。『温かなこころ』という著書も出されていて、中村先生が生涯の学究生活で辿り着いた結論は、人間にとって、温かなこころを持つことが一番大切のことだと言われています。アメリカ文学の、いわゆるロストジェネレーションの世代の少し後に出て来たサローヤンの短編集を読まれて、「そこに描かれている人間たちへの作者の実に温かな目に感銘を受けた」と先生が感想を述べられています。今、日本、日本人に一番求められているのは、この「温かな目」であり、温かなこころと私は思います。「何を今さら!」の中でも感じたことですが、先生が「こころの時代」に出演された時に、双葉でお爺さんを看病されているお婆さんのところへ自衛隊員が迎えに行った時、お婆さんが「いや、行きません」と言って、自衛隊員が「そんな問題じゃないんだけどな」と返答したことに、先生が「そんな問題なんですよ」と言われ、個人の尊厳に気付くべきだと言われていました。この気付きこそ「温かな目」であり、温かなこころなんだと思います。