確かむかし文庫本で読んだときも鮮烈な感動を覚えた記憶がある。ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」という短編である。暗い書庫で探すのは面倒なので「貞房文庫」のリストを調べると、『いのちの半ばに』(西川正身訳)、岩波文庫、1983年、 31刷)に収録されているらしい。しかし今回は先日かなり安価で手に入った『ビアス選集』(全五巻、東京美術、1973年第4版)第一巻「戦争」の中の奥田俊介訳である。
話はいたって簡単、南北戦争の最中、北軍に捕まって橋の上で処刑される南部の農園主ベイトン・ファーカーの死の直前の数分間、いやもしかすると数秒間、彼の脳裏に生々しく、しかも細密画のように明確に描かれた「物語」である。とこう書くと、これから読もうとする人にはまことに迷惑千万な種明かしをしたことになる。
つまり、彼が橋の上から両手を縛られたまま突き落とされたあと、奇跡的に縄が解け、岸辺の北軍の兵士たちの一斉射撃をもかいくぐって逃げおおせ、妻の待つ我が家にたどり着くという「物語」は、実は彼の脳裏にものすごいスピードで映し出された彼の願望であることをバラしてしまったからだ。最後のくだりはこうなっている。
「男はわが家の門の前に立つ。あたりは男が出かけたときのままだし、朝日の光の中で一切のものが明るく美しい。おそらく男は一晩中、逃亡を続けてきたのだろう。門を押し開き、広く白々とした径をたどると、女の衣装が風に舞うのが見える。妻が生々と涼しげで、しかも淑やかな仕種で、ヴェランダを降り彼を迎える。石段を降りきったところで、妻はえもいわれぬ喜びに楚々と微笑み、この上なく優雅で気品ある素振りを見せて、待ち受けている……その一刹那、首のうしろに気の遠くなるような一撃が伝わった…
ベイトン・ファーガーは絶命した。首の骨の砕けた男の死体が、アウル・クリーク鉄橋の梁木の下で静かに左右に揺れていた。」
この最後の二行で、読者は事件の真実を知らされるのだが、このわずか16ページにも満たない短編の凄さ、何百ページもの大長編に優に匹敵する文学の真髄を見せ付けられる。ビアス自身、北軍の陸軍中尉だったが、戦争の愚かしさに嫌気が差し、アメリカ自体にも幻滅したのか、動乱のメキシコへの謎の旅に出て、そのまま消息を絶った。72歳、この私と同じ歳であった。
もう一つ、川を流れていく際の描写はこうなっている。
「彼はさざ波が顔に当たるのを感じ、波がうち寄せるたびに音が違うのを聞き分けた。川岸の森に目を移すと、樹木の一本一本、群なす木の葉と、その一枚一枚の葉につく葉脈が見られたし、木の葉にすがる昆虫共――すなわち蝉、銀蝿、枝から枝へ巣を広げる灰色の蜘蛛さえも目にとめることができた。無数の草の葉に宿るすべての露の雫に虹の色を認めた。水流の渦紋の上でたわむれる蚋(ぶよ)の羽音、蜻蛉のはばたき、波にのって艇を進める櫂にも似た水蜘蛛の足の運び――これらすべてのものが耳に響く音に調べを奏でていた…」
久しぶりに文章の凄さに圧倒された。そうだ、人生の意味や死の意味を探すのに、大仕掛けな道具立ても難解で重装備の言葉も要らないんだ。魂を揺さぶられるような感動、心が洗われるような清冽な印象は、大仰な表現や意味ありげな修辞によって喚起されるのではないことを、このビアスの珠玉の短編が教えてくれる。
書評のお手本のような文章に感動しました。「人生の意味や死の意味を探す」のは、「魂を揺さぶられるような感動、心が洗われるような清冽な印象」だと先生が言われています。感動とは、私たちが持っている概念や論理ではなく、私たちの情操、それに伴う直観を通じて湧き出して来るのかもしれません。読む側である私たち一人一人の心の在り方、つまり情操を養っていくことの大切さを先生は「ビアスの珠玉の短編」の書評を通して伝えたかったのかもしれません。