『原発禍を生きる』のスペイン語訳をしてくださっているJさん、いや匿名にする必要もないのでこれからはハビエルさんと言わせてもらうが、予定通り一昨夜、十一時十分に南相馬に来てくださった。と、ここまで使い慣れない敬語を使ってきたが、それもここからは年下の友人扱いにさせてもらう。
いや予定通り、と書いたのだが、そこには私のとんでもない思い違いがあった。東京を午後六時に発った相馬行き高速バスは飯舘村と八木沢峠を通って原町駅前に停まるとばかり思い込んでいたのだ。それで息子と駅前に十一時ちょっと前から待っていたのだが、待てど暮らせどバスが来ない。もしかして途中事故でもあったではと心配になってきて、ともかく息子を家に送り届け、パソコンで営業所の電話番号を調べて問い合わせるよう頼み、自分は再び駅前に車を停めてバスを待っていた。
それでも来ない。家で待機している息子からも連絡が来ない。これはおかしい、と思ったとたん、何と暗闇かハビエルさんの姿がにゅーっと現れた。ありゃりゃー、これはどうしたことか? 要するにバスは町の北はずれのサン・ライフに寄り、そこから駅には回らずに相馬に向かったのだ。彼はそのサン・ライフの前で30分ほど待ったが迎えに来ないので、東京の奥さんに電話すると、タクシーを呼んで駅前に向かうよう指示されたという。
結局、このすれ違い事件の解決にもっとも賢明に対処したのは、東京から的確な指令を発したハビエルさんの奥さんだったという顛末。大東京ならまだしも、こんな片田舎でもこんなすれ違いが起こるわけだ。彼の滞在時間は翌々日の早朝までの29時間、そのうちの貴重な一時間を無駄にしたというお粗末。事前に互いのケータイ番号を確認しなかった不運も重なって、なんとも残念な振り出しだったが、このロスをなんとか取り返そう(レクペレーモス)という私の悔し紛れのスペイン語に彼も大きくうなずいた。
だから翌日は、息子も誘って車でぐるっと街を案内したあと百尺観音見物、そしてその近くのソバ屋で美味しい穴子てんぷら蕎麦を食べた以外は、計算してみれば合計8時間近くも夫婦の居間で彼と差しで話し合ったことになる。いや話し合ったというより、私の方で『原発禍を生きる』のさまざまな背景を語りに語ったというわけである。つまりもしもこの本の中に思想と言えるようなものがあるとすれば、その大半はこれまでのスペイン思想との対話の中で培ってきたものであること、だからこの本がスペイン語になるということは、ある意味でスペインに対する恩返しの意味がある、なんてことまで、延々と説いたわけだ。その間、ハビエルさんは時おり質問やら自説をはさむ以外、熱心にノートを取りながら聴いてくれたので、つい溜まりにたまった思いのたけを開陳することに相成ったのだ。
いやー、さすがのハビエルさんもこのインテンシブ・コースに疲れ果てたのでは、と心配している。でも今朝息子に送られて五時半のバスに乗った彼から、無事帰京した旨のメールが届いて、このやけに熱心だったプロフェッソールも安堵の胸を撫で下ろしている。
ところで集中講義の締め括りは、原著者からの冗談半分のお願いとなった。すなわち、例の夜の森公園での少女との出会いの場面の注かあるいは巻末で、「ケセラン・パサラン」の歌をスペイン語に訳してもらえないか、とのお願いである。その奇妙な言葉の元はスペイン語だとする説もあるなどと注釈すれば、スペイン語圏の読者の耳目を集めるには充分ではないだろうか、などと煽りながら。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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『峠を越えて』の最後の二つの私信で秋山さんが奥様の卒論の中のT・Sエリオットの詩の一節「今が永遠に繋がり、永遠が今に繋がる」の部分を奥様は非常に愛されていますと指摘されていました。「ケセラン・バサラン」の究極の意味は、私の想像ですが、ここにあるように私は思いました。先生も『原発禍を生きる』2011年7月2日「カルペ・ディエム(この日を楽しめ!)」の中で「先のことをくよくよ思い煩うよりも、この流れゆく一瞬一瞬を精一杯楽しもう!この一瞬の中に永遠がある」と言われています。一歩踏み込んで私なりに解釈すれば、先生の「お願い」の中には奥様の魂の言葉、響き、希望が込められているように私は想像します。