先日は『原発禍を生きる』のスペイン語版の訳者ハビエルさん、そして今日は中国語訳を奥様の楊晶さんと進めて下さっている李建華さんの嬉しい訪問があった。他の用事で来日されていたのだが、その合間に仙台回りで寄ってくださったのだ。仙台回りといっても、現在は仙台から常磐線で亘理まで、そこから相馬まではバス、そして相馬からはまた常磐線で原町まで、と実に複雑で長い道中の末のご来駕である。
午前十一時過ぎ、改札口で待っていると、若い頃の写真からすぐそれと分かる李さんのにこやかな笑顔が近づいてきた。作務衣に似た涼しそうな中国風シャツを召しておられた。二十年ほど前、福島、会津、仙台など回られたことはあるが、もちろん相馬は初めてということなので、家にお連れする前に駅通りから旧国道を左折して七月末に行われる野馬追いのメーン会場雲雀が原をぐるっと周って来た。
それから頴美の用意する昼食までの時間、応接間(つまり書庫)でお茶を飲みながらゆっくりお話しをした。今回は、むかし日本文学を勉強された広島まで久しぶりに行き、恩師の磯貝英夫教授に会われたそうだ。90歳になられるのにお元気だったとの嬉しいご報告。実は私は、広島修練院時代、やはり広大の稲賀敬二先生には直接教えていただいたが、磯貝教授には島尾敏雄論(めいたもの)を読んでいただいただけでお会いしたことはない。ところでその稲賀先生が逝かれて、さて何年になるだろう。と、こう書きながらも、今月五日に92歳で亡くなられたもう一人の恩師、作家の眞鍋呉夫さんのことが頭を過ぎる。眞鍋宗匠についてはまだ書く気力が湧いてこない、こうしてお世話になった先生方が次々と亡くなられる、私自身がそんな歳になったということではあるが…
それはともかく(なんて転調はこの際不謹慎だが、宗匠には勘弁してもらって)三時に再び原町駅までお送りするまで、あっという間の短い、しかし実に楽しい時間を過ごすことができた。今日の午後もまた、原発事故を機に繰り出された不思議な運命の糸に導かれての出会いの不思議さを味わわせてもらったわけだ。
ところで雑談の途中、氏がおもむろに取りだした紙片にいくつかの質問が書かれてあり、その中に、百円ショップで買ったストレッチャーや美子の足の運動にとネットで購入したルームマーチのことも入っていたのが面白かった。そうなんだろうな、いかに難しい理屈や感情表現でも、翻訳の際に意外と乗り越えられるものだが、この二つの「もの」には手こずるだろうなと分かったからだ。幸い実物が手元にあったので、その二つをお見せすると、論より証拠とばかり、氏はさっそくカメラに収めた。
ところで氏が愛に向かって何か中国語で話しかけたとき、愛が恥ずかしそうに四本指を示した。つまりいまいくつ、と歳を聞かれたことが愛には分かったということで、爺さん鼻高々。そう、この調子、うんと中国語も勉強して、いつか中国に留学してもらいたい。きっと氏は愛のことを覚えていてくださり、何かとお世話くださるだろう、などと爺さんはいつものように先の長―い夢を見始めるのであった。
※追記 そんなわけで『クロスロード・オキナワ』は録画しておいて李さんが帰られてから見たのであるが、オキナワ問題という重い主題を予想に違わず的確に捉えた見ごたえのあるドキュメンタリーだった。皆さんはどう感じられたであろうか。
徐京植さんの二度目のご訪問の際にご一緒された高橋哲也教授の『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)と合わせて、これからじっくり考えていかねばならない問題であることを改めて感じた。
私たちは常に平常時、つまり、自分の都合、条件を満たしてくれる環境の中においては、冷静に物事を判断し対処できますが、非常時、自分にとって不都合な条件を強いられた時に平常時のように判断し行動できるか。これは、原発問題、沖縄の基地問題から夫婦、家族、介護の問題まで非常に幅広く、日本人全体に問われているものだと思います。
先生が『原発禍を生きる』で問われているのもこの問題のように私は思います。勿論、放射線の恐ろしさ、原発事態の存在に対する否定ということも大きなテーマですが、現実は大飯原発も稼働したわけで一朝一夕に解決できる問題ではありません。
非常時でも先生は常に冷静に物事を判断し、対処されてきました。先生ご自身が身を以って示されています。ここ半年ぐらい先生の書かれた本を暇を見て読んでいて感じたのは、一貫性のある生き方、そして先を見通す確かな眼。『原発禍を生きる』は原発事故が起きてから書かれた本とは全く重みが違います。モノディアロゴスの延長線上で、つまり、非常時に平常時と同じ状態で書かれた本だということに大きな意味、重みがあると私は思います。