珍しいことがあるものだ。この酷暑のせいだろうか。先日は一冊の小説を読み切ったが、今度は一本の映画を最後まで観たのだ。最初の部分は見逃したが、二時間ちょっとの映画だった。震災後初めてのことである。NHK BSで昨日の午後放送されたアメリカ映画『フリーダム・ライターズ』(2007年作)である。ウィキペデイアが要領よく概要を紹介しているのでコピーする。
1994年、カリフォルニア・ロサンゼルス郊外の公立高校に赴任した新人英語教師・エリン・グルーウェルは、荒れ放題のクラスを受け持つことになる。人種ごとにいがみ合い、授業を受ける気など更々ない生徒たちを相手に、エリンは授業の進め方に苦心する。人種差別の愚かさを生徒たちに教えようと、エリンは『アンネの日記』を読むことを勧め、毎日何でもいいから日記を書くように、と1冊ずつノートを配る。最初は罵り言葉ばかりしか書いていなかった生徒たちは次第に本音を綴るようになる。エリンは日記を通して、生徒たちと向き合うようになり、生徒たちも次第にエリンに心を開いていき、悲観的だった将来を改めていく。
生徒たちが書いた日記は、一部ずつを集め1冊の本として出版され、ベストセラーとなった。その後、グルーウェルと生徒らによりNPO団体「フリーダム・ライターズ基金」が設立された。
つまりこの実話を基にしたなかなか見ごたえのある映画である。プロデュースし自ら主演したのはこれまで2度もアカデミー主演女優賞を獲得したヒラリ-・スワンク。受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』は飽きて途中までしか観なかったが、今回の熱演は最後まで観ることができた。
現在の大統領は黒人系だが、しかしアメリカの最大問題の一つが人種問題であるという現実がこれで良い方向に向かっているのかどうか、これはまったく予断を許さない。もしかすると大きな揺り戻しが来るかも分からない。かつてアメリカの屋台骨を作っていたのはWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)であったが、しかし現在も国の危急をめぐっての対応に、退化したはずのその屋台骨がにわかにきしみ出す。しかし映画の女性教師のように現実打開のために英雄的な働きをする人が途切れることなく登場してくるというのも、残念ながら日本社会には滅多に見られないアメリカ社会のダイナミズムであろう。蔽うべくもないアメリカ社会の腐敗部分を、時たまだが「自由の女神」は確実に照らし出すのである。
ところでこの映画鑑賞と時を同じくして人種問題に触れたエッセイを読んだ。同じ作者の古い文庫本を何冊か合本にして布表紙にする作業で、映画を観る直前にたまたま五木寛之のエッセイを読んだのである。多作の作家にしては私が持っている彼の本は意外と少ない。今回合本にしたのは、『ソフィアの秋』と『スペインの墓標』という2冊の短編集と、『風に吹かれて』と『地図のない旅』という2冊のエッセイ集である。ところがベストセラーになったらしいその『風に吹かれて』の中にとても気になる部分があった。「鮨とカメラと青年」というエッセイの中のこんな文章である。
「…私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。…私はその美しい白人女と、それを見ている群集の中に、黒人に人種差別をしないヨーロッパの目を感じたのだった。彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を区別していた。人間とテリヤや、九官鳥が違うように。
私はアメリカに一つの希望をもっている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
…彼ら [アメリカ人] が、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか…
だが私は、黒人を区別する人間たちと、その世界をひどく怖いものに感じる。アメリカの差別のほうに、より人間的な苦しみを見るような気がする…」
もちろん五木寛之は差別を肯定しているわけではない。しかしこのヨーロッパ人とアメリカ人の対比はいかにも小説家的(?)に屈折していて、明らかに間違っている。
確かに差別問題、人種問題は複雑で難しい。パリの白人女性の中には黒人をダッコちゃん人形扱い(これを作者は区別と呼んでいる)をしているとんでもない女がいるかも知れない。しかしそう断ずるのはヨーロッパ人に対して、いやそれ以上に黒人に対して失礼ではなかろうか。
もちろんヨーロッパ人をひと括りに論じることなどできないが、しかしたとえばアングロ・サクソン系とラテン系に限定して、その両者を大雑把に比較することはできよう。すると北米に入植したアングロ・サクソン系の人たちは殺戮から生き残った先住民のインディアンを、それこそ家畜のように囲い込んで保護(!)はしたが、両者の混血も、またそれ以後続々と送り込まれたアフリカ系黒人とのあいだの混血も、まったくと言っていいほど行われてこなかった。それに反して、ラテン・アメリカを見ていただきたい。たとえばメキシコなどは国民の大半がインディオとスペイン人の混血(メスティソ)なのだ。確かに差別や虐待はあったが、しかし男女が結びついて子供をつくることは、まさに「同じ族」と見ていた何よりの証ではなかろうか。
五木寛之がパリで見た白人女性と黒人男性の関係、そしてそれを許しているヨーロッパ社会を「怖い」と感じたのは、それが差別ではなく区別だからと言っているが、このエッセイを読む限り、まったく説得力がない。ヨーロッパとアメリカとの比較で言えば、新世界でインディオと遭遇し、彼らの文化を壊し、残虐非道な扱いをしたスペイン人やポルトガル人ではあるが、1538年には早くもエスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国)にインディオも入れる大学を作ったり、そのインディオたち擁護の論陣を張ったラス・カサスやビトリアがいたし…ともかくアングロサクソン系の歴史家たちによって喧伝されたスペインをめぐる「暗黒伝説」はかなり割り引きしなければならない。いやそれ以前からイスラム世界とそれこそ死活の争いを経験してきたスペイン [人] やヨーロッパ [人] に、人種問題も含めて、より成熟した人間社会を見るのは私の僻目だろうか。
私より確か七歳年上の五木氏に多くの共通した見方・感じ方・考え方があるのはとうぜんだが、この人種問題をめぐってのアメリカ贔屓にはまったくついていけなかった。