久しぶりに風邪を引いた。夏風邪らしい。エアコン無しで二台の扇風機で頑張っていたときには引かず、エアコンが入ったとたんに引いたので複雑な気持ちである。幸い熱も無いし、とりわけだるいというわけでもないが、鼻水がしきりに出る。夏風邪は長引くと聞いたことがあるので、辞書で調べてみると、「特定の病名ではない。ふつう感冒、咽頭結膜熱のようなウィルス感染症や寝冷えに対する反応なども含まれる。夏の暑さや冷房のために安静と保温を保ちにくく長引くことが多い」、なるほど。
そうこうしているうち、孫の愛も引いたらしく、今日は大好きな幼稚園を休んだ。私と違って熱があるようだが、元気だけはいつもの通り。子供の原因不明の発熱は智恵熱といい、これを契機に一段と智恵がつく、などと夕食時に知ったかぶりの講釈を垂れたが、後で辞書で調べてみると、ふつう智恵熱と言うのは生後半年から一年のあいだによくある発熱で、知能発達とは関係がない、と出ていた。なるほど。
しかし幼児の言語表現発達の早さには驚くべきものがある。愛は4歳になったばかりだが、毎日のように新しい表現が増えていく。最近の傑作は、「それ気のせいだよ」である。どこで覚えたのだろう。面白いので、さっそく爺さんはこれを使って遊びだす。
「ママ、おなかいっぱい、もう食べられない」と愛。するとすかさず隣りの爺さんが言う、「それ気のせいだよ、本当はまだおなかいっぱいじゃないんだよ。まだ食べられるよ」
あゝ辛いことや悲しいことがすべて気のせいだったらいいんだけど。でももしかすると、辛いことや悲しいことは、私たちがそう思ってるだけで、本当はそんなに辛いことでも悲しいことでもないのかも知れない。
もう一つの傑作は、やはり食事のとき、お気に入りのご馳走を口にほうばったままのたもうたこの言葉である。「幸せだねー」。それ以来、爺さんも、この夏いつもの年より頻繁に食べるスイカなどを前にすると、愛と口をそろえて言うことにした。「幸せだねー」
今日も一日、どこにも出かけず、古本蘇生術に精を出した。中にモーリャックの小説が7冊ほどあったが、『癩者への接吻』と『火の河』の巻末にそれぞれ1960年三月参宮橋、同年十月四谷で購入と書いてあった。大学二年生から三年生にかけてモーリャックを集中的に読んだらしい。初台のレデンプトール会修道院が経営していた学生寮から大学に通っていた時代である。たしかその年の秋のある日曜、何気なく聞いた説教のあとで忽然と修道者になろうと思い立ったわけだ。
いま手に取ってみてもそれら小説の中身などすっかり忘れている。『蝮のからみあい』、『テレーズ・デスケイルウ』…題名だけはなんとか覚えているが、中身となるとまるで思い出せない。もしかすると読んだことも、その後五年間修道生活をしたこともすべて気のせいかも知れない。いやもしかすると、カルデロンが言うように、人生そのものが一場の夢かも。
でもたとえそうであっても、つまり人生が夢であったとしても、その夢を精一杯生きるしかない。死ぬときになって、「われ良き戦いを戦えり」、と言えるように、その気になってがんばっぺ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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暑さも9月に入って峠を越えたように思いますが、まだまだ残暑が厳しい毎日です。先生、ご家族の皆様体調には十分気をつけてください。
モノディアロゴスの中で先生が、愛ちゃんは何事も簡単には諦めないと言われていたのを覚えています。何かをする時は必ず障害があるものですが、忍耐強く、自分の目標に向かって飽きることなく成し遂げることは大切なことです。
秀吉が「浪速のことは夢のまた夢」と言っていたのを思い出しました。「人生が夢であったとしても、その夢を精一杯生きるしかない」と言われた先生の言葉に、「何事も簡単に諦めるなよ」と私たち読者にエールを送ってくれているように思いました。いや、私の気のせいかもしれません(笑)