Eさん、いつものように綿密な下調べをした上でのコメントご苦労さんです。あなたの結論も共同管理論に傾いているように見受けられますが妥当な結論です。あなたは、領土問題のこれまでの経緯をきちんと整理しています。しかし正直言いますと、私自身は、歴史的経緯とかこれまでの当事者双方の思惑をいちいち検証してみてもほとんど意味が無い、と考えています。
これまでの経過からも分かるように、当該領土が自国のものと主張する根拠を互いに出し合ってきましたが、まったく噛み合ってません。なぜなら双方とも自説を絶対正しいと思い込んでいるからです。どうしてでしょう? それは生きて流れる人間の歴史的事象を、どの断面・局面で捉えるかによってまったく違った見方・解釈が可能だからです。そう、名画『羅生門』の原作の一つ、芥川龍之介の『藪の中』の世界なのです。人間を相手とする歴史は、物を相手とする物理学や化学などと根本的に違います。
さあ、どうします? 検非違使ならぬ国際司法裁判所にでも訴えますか? しかしそうしたとしても、どちらかが100パーセント勝訴することなどまずありえません。下手をすると五分五分、つまり喧嘩両成敗という判定が下るでしょう。まさに痛み分けです。不利な裁定を下されたと考える側(つまり双方?)には、以前よりもっと強い遺恨が、しこりが残ります。結果は、以前より悪くなりませんか? 今回一部の政治家たちは、わが国がアメリカと緊密な同盟関係にあることを強調すべきだとか、国際司法裁判所に提訴すべきだとか言ってきましたが、自分の決めるべきことを第三者に委託するという意味で、二つともわが国政治家たちの主体性の無さの現われではないか、と思ってました。
先人たちが法廷に持ち込まなかったのは、優柔不断とか弱腰外交だったからではなく、提訴はかえって事態を難しくすることが分かっていたからではないかと思います。要するに問題は「理屈」ではなく「意志」の問題なのです。究極のところ、お前は何を望んでいるのか、ということです。
原発に反対することについても、私は縷々その理由を述べたことはありません。白状すれば考えたことすらありません。それが自然に反することだから、そして人間はそれを完全に制御することはできないから、というまことに単純至極な、ある人たちからは単に感情的だといわれる理由から反対してきました。これから先だって、原発の歴史・仕組み、推進論・反対論それぞれの根拠など調べることはおろか、考えることさえ鬱陶しくてやる気がしません。
領土問題に関しても、私の考え方は気が抜けるほど簡単明瞭です。つまり隣国同士気に食わないといって引っ越すわけに行かない、だとしたら、面子とか名誉など持ち出さないで、両者が共に幸福に(とはまた漠然とした言い方ですが)なるよう、そしてちょっとのことで、これまで繰り返してきたような後戻りなどしないように努力すべきだ、ということです。
もちろんこれは歴史認識という根本的な問題をひとまず考えないでも言えることです。あゝ歴史認識という大きな問題を考えたら、以上の理由など一気にぶっとんでしまいます。つまり何が何でも中国や韓国(本当は朝鮮と言いたいのですが)と仲良くしなければならない、相手が渋っても、礼を尽して根気よく仲良くするよう願わなければならない。
先日は中国や韓国に対して、日本との過去の歴史を教える際に反日感情を煽らないように、などと注文をつけましたが、ほんとうのことを言うとそんな注文をつける資格など当方にはまったくございません。たとえば慰安婦(正確には従軍慰安婦と言うべきでしょうが)問題です。先日大阪の橋下市長に面会を求めた韓国の元慰安婦金福童(キムポットン )さん(86歳)のことが報じられました。かねがね従軍慰安婦問題に関してこんなことを考えてきました。彼女たちがいわば恥も外聞も捨てて真実を明かし謝罪を求めているとき、彼女たちと触れ合った(もっと正確な言葉がありますが、さすがそれだけは控えます)元日本兵たちは何を考え、どう行動してきたか、と。たぶん世間体や可愛い孫たちのことを考えて(その気持ち、痛いほど分かります!)、ひたすら沈黙を守り、あれは悪夢だったんだ、あんな過去は無かったんだ、と思い込もうとしたんでしょう。そしてこの人たちももうかなりの高齢、たぶん恥は墓場まで持っていこうとしているんでしょう。もしやあなたの家のお爺ちゃんも? そう、そんな話、※※ちのお爺ちゃんも他言無用であなたに打ち明けたことがある?
[これら元日本兵たちの内心のつぶやき] こんな気の弱い私が、軍の公認、いや軍がしきってなかったら、そんなところに……本当は為政者たちが意を尽くして謝罪し、それをゆめゆめ撤回したり言い換えたりなどしなければ、私たちは後悔しながらも、しかし安らかな気持ちで死んでいけるのに、愚か者たちの妄言でこうしてまたもや古傷がうずく。これじゃまっこと、おめおめ死ぬこともできやしない…
ところで今朝の朝日新聞にまたもや素敵な社説を見つけました。私の願いが通じたのでしょうか?(まさか、でもひょっとして) 先日は毎日新聞の記事全文を紹介したので、今回も社説全文を転載させてもらいます。
仏独の50年―不信を乗り越えた歩み
朝日新聞10月8日
昨日の敵は今日の友」というが、フランスとドイツが築き上げた信頼と友情がこれほど長続きするとは、1世紀前の両国民はまったく想像できなかったのではなかろうか。
仏独協力条約(エリゼ条約)ができてやがて半世紀になる。
19世紀半ばからの100年近くの間に双方は3度も戦争をして、多くの犠牲者を出した。それが今では「欧州統合のエンジン」と呼ばれる関係だ。
きっかけは、1962年9月にドイツを訪れたドゴール大統領の演説である。アデナウアー西独首相との会談を前に、彼はドイツ語でこう語った。
「若者たちよ。偉大な国の子たちよ。両国民の連帯に息を吹き込むのは君たちの役割だ」
当時、14歳だったフォルカー・シュタンツェル少年は自宅のラジオで演説を聞いた。まだナチスへの敵意と憎しみが周辺国に色濃く残っていた時代だ。
「この国の人々と友人になることができるかな、と。その感激の気持ちは今でも忘れられない」。長じて外交官になり、いま駐日ドイツ大使として活躍するシュタンツェル氏は最近、自らのブログにそう記した。
少年を感激させた言葉は大きな成果をもたらした。
翌年1月に条約が調印されて以来、首脳や外相、国防相らの定期協議が続いてきた。隣国の家庭にホームステイし、言葉を学びあう。そんな交流事業を通じて若者たちが偏見を捨て、相互理解を進めたことも収穫だ。
注目したいのは、両国における戦争の記憶の変わりようだ。
コール西独首相とミッテラン仏大統領は1984年、両国の激戦地、フランスのベルダンで手をつなぎあって両大戦の犠牲者を追悼した。シュレーダー独首相とシラク仏大統領は2004年、連合軍のノルマンディー作戦の上陸地を訪れた。
犠牲者の追悼を、国家の枠組みにとどめず、痛ましい過去をともに省み、共通の未来を築く場とする。共通の歴史教科書を作り、テレビ番組を共同で制作する。こうした積み重ねによって、両国民は互いの不信を克服していったのだろう。
欧州統合の原点も仏独の不戦の誓いにある。資源の争奪が戦争の引き金にならないよう、両国は石炭や鉄鋼の共同管理を主導し、欧州の経済通貨統合も引っ張ってきた。
シュタンツェル大使は「ブログに思い出を記した時、今の日本と中国のことが少し心に浮かんだ」と語る。半世紀にわたる仏独の歩みを、東アジアの現状を考える手本にしたい。
願わくはドゴール大統領のような大胆かつ胸に響くメッセージを発することのできる政治家が出でんことを! こういう精神こそ維新の理念たるべきなのに、この名を掲げるわが国の政治家たちときたら、トホホホ、あの体たらく…いえこれは私めのツブヤキでごぜえやす、はい。
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という詩に人は何故感動し勇気づけられるのか。この詩には実在の人がいたそうですが、この人を不幸な生涯と思う人はいないと私は思います。自分のことばかりにかかずらっていても欲望は切がなく決して幸せにはなれないんじゃないでしょうか。
ロビー外交という言葉を聞いたことがあります。各国の首脳陣が会議室から出てロビーで雑談をすることで難局な問題を打開に導くことがあるそうです。その際の会話の内容は各国首脳陣の古典的教養がベースになるそうです。日本人は最先端の技術や利潤の要領には長けているそうですがロビーでの雑談は不得手なようです。
人間はどうしたら気持ち良く動いてくれて協力してくれるのか。ドゴール大統領が「若者たちよ。偉大な国の子たちよ。両国民の連帯に息を吹き込むのは君たちの役割だ」と言われた言葉に何故シュタンツェル少年が感動したのか。ドゴール大統領の人間を熟知した教養を私は感じます。
先生の言われた領土問題の解決案は、人間の真の幸福とは何かを追求した結果必然的に紡ぎ出された結論のように私は思います。
佐々木先生、私は、尖閣列島や竹島で、日中韓双方が島に上陸したり、付近に漁船等を航行させたりする報道に接すると、どうしても、「犬のオシッコ」を連想してしまいます。犬がちょこっと足を上げてそこらへんでオシッコをして縄張りを確認しますが、アレを連想するんですね。領有権の主張もこれと変わりないのではないでしょうか。東京都知事などは日本側の犬の親方で、きゃんきゃん吠えているだけですが。
私も最終的には「意志」の問題だろうと思いますが、別の視点からこの問題をみる必要があるのではないかと思います。
尖閣列島については、「沖縄」の立場からは別の視点があると思います。
私は沖縄が好きで、これまで70~80回くらい沖縄に行きましたが、自然、琉球沖縄の歴史のことも多少勉強しました。
尖閣列島の領有権問題で日本と中国とが正面から対峙したのは、明治維新後の琉球の帰属が問題となったときでした。琉球は独立国ですが、実際には薩摩藩に支配され、一方、清との間とは朝貢関係にあり、古くから中国から官僚等の人材も供給されるなど深い関係にありました(今の沖縄県知事もその末裔にあたります)。
このような両属関係にあったため、明治維新後、琉球がどちらに帰属するかが問題となりました。
1879年にいわゆる「琉球処分」があり、清が日本に抗議し、翌1890年、アメリカ大統領のグラントが仲介に入り、日本側は「先島分島論」というものを提案しました。
「先島」というのは、宮古島と石垣島及びその周辺の島々のことを指しますが、日本側は琉球本島は日本に帰属し、先島は清に帰属するとの提案をし、仮調印までしました。清側は三島分割論(先島は清に帰属、奄美は日本に帰属、琉球本島は独立)を主張し、その後、解決しないまま、日清戦争となり、結局、先島を含めて、琉球全部を日本の領土としました。
尖閣は古来から日本の領土だということを政治家やマスコミが真顔で主張していますが、今紹介した歴史的事実からもこれは間違いだということがわかると思います。
一方で、清の方も問題で、1871年に宮古島の島民が台湾に漂着して、50数名が原住民に殺害されるという事件がありました。日本は清に賠償を請求したところ、清はそれを免れるため、台湾の支配権を否定しました。それを言質として、日本は台湾に出兵し武力制圧します。
これらの歴史的事実をみると、「領土」というのは、ようするに、帝国主義国家の分捕り合戦の結果を反映しているものにしかすぎないと思います。もっと言えば、「領土」「領有権」というのは「幻想」ではないかと思います。
さらに、尖閣に関して言えば、今も沖縄の人々は日中米の強大な国家に翻弄されていると感じます。先月行われたオスプレイ配備反対集会に私も参加してきましたが、沖縄の人の怒りはすさまじいものがあります。本土ではろくに報道もされませんでしたが、10万人くらいの人々が集まりました。
オスプレイ配備の問題は、沖縄では数年前から問題視されていましたが、具体的な配備が準備された段階で、反日運動が激化されたことと無関係ではないと思います。私は尖閣問題とオスプレイ配備の問題は「セット」ではないかと思います。反日暴動を考えるとオスプレイ配備に反対しにくいという「雰囲気」がどうしても醸成されます。アメリカの深慮遠謀を感じます。
北方領土についても、以前からアイヌやその他の先住民族が暮らしていたという事実を忘れてはならないと思います。アイヌ民族等は「国家」を持ちませんでしたから(そもそも「国家」という概念がありません)、琉球沖縄の人よりももっと悲惨なことになりました。
残念ながら、以上述べたような「視点」を政治家もマスコミも持っていません。あたかも日本が古来領有してきたことを当然のこととしています。「リベラル」派の新聞・雑誌等もそのことを大前提として、「冷静な解決」を訴えているかのように見えます。日本がポツダム宣言を受諾して、日本列島以外の領有権を放棄した事実すら忘れているかのようです。
それどころから、特に一部の雑誌やネットでは盛んにナショナリズムを煽ります。大勢で犬のオシッコをしているようで、困ったものです。
長くなって申し訳ありませんが、最後に「いい話」をさせてください。
先月も小高でボランティア活動に参加したのですが、大阪から来た青年と一緒になりました。この人、大阪から新幹線を乗り継ぎ、福島駅からは、ボランティアの当日の朝タクシーで鹿島まで来たそうです。福島駅から南相馬にバスが出ていることを知らなかったそうですが、帰りも、時間の関係で福島駅までタクシーで帰るとのことでした。タクシー代だけで往復約4万円です。
私はびっくりしたのですが、その青年は、「ぼくはこういうときのために貯金をしてきた。だから、ぜんぜんもったいないとは思わない。1年半経ってようやくボランティアに来られた。嬉しい」と平然としていました。
いかにも「安サラリーマン」という感じの青年でしたが、こういう人は決して大言壮語はしないし、犬のオシッコなどしないでしょう。こういう人たちがこの国を支えているのだとつくづく思いました。
私は今月20日、21日にも小高に行く予定ですが、また、こういう人たちに会えるかと思うと楽しみです。
長文失礼しました。
上出さん
とても有意義なコメントありがとうございます。私も沖縄問題と領土問題さらには原発問題、そしてその延長線上に戦争と平和の問題、すべては同根の問題と認識しています。これからも少しはマシな日本、世界になるよう頑張りましょう(といって、私は掛け声しか出せませんが)。
小高でのボランティアで出会った青年のこと、本当に頭が下がります。日本の未来を考えると、ときどき絶望的になりますが、あなたやこの青年のような方がいることで、またじんわりと希望が湧いてきます。
20の日は日中来客がありますが、その日の夕方から翌日21日の夕方までは時間がありますので、もしお気が向いたら拙宅にお茶でも飲みに寄りませんか。電話などは、ホームページのメールアドレスから問い合わせていただければ喜んでお教えします。では。