鱓の歯軋り?

十年間ほとんど毎日(ではないか)、飽きもしないで(ん?、いや、時にはウンザリしながら)文章を書いてきた。だから人間と人間の関係、その複雑な感情の動きなどたいていのことはなんとか表現できるようになった(何たる自信過剰!)。そのため現実の困難にぶつかって二進も三進もいかなくなったときでも、書くことによってなんとか難局を乗り切って、いや、すり抜けてきた(それは本当)。しかしいま書こうとしていることは実に難しい。何がなにやら自分でも分からなくなり、途中で投げ出す仕儀になるやも知れぬ。その時はどうぞご勘弁を。
 さて何から始めようか。そう、昨日の午後、徐京植さんから韓国の著名な写真家・鄭周河氏の『奪われた野にも春は来るか』という分厚い写真集が送られてきた。昨年三月の大津波・原発事故後の被災地の風景を撮ったもので、ページを開くや否や、その見事な映像に引き付けられた。それは瓦礫の山とか防護服の作業員たちを撮ったいわば定番の現場報告とは違って、ここ南相馬のものも含めて、見慣れたのどかな田園風景や農家のたたずまいを撮ったものだ。しかし良く見ると、ほとんどの写真の中に人間の姿がない。そのあたりのことを徐さんが解説でうまい表現を使って説明していたが、いま手元に無いので正確な引用はできない。つまりのどかに見える風景も実は荒廃していたわけだ。
 写真集がいま手元にないのは、午後拙宅に来た西内君に貸してしまったから。端折って言うと、その写真集が送られてきたのは、南相馬で展示会ができないだろうか打診するためであった。二日前の電話でその話を聞いたときから、実は実現のためにお役に立てれば、と思っていた。実物を見てさらにその意を強めた。西内君も同様の感想を持ったようだ。こういう場合、実働部隊長(といって隊員はいないが)は西内君。今回もその例に漏れず、写真展開催の可能性を各方面に働きかけてくれることになった。
 ところで写真集のいささか長めのタイトルは、私には初めて聞く名前だが、朝鮮の詩人李相和(リ・サンファ、1901-1943)の詩の題である。序でだから少し長いがその詩全文をご紹介する。ネットで拾った訳文なので、もしかするともっといい訳があるのかも知れないが、これだけでも詩の素晴らしさは充分伝わってくる。


今は他人の地―奪われた野にも春はくるのか


わたしは全身に陽光を浴び
青い空と青い野が交わるところめざして
カリマ*のようなあぜ道を夢の如く歩いて行く

口をつぐんだ空よ野よ
わたしにはひとりで来たような気がしないのだ
おまえが誘ったのか誰が呼んだのか もどかしい 答えておくれ

風は耳元でささやき
一歩も立ち止まるなと裾をゆすり
ひばりは垣根越しの乙女のように雲の間で嬉しそうにさえずる

ありがたく育った麦畑よ
ゆうべ夜半を過ぎて降った美しい雨で
おまえは麻束のようなその髪を洗ったのか わたしの頭まで軽くなったよ

ひとりでも勇み行こう
乾いた田を抱いて流れるやさしい小川は
乳飲み子をあやす唄をうたいひとり踊り行くよ

蝶よ燕よ そんなに急かすな
たんぽぽや野の花にも挨拶しなけりゃ
ひまし油塗った人が草刈した野だからしっかりと見ておきたい

この手に鎌を持たせておくれ
ふくよかな乳房のようなこの土を
足首が痺れるほど踏みしめ心地よい汗をも流してみたい

川辺に戯れる子供のように
飽きもせずきりもなく駆けまわるわが魂よ
何を探しているのか 何処へ行くのか 可笑しいではないか 答えておくれ

わたしは全身に草の香をまとい
青い微笑と青い悲しみが交わるなかを
足を引きずり一日中歩く どうやら春の神霊にとりつかれたようだ

しかし今は―野を奪われ 春すらも奪われるというのか

   * 髪の分け目の白いすじ                                          ([朝鮮新報 2004.1.21]掲載)

 
 一見、美しい田園詩だが、これが書かれたのが1926年、つまりすでに日本の植民地となっていた朝鮮で作られたものであることを考えると、詩はとたんに別様の意味を帯び始める。すなわち底流する悲しみ、憂い、そして怒りが浮かび上がって来る。日本帝国に奪われた野…、そして今回の写真の被写体となった国策原発による事故で奪われた野…、両者はここで一気に結びつく。鄭氏がこの詩を写真集の題名に選んだ理由は明らかである。そしてそのことを徐さんは次のように解説する(写真集掲載のものと同一かどうかは知らないが、これもネットで拾ったものである)。

 この詩で福島を表象することにはどんな意味があるだろうか? 私はそこに積極的な意味があると考えるようになった。 “春は来るのか” という問いは “春は必ずくる” という根拠のない未来指向的標語ではない。 季節としての春は巡ってきて花が咲いたとしても、何かが決定的に損傷されたということ、“春さえ奪われるのだね” ということがこの詩の重要なポイントだ。
 日本政府と東京電力の説明でさえ原子炉廃棄までに40年という歳月がかかるという。その時まで放射能は広がり続けるだろう。 一方、汚染除去は技術的に困難で莫大な費用がかかる。 いっそ汚染された土地を放棄して移住を推進しなければならないという専門家の指摘もある。放射能被害は目に見えず臭いもしない。だが、それは未来の何世代にもかけて健康と生活に決定的な損傷を負わせ続けるだろう。 健康被害を確認できるのは今から数年後になるだろう。それが原子力発電所被害の本質だ。そうであれば ‘併呑’ されて100年が過ぎた現在も植民地支配による損傷が朝鮮民族全体の暮らしに決定的な影響を及ぼし続けている事実と共通点があると言える。

 昨晩、実は徐さんにもメールしたことだが、この解釈に99.9%共感しながらも、しかし私の中で何かが「軋む」。冒頭に書いた「難しさ」は実はこの辺のことである。さあ、この違和感をなんと説明しよう。
 以前、NHKの番組「心の時代――フクシマを歩いて」の時にも、99.9%の共感と同時に、小さい、しかし私にとっては大事な違和感があったが、それは今回のものと似たところがある。あの時の違和感は、あの映像の流れでは私は線量の高いところに、病妻その他の理由はあるにしても、いわば意固地に留まっていると思われる作りになっていた。ただし話の筋としてはその小さな齟齬を無視した方が分かりやすいのだろうな、と諦めたことがあった。
 それと似たような別の話をしよう。実は最近、ある新聞のインタビューを受け美子と一緒の写真も撮られた。しかし記事になる前の原稿を読んで、担当記者と意見の行き違いが生じ、結局私についての記事はボツになるということがあった。それは同じ記事の中で、もうひとりの人といわば同列に並べられたことへの不満がきっかけである。つまりそのもうひとりの人と原発事故後の姿勢、大げさに言えば生き方の違いにまったく触れられていないことへの異議申し立てだったのだが、それが記者氏にはたんなるイチャモンに思えたらしい。
 もう少し詳しく言うと、その人ならびに彼のグループは、南相馬市が年間1ミリシーベルト以下に除染されないうちは、緊急時避難準備区域〈あゝ懐かしい呼称!〉などの縛りを解除をしないよう署名運動をしたことに対して、まったく反対の意見だったからだ。私の主張は意味のない20キロ、30キロの輪切りを一日も早く見直すことであって、区域設定をそのまま存続させることには絶対反対だった。事実、もし彼らの運動が功を奏していたら、南相馬は今のように立ち上がることができないほどの致命的なダメージを受けていたと思う。
 あの児玉教授の発言やIAEAの天野事務局長の態度について私が書いた異議申し立ても似たような考えからだったが、しかしそれを理解してくれる人は少なかった。だから先日、上出氏と一緒に拙宅を訪ねてくれた織田桂子さんが、天野氏の態度は確かにおかしかったと言ってくれたときには、敵地で味方に出会えたように嬉しかった。
 さていま述べた二つ(三つ?)のことと、前述の難しさとどういう関係? 簡単に言えば、憂うべき現状を全否定するのではなく、可能な限りプラス要因を見つけ、それを手がかりに牛歩の歩みでもいい、希望に向けてじわじわと歩いていくこと…やっぱり説明がむつかしい。ある人から見ればそれは現実逃避、つまり現実を見ないでいたずらな夢を見て生きることだ、と言うだろう。それに抗弁することは、本当に難しい。
 まだ説明になっていない? そうでしょうなー。じゃ先ほどの徐さんの解説に戻ります。99.9%共感しながらも何かが「軋る」と書いたが、それは文中のこういう表現である。

「いっそ汚染された土地を放棄して移住を推進しなければならないという専門家の指摘もある。放射能被害は目に見えず臭いもしない。だが、それは未来の何世代にもかけて健康と生活に決定的な損傷を負わせ続けるだろう。 健康被害を確認できるのは今から数年後になるだろう。」

 この文章に異議申し立てなどできるはずがない。だからこそ「軋る」と言った。そう、まさに鱓(ごまめ)の歯軋りである。しかし歯軋りにもそれなりの理由がある。つまり事態がいささか単純化されていないだろうかという不満である
 確かに鱓ほどの小さな土地だが、その上で必死に生きている。しかし無謀にも、ではない、それなりに考え、これしかないだろうと思う最善の生き方としてこの地に生きることを選択した。絶対安全な選択ではないかも知れない。でもこの世に生きるうえで絶対安全な土地がどこにある? 地球上、人間を病や死から完全に隔離する場所などどこにも無いではないか。不遜な言い方、誤解を受けやすい表現かも知れないが、この地に踏みとどまり生活することは一種の賭けである。しかし人間にとって一種の賭けでない「生」などどこにある? 生は不確かさの中の絶えざる決断の連続ではないのか。
 線量の高いところならまだしも、私たちの住む地域にいまだ四割近くもの人が戻っていないのは、善意からのものではあるが被災地に対する放射能の一律の危険警告に影響されて、将来への過剰な心配を増幅させてきたからだ。確かに遠くから見れば、我が町は未だにピンクか赤に塗られた危険地帯に見えるはず。しかし私が早い段階から人体の例を使って主張してきたのは、幸いにもわずかながら健康な皮膚が残っていた、先ずはその上で生き始めようよ、ということだった※※。幸い現在、以前の生活を取り戻して元気に生き始めた人たちが確実に増えている。でも(私のように)表面はそう見えないかも知れないが、実は「必死に」生きている。だから善意からであれ一律に放射能の危険を告げる言葉を聞くたびに心のどこかで「軋る」のだ。
 今日の新聞を見ると、どこかの勇ましい老人が現職を途中で投げ出して国政に打って出るなどとホザイておられる。私からすれば、この地に踏みとどまって生き続けることより、何倍も、いや数千倍も「キケン」な方向へ事態がぐらり動き始めたと感じている。つまりその方がよっぽど憂うべき事態、未来に暗雲が垂れ込めかねない事態と映っている。
 春日三球照代の「地下鉄漫才」の言い草じゃないが、「それ考えると一晩中眠られなくなる」現実がすぐそこに迫っている。あゝ悪夢であればいいのに!
 案の定、意を尽くせないどころか、結局何を言いたいのか分からぬ駄文を連ねました。でも分かる人には分かってもらえると密かに信じてます。
 最後に、徐さん宛てのメールにも書いたことだが、原作者鄭周河氏の制作意図がどうであれ、氏の写真展を訪れる我が南相馬市民の大部分(と願っている)は、氏の素晴らしい作品から南相馬の未来への希望を読み取るであろう。同時に李相和の詩にも未来に対する密やかな希望を感じる、日帝の支配は「今は」ではあっても、永久に、ではなかったのだから。だから全国に先駆けてこの南相馬が写真展の出発地点・皮切りの地となることは実に意味のあることなのだ。開催されることを切に願っている、と。

★後日の追記

 これは私たちの住んでいる南相馬市が、被災地といえども被災の度合いが違う層が複雑に重なり合っている場所だからこそ見えている現実、だからこそ感じる不満かも知れない。つまり被災地一般という括り方に対する違和感である。
※※ 残っていた健康な皮膚、という喩えと同時に、私が常々言ってきたことは、放射能がサリンのように即死を引き起こす猛毒でも、ペスト菌のような伝染性のものでもない、という放射能の大事な特性についてであるが、話を分かりやすくするためなのか、なぜかいつも議論の中で忘れられている。極端な例を出せば、毎日放射線治療に当たっている放射線技師のことを考えてもらってもいい。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からいただいたお言葉を転載する(2021年4月18日記)。

 ここに語られていることの前後関係のなかでいっそう明確になっていますが、阿部さんも重視しておられる「生は不確かさの中の絶えざる決断の連続」という一句、肺腑を衝かれる思いです。先生の思想の核をなすものが、おそろしいまでの圧縮度でこの一句に凝縮されている。もし旅の途上、路傍に立つ一つの石碑を見かけてそこにこの一句が刻まれているのを見たら、ついに出会うべき言葉と自分は遭遇したと思ったでしょう。
きょうからわたしの座右の銘とさせていただきます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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鱓の歯軋り? への3件のフィードバック

  1. 松下 伸 のコメント:

    リ・サンファの詩、「奪われた野の春」。
    半島独自の歴史や風土の心象風景なのでしょうか・・
    ずいぶん重く、言葉は尾を引きます。
    以前より、ある「春の万葉歌」が気になってました。
    あまりに皮相的では・・?
    リ・サンファの詩を見て、
    春の万葉歌の作者の青眼を見た思いがします。
                                  梁塵

  2. 阿部修義 のコメント:

     先生の言われている「鱓」とは何なのかと考えていました。勿論、私には明確な答えが出せるわけもありませんが、「生は不確かさの中の絶えざる決断の連続」と生を位置づけられているところにあるように私は想像しています。

     先生は「これしかないだろうと思う最善の生き方としてこの地に生きることを選択」されたわけです。第三者ではなく先生の意志と決断によるものです。

     P・F・ドラッカーが『プロッフェショナルの条件』の中でこんなことを言ってます。「集中とは、『真に意味あることは何か』『もっとも重要なことは何か』という観点から、時間と仕事について、自ら意思決定する『勇気』のことである。この集中こそ、時間や仕事の従者となることなく、逆にそれらの主人となるための唯一の方法である」。

     人生において、生きていくためには、この『勇気』が必要不可欠なものだと私は思います。そして、先生の言われた『鱓』とは『勇気』のことのように私は感じます。

     

  3. 阿部修義 のコメント:

     前のコメントの続き、徐さんが『原発禍を生きる』の解説文の中で「原発のすぐそばといえる場所を動かず、『魂の重心』を低く保って、『自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の心で感じよ』と私たちを叱咤している思索家がいる」と書かれています。

     先生が紹介された「からつ塾」も「今日をよりよく生き、明日に向かって深く思いをめぐらすために、自らの力で考え、世の中をみつめ直すことが求められている」と言っています。

     自ら意思決定することは、何事も痛みを伴うものなんでしょう。その痛みを避けるから自分にとって重要な問題まで第三者に委ねてしまう。私も含めて一般大衆はそういう傾向にあるように思います。

     先生が「軋る」という言葉を何度か使われています。この言葉には、自ら意思決定することの難しさ、その意思決定をした後の安堵感と不安とが心の中で絡み合い、葛藤して「軋る」という表現をされているように私は思います。しかし、そういう心の葛藤を超え、悩み、苦しまなければ、一度きりの人生の方向を自分で決定できないのかもしれません。先生の勇気ある決断は、私たちに、それを示してくれています。そして、私は先生の今までの生き方を通して先を見通す慧眼にふれ、その判断は正しいと確信しています。

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