あゝガス抜き!

首相夫人が脱原発発言をしたとかしないとかが話題になっているらしい。あまりに馬鹿らしいので確かめることもしたくないが、仮にそうだとして、それを報じることに何の意味がある? 
 家庭内野党とかの例も出てきて(おや、意外と読んでるでねーの)、夫婦といえども政治的見解が別なのは民主国家の成熟度の指標だみたいなことを言う御仁もいる。意見の違いが、郵政民営化(でしたっけ?)程度のことだったら、夫婦で見解が分かれてもどうってことはない。でも戦争とか原発といった問題で意見を異ににするのだとしたら、話はちと違ってきますぞ。つまり原発問題は、その人の生き方に深く絡んでくる問題だということです。
 もちろん夫婦と言ったってそれこそ千差万別、下は仮面夫婦や、もはや仮面を被るまでもなく、殺し合わないのが不思議といった夫婦まで千種万様である。上は…さあどこから上といえば言いのか分からないが、要するにふつうに愛し合う夫婦だったら、そんな大問題で意見を異にするのはさぞかし辛いことに違いない。ということは、首相と夫人は愛し合っていないとでも? いえいえ滅相も無い、そんな他人様の夫婦関係に余計な口出しなんぞするつもりはございません。ただ言いたいのは、首相夫人の脱あるいは反原発論を美談扱いにするのは言論人(なんて言葉あったかな?)としてちょっと甘いっちゅうか見識が無さ過ぎとちゃうやろか、ということである。だいいちあのかっこマンの首相が、夫人のそうした言動を放っておくこと自体に疑いの目を向けた方がいいのでは、ということ。
 つまり私たち夫婦はこのように進んだ夫婦なんですよ、ボクちゃん意外と懐が深いざんすとのポーズを示しながら、原発の輸出や再稼動に大きく舵を切ったことへの批判をうまくかわす効果をちゃんと計算してると踏んだ方がいい、と言いたいのだ。 つまりガス抜き効果を狙ってると考えた方がいい。性善説と性悪説ということであれば、間違いなく前者に加担する貞房氏でさえ、そう言ってるのに、美談扱いとまではいかないとしても、何の迷いも無く夫人の言動を淡々と報じている記者たちのお人好しぶり、もっとはっきり言わせてもらえば無能ぶりに、こちらは怒るより呆れて開いた口が塞がらないわけ。
 このあいだ、お昼のバラエティー番組が募集した謎々問題に、けっこう面白い応募作がありました。「国会で皆が渋い顔で審議しているのに、一人だけほくそえんでいる議員さんがいます。さてだれでしょう?」 皆さん分かります? あなた分かった? だれだか分からない? ○○さんのみ笑ってる、ですよ。 ピンポン!安倍さんでーす。安倍のみくすっでーす。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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あゝガス抜き! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     先生が言われる「原発問題は、その人の生き方に深く絡んだ問題だ」ということが、この問題の核心だと私は思います。見識というものは、小手先の知識とは違い、日々の実生活から、つまり、その人が今までどう生きたか、生きてきたかということから生まれるものなんでしょう。物事の損得に重きを置いた生き方であれば、目先の安楽な生活を維持することから原発を判断するでしょうし、物事の善悪に重きを置いた生き方であれば、必然的に反原発という判断になると私は思います。

     ヒルティが『幸福論』の中でこんなことを言ってます。

    「人生は、安楽に暮らすためにあると考えるのと、正しい行ないをするためにあると考えるのと、この違いがまず第一に、人々の間にある大きな相違である。この考え方の違いは、人々の全精神を左右するものだ。正しい行ないをしようと決心する人は、次に、正しい行ないをすることのできる道を見出して、最後に、正しい行ないの習慣に到達しなければならない。この良い習慣こそもっとも大切である。人生を安楽に暮らそうとする者にとっては、哲学も宗教も道徳も、どんなものも彼を本当の生活に導き入れることはできない。それらのものは、みな彼等にとって、なんの感銘も与えない」。

     しかし、ヒルティの言っていることは、決して容易にできることではないと思います。先生が執筆されている『モノディアロゴス』を拝読することで、私にとっては、その答えに至る道筋をしばしば気付かせてくれます。

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