南無三、地球は投機で回ってる!

しばらく画面から消えておりました。NHKの鄭周河さん紹介の番組やら、スペイン・テレビの拙著紹介の番組やらで、文字ではなく生身の貞房を晒しているので、その方でしばらく時間がかせげる(?)わいと、怠けていたこともありますが、もうひとつ、何とも中途半端な時間を過ごさざるを得なかったからでもあります。
 つまり先週、毎年一回の精密検査で心電図やら尿の検査やら胸部レントゲンやらをしてもらったのですが、その問診の際、胸部レントゲン写真を見てI医師が「これは血管が重なって出来た影だと思いますが、安心のためCTを撮ってもらいましょう」と近くの病院に予約を入れてくれたのです。なんとも気分的に落ち着かない五日目が今日で、午前中病院で撮影してもらい、いま帰ってきたところ。結果はいつ分かるか聞いたところ、クリニックに届くまで3、4日かかるとのこと。何でもスピードアップの時代にそれはないでしょ、と思ったけれど、これだけは待つしかない。
 で、これ以上中途半端な執行猶予の時間を気もそぞろに待つのは馬鹿げている、もうそれについては考えずに、しっかり「生きて」行こうと考え直したところです。でも世の中には、今も持病を抱えたり、余命を気にしながら生きている人がどれだけいるかことか、その人たちにとって毎日がどれほど大変なことか、と考えると、掛け値なしに偉いなあ、とその人たちを尊敬してしまいます。
 私にとって、たとえば今入院とか手術とかが必要になったとしたら、いちばん困るのはその期間、美子の介護が出来ないことです。それだけは何としても避けたい。強がりを言うつもりはありませんが、美子のことが無かったらどんなことでも耐え抜けるのですが…
そして唐突にこんな都々逸をつぶやきました、「貞房殺すにゃ刃物はいらぬ、入院必要告げりゃいい」。つまり日ごろ勇ましいことを言っても、貞房にとって妻・美子は泣き所というわけ。ところでこの都々逸まがいの文句の元歌は、「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればいい」だと思いますが「ニコヨン」といっても今じゃぴんと来ないでしょう。ニコヨンはつまり昭和20年代の半ば、失業対策事業に就労して職業安定所(今のハローワーク)からもらう日給が240円だったことから土木作業員(土方とも言った)を意味した言葉。いろんなバリエーションがありますが、傑作は「噺家殺すにゃ刃物はいらぬ、あくび一つもあればいい」でしょうか。
 それはさておき、この五日間、もちろんただぼーっとしていたわけではない。もしも結果が悪い方に出たらどうしようか、としきりに考えていた。美子の世話ができなくなることを怖れたただけではなく、おかしくなってきた日本をこのままにしておきたくはない、といよいよ切迫感が増してきました。比喩的表現ではなく文字通りの末期の目から見れば、多少の問題はあるにせよこのまま日本が、そして世界が推移していくと考えている多くの人たちの目を覚まさせないうちに自ら果てることはなんとも我慢がならぬ、などひとり怒っていたのです。原発事故の収束さえ覚束ないのに、あたかも何事も無かったかのように愚かな政治を進めている安倍晋三よ、お主は後世の評価では「愚者列伝」の筆頭に来る政治家だぞい、などとつぶやきながら。
 いやいや冗談じゃなく、日本を筆頭に、世界全体がおかしいのですぞ。地球を何千回、いや今だったら何万回でしょうか、ぶっ壊すことが出来る核弾頭が存在すること自体、どう考えったっておかしな世界でしょ。「笑っていいとも!」なんてアホ面下げて笑ってる場合じゃないんですよ、ほんとに。
 いやいや、もう何回も書いたり喋ったりしてきたことですが、この世界は理想や信条や善意の人たちの努力によって動いてるんじゃありません。はっきり言えば「投機」によって動いてるんですよ。こんな世界になったのは、そんな遠くの昔じゃありません。長くても2、3世紀この方のことです。マルクスがどう言おうがケインズがどう言おうが(あと名前が出てきません)、この世は明らかに「投機」、あるいは「投機心」によって展開してます。ガリレオが異端審問所で「E pur si muove! それでも地球は回ってる!」と言いましたが、いまはそれを少し換えて「南無三、地球は投機で回ってる!」と言わなければなりません。
 もちろんこんな世界を一気に元に戻すことは不可能です。革命なんてやっても無駄なことです。でもこの世がおかしいということを少なくとも自覚すべきでしょう。何?無駄なあがきは止せ、ですって? そうかなー、パスカルの「考える葦」じゃないけど、いやそうだけど、人間の尊厳て、突き詰めていけばそこに尽きるのじゃない?
 そして我らがウナムーノが『生の悲劇的感情』で引用しているセナンクールの『オーベルマン』の決定的な言葉を、今日の結論としてだけでなく、いまの私自身への自戒、いや励ましの言葉にしましょう。

「人間は死すべきものである。確かにそうかも知れない。しかし、抵抗して死のうではないか。そして無がわれわれに予め定められているとしても、それを当然と思わぬことにしよう」

★3日朝の追記 渡辺一夫さんの、確かフランス・ユマニスムについての文章の中で読んだ言葉だが、現代に生きる私たちへの無上の覚醒と励ましの言葉を取り急ぎ書き加えておく。「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか、である」。(正確な引用はまたの機会に)

★★同じく3日朝の追追記 先ほどとつぜんクリニックから連絡が入り、昨日の結果が出たのでいらっしゃいとのこと。取るものもとりあえず(もちろん美子の安全を確認して)出頭(?)しましたら、CT検査の結果、ガンその他の心配は一切無い、という嬉しい判定結果。八割がた大丈夫と信じてはいても、これだけは実際に結果が出るまで心配なものです。でも待合室のテレビから流れる映像は大飯原発再稼動のニュース、嗚呼!一難去ってまた一難、さあ皆さんめげずにすべての原発廃炉まで息の長い戦いを共に戦い抜きましょう!

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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南無三、地球は投機で回ってる! への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     今朝の朝日新聞を読んでいて原発再稼働が具体的に鮮明になってきた印象を感じています。東電の生き残りと電気料金で国民の負担を強いないためということなんでしょうが、今度の参院選で自民党が圧勝すれば民意に沿った方針ということで再稼働が加速するように思います。先日の都議会議員選挙での自民党の全員当選の流れから推測すると「現実」にそういう方向性が見えて来ます。先生が引用されたセナンクールの『オーベルマン』の言葉の中の「無」を「現実」と置き換えても良いと言われていたのを覚えてます。

     先生がモノディアロゴスを執筆された最初に、こう言われてます。

     「このモノダイアローグという言葉の下に、いったい何を書いていくつもりか、実は自分でも釈然としていない。日々去来し消えていくさまざまな想念たちの切れ端をなんとか捕まえて、それらが何らかの意味を持つ思想になってくれないか」

     2003年3月19日「水の低きに就く如く」の中で、こう言われてます。

     「現実にぴったり寄り添う論理は実に頑丈である。ちょうど机の端がそうであるように、生半可な理想論などいっぺんに撥ね返すほどのしたたかさを持っている。しかしもちろん真の意味で思想の名に値するのは、実はそうした現実に一旦は拠りながら、しかもそこから強靭な意志をもって離陸するものの謂いである。現実から離陸できない思想は、はっきり言って思想の名に値しない」

     先生は「原発禍を生きる』の海外への発信や国内外のテレビ出演、11年間執筆され続けている重みが、モノディアロゴスを「何らかの意味を持つ思想」に作り上げられていると私は思います。そして、迂遠なようですが、そういう思想を主張し続けること以外に世の中を変えていく道はないのかも知れません。

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