ここらでちょっと

 このところ更新してませんが、体調を崩しているとか不測の事態に見舞われているというわけではありません。もしどなたかご心配されておられるといけませんので(そういうお方は指折り数えても十指に満たないのではありますが)、ここで近況ご報告した方がいいのでは、と考えました。
 相変わらず我が瞬間湯沸かし器は低温沸騰を続けております。参院選の前にもう少しボリュームを上げて最近の嘆かわしい事態に対する怒り、あるいは呪詛の言葉を撒き散らそうかと思いましたが、正直言ってなんだか馬鹿らしくなってきました。確か少し前に阿部修義さんが、私の古い決意を、つまり反戦思想家ベリガン神父に触れた文章で「買い物に行く感覚で」平和運動をしたい、という私の決意を探し出してくださいました。自分でも忘れていたことをよくも拾い出してくださったと感動しました。でも他の方には何のことかお分かりにならないでしょうから、先ずはこの際全文をコピーさせてください(ホームページ「研究室」の「富士貞房作品集」の「モノディアロゴス」の2003年のところにありますが)。


ケイトンズヴィルへ出かける


 ダニエル・ベリガンの『ケイトンズヴィル事件の九人』(有吉佐和子・エリザベス・ミラー共訳) を今日初めて読み通した。ずっと以前手に入れた本なのに、今まで読まなかったことが悔やまれる。ただ、人と人、人と本の出会いにはそれなりの好機というものがあるのかも知れない。今の私にこの戯曲の意味と重要性は以前よりずっとはっきり見えてくる。
 これは一九六八年、メリーランド州の小さな町の兵役事務所に押しかけたベリガン兄弟ら九人が、徴兵カードを運び出してナパーム弾原料をふりかけ燃やした、という実際の事件の裁判記録をもとに、兄のダニエル・ベリガン神父が書いた戯曲である。日本では、一九七一年ブロードウェイでこの劇を見て感動した有吉がさっそく翻訳し、翌年十月七日から十六日まで、日本の主だった演劇人の協力を得て紀伊国屋ホールで上演された。その時、ベリガン神父の昔からの友人である故ラブ神父から切符を貰ったのだが、代わりに妻が観に行った。なぜ行かなかったのか記憶が飛んでいるが、興奮して帰ってきた妻が、隣りの席が有吉佐和子さんだった、と報告したことは覚えている。
 実はこのあたり記憶が混乱していて、いずれ事の後先をはっきりさせたいが、ベリガン神父の評論集『ひと我らを死者と呼ぶ』(They call us dead men)を翻訳することになったのはその後のことだったか。しかし結局は印税のことで出版元のマクミラン社と日本の出版社の折り合いがつかず、以後訳稿はずっと篋底に眠ったまま※である。いやそんなことは差し当たってはどうでもいい。言いたかったのは、イラク問題、北朝鮮問題と、急速にキナ臭くなってきた今こそこの作品が読まれるべきだということである (ところで原作者のD. ベリガンは今どうしているのだろう?)
 ちなみに [『ケイトンズヴィル…』の] 訳者前書きの中に唐突に「そこで勇気を出して私はケイトンズヴィルへ出かけることにした」という文章が出てくる。文脈から考えると、難局打開のために可能な限りの努力をする、という意味らしい。「行く」でなく「出かける」というのがいい。つまりわれわれは、平和運動家にならないならすっかり運動から手を引いてしまうのだが、大事なのは自分のできる範囲で、飽かずしつこく意思表示を続けること、買物や郵便局に出かける感覚で現実打開のささやかな運動を継続することだからだ。
 そう、私も思いついたらすぐケイトンズヴィルに出かけることにしよう。
                                                                   

一月十八日

※現在は『危機を生きる』という題で、呑空庵から私家本で出ている。

 ここで黙ってしまったら、「ケイトンズヴィル」にも出かけないことになってしまいます。でも現政権の愚かしさについてはもう嫌になるほど言ってきましたので、あとは黙って選挙結果をみてみようか、といささか白けた気持ちになっているわけであります。むしろ都議選どうよう自民党がバカ勝ちして、原発再稼動どころか憲法改正へといよいよキバを剥き出せば、どんなアホでも少しは危機を感じるようになるだろう、などと開き直ってさえいます。ただし今「キバを剥き出す」などとどぎつい表現を使いましたが、前から言ってきたように、あの晋三君はそんな凶暴というか肚の据わった人間ではありません。彼の右翼的な言動も、いわばムードというか意匠のようなもので、担ぎ出す人間がいればの話、つまりは「カッコマン」。でも担ぎ出すアホがいれば、どこまでも調子には乗りますから、そこが危険です。
 この間は夫人の脱原発発言について書きましたが、先日も彼の祖父だか父だかの信任投票での敗北体験が彼の政治姿勢の根っこにあるとかないとか、どこかの新聞が書いてました。おいおいそんなくだらねー意趣晴らしで国の政治をやってもらっちゃっちゃたまったもんじゃない。昔なら保守政治家の中にもそんなみみっちい話を一喝するご意見番がいたけど…いやさ、そんな楽屋落ちめいたネタをさも自慢そうに披瀝する新聞記者の良識も疑います。ザケンジャナイッ!
 おっと、本当は別なことを書こうと思っていたのですが、途中で湯沸かし器が異常沸騰しはじめたので、続きは明日ということにします。要は、ケイトンズヴィルのことも含めて、貞房さん、いろんなことをいっぱい書いてきました。大震災後に限ってみても、市販本1冊、私家本3冊、もう少しでさらに1冊。書き過ぎでしょう。このところ、そんな反省も踏まえて、これからのことを少し考えたので、それについて書こうとしていたのです。それではまた。

https://monodialogos.com/archives/17495
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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