数日前、ロブレードさんから十二分ほどのビデオ映像が電送されてきた。十月四日から福島県立美術館で二ヶ月間開催される「ホセ・マリア・シシリア 冬の花」展の開催期間中、場内で希望者が常時見れるように作られた紹介ビデオである。内容は南相馬の海岸を歩きながらのシシリアさんの哲学的な独白から始まって彼の前衛的な作品紹介へと続くが、中ほどに私たち夫婦のシーンが出てくる。美子と私が車を降りて夜の森公園の坂道を登っていく場面(あゝ懐かしい、震災の年の秋だ!)と今年四月、拙宅でのシシリアさんとの対話で私が話す短いコメントである。(近く完成ビデオを「取材映像」に収録させてもらおうと考えている)
先だってのスペインテレビの時もそうだったが、私がいちばん伝えたいメッセージが実に的確に紹介されている。今回は(毎度の主張だが)、現代日本がいかに進歩幻想にイカれているかに怒(いか)っている(すみません、つまらぬ言葉遊びです)私の話が流れる。日本だけではないが、なかでもとびきり日本が進歩幻想に冒されているとの指摘である。
そしてたまたま今朝方読んでいた司馬遼太郎・井上ひさし対談集『国家・宗教・日本人』の中で、その発言と呼応する司馬遼太郎の面白い発言を見つけた。つまり息せき切って進歩を追い求めてきた日本がいま最も必要とするのは「美しき停滞」だという意見である。
お二人がもし生きておられたら原発事故及びその後の日本についてどういう発言をされたか、非常に興味がある。要するにイリッチの言う「プラグを抜く」勇気、古い喩えを使うなら「パンドラの箱を閉める」勇気と同じことを主張されたのではないか、と推測している。だが明治の開国以後、闇雲に走ってきた日本にとって、実はこの美しき停滞こそが至難の業なのだ、つまり賢い減速ができないのである。
ところで話はいつものように突然変わるが、実は今、バルセローナのカタルーニャ語発信のARAという新聞社から紙上インタビューを申し込まれて回答を執筆中なのだが、いくつかの設問の中にとうぜんオリンピック招致に関しての質問が入っている。つまり今回の日本招致の際、汚染水問題などに対して煙幕を張ったのではないのか、という痛ーい指摘である。
それに対してはこう答えようかな、と思っている。確かに海外の人から見れば煙幕とか誤魔化しに見えるであろうし、それを否定することは不可能だ。事実、日本でも私のものも含めてそうした批判が続出している。だからそうしたごまかしを弁護する気は全く無いのだが、敢えてもう少し事情説明をするとすれば、実は当事者たちにその意識は「希薄」だということである。つまりインチキをしているという意識はほとんどなく、あるのはただひたすら「一丸となって」経済の好転を、苦境脱出を、との「気迫」(また言葉遊びです)の表れであろう、と。
でもそこが実はいちばん恥ずかしいところ、要するに一向に悪びれるところがないので始末が悪いわけだ。つまりそうした発言なり態度が一見外向きのものように見えながら実はひたすら内向きのものであり、それが国際的には明らかにインチキ・誤魔化しに見えるということに思い至らないのである。
太平洋戦争その他での日本の愚行に関して関連諸国といつまでたっても問題を起こし続けてきたというのも、同じ心理機制から生じている。つまり当人たちには、真面目に必死に一丸となってやってきたという意識しかなく、それが他者に対するとんでもない蛮行であったという認識が希薄なわけだから、悪びれるところが無いのである。こうした日本人の心理機制を、『菊と刀』のルス・ベネディクトは恥の文化と呼んだ。つまり罪の意識が希薄で、ひたすら対面を気にする文化という意味で。
ただルスさんには申し訳ないが、それについてはいささかの反論がある。問題がややこしくなるので、ごく簡単に言うと、欧米流、つまりキリスト教流に言う「罪の文化」と対比された「恥の文化」は確かに分が悪いが、しかしその恥をもう少し良く見てもらいたい思うのだ。簡単に片付けられない難問に入ってしまうが、要するにある意味で「恥を知る」文化は「罪の文化」を凌駕することもありうるということである。つまり「恥」といってもそれこそ体面というひたすら他者の評判を意識した表層のものから、罪意識よりさらに内面に届く恥の意識があるということである。
要するに、絶対者の前におのれの罪行を深く反省し、その結果許されたと考えることによって、俗な言葉で言うなら「すっきり」するのに対し、恥はたとえ被害者から許されたとしても(絶対者を持たない文化では)、その恥は己が死をもってしか完全には雪(すす)がれる事は無いのである。
そう、ここでこのところ考え続けてきたサムライの感じる恥に行き着く。こんなところで持ち出すには少し躊躇するが、『葉隠』の言う「武士道と言ふは死ぬことと見つけたり」もこのあたりのことを言っているのではないか。そんなことを言うと、とたんに三島由紀夫流の右翼思想と同一視されてしまうので、大急ぎで私見を持ち出すと、武士道の言う死は単に天皇とか主君への忠義立てというより、常に死を覚悟することによって己が生き方を律するという意味ではなかったか、と愚考するのである。
ただ『葉隠』などこれまでヒットラーの『わが闘争』程度の危険文書として毛嫌してきたので、これではいけない、とさっそく和辻哲郎・古川哲史校訂の『葉隠』三巻本(岩波文庫)を注文したところである。(あゝしんど、またもや難問を抱えてしもた)
閑話休題。私の言いたかったことは、このところの偽サムライ、似非伝統主義者は、そうした真の「恥の文化」を継承していないのではないか、ということである。つまりオリンピック誘致運動に端無く(はしなく)も露呈したのは、恥知らずな振る舞いだということ。彼らの好きな言葉を逆用すれば、彼らの罪「万死に値する」と。もちろん、こんな長ーい、持って回った説明を外国の新聞社にするつもりはないが。
ところで例の本の中で、そのあと司馬遼太郎は面白い例を挙げている。つまり先だって引退宣言をしたアニメ映画の宮崎駿さんが、『紅の豚』の登場人物の一人、アメリカからイタリアの町工場主のおじいさんの所に戻ってきて飛行艇を設計する十七歳の女の子の役を一般の人たちから募集してテストしたところ、ほとんどみな娼婦の声で駄目だったという話である。娼婦と言う言葉で何を意味しているのかはにわかには判じがたいが、しかし何となく分かるのは、凛として自己を主張できる女の子がいなかったということではないか。
これも先日ここでボヤイたこと、つまり最近いわゆる女子アナ(嫌な言葉だ)なるものがニュースを読むときの声がやたら気になるということと繋がる。要するに発声からしてすでに媚びた声の持ち主が大半を占めるということだ。古い言葉を使うと「衣食足りて礼節を知る」ことが無い日本の悲劇である。あるいは「足るを知る」ことができない日本の悲劇。しかしこれは先日来話題にしてきたサムライの生き方の真逆の生き方ではないか。
「足るを知る」は老子の言葉だし、もうひとつ「朝(あした)に道聞かば夕べに死すとも可なり」は孔子の言葉という具合に、サムライたちの生き方を律していた哲学は、中国発祥のもの、それを日本古来の哲学と合体させて自家薬籠中の物として独特な色合いに染め上げたものが武士道だとすれば、武士道も決して排他的・自閉症的な生き方ではなく、広く世界中の人に共感してもらえる哲学であり文化であると言えよう。
つまり私の知る限り、スペインやメキシコなど世界中にいる日本文化愛好家たちが憧れるハポン、ジャパンの文化は、今や絶滅危惧種となっているのではないか。遅まきながら私が近ごろ向かおうとしているのは、その保護運動の一種かも。
ちょっと話が長ーく、しかももつれてきました。尻切れトンボではありますが今日はこれにて失礼、お粗末でした。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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7月の半ば頃からモノディアロゴスの初期のものから少しずつ読み返して、今『モノディアロゴスⅥ』の2011年12月辺りを読んでいます。人生の様々な局面で先生が何を考えられ、何を感じられ、どう行動されたかを私なりに考えた答えは、常に「魂の重心」を低く保たれ、そこからの視点で物事を判断されている事に気づきました。
それは原発事故の前と後も全く変わらない一貫性のある、何事にも微動だにしない先生の生き方、時の流れの一瞬一瞬を地道に紡いで来られた軌跡と言っても良いと思います。先生の深い学識と、その根底にある正義感との融合から湧出した思想なのかも知れません。ある意味、私にとっては、「経書」であり「聖書」のような存在のようにも感じます。年初に私のコメントで心を穏やかに保つ妙薬と言った理由もそこにあるのかも知れません。
日本は今、非常に重大な岐路に立たされていると思います。現実には恐らく、原発再稼働が進み、アベノミクスで経済が上昇し、東京オリンピックで国民の意気も活気溢れることとなるでしょう。しかし、何かがおかしいと私は危惧しています。その何かが、先生の言われる「美しき停滞」の必要性だと思います。現実の流れが「魂の重心」を非常に高くした物事の視点に立った考え方から来ているのではないかと私は懸念しています。