特定秘密保護法案

民はこれに由(よ)らしむべし、これを知らしむべからず。この孔子の言葉の原文は、「民可使由之、不可使知之」で、民を頼らせることは容易だろうが、理解してもらうのはむずかしい、の意だったらしい。しかしいつの間にか可能の意味から義務・命令の意味に転じて、愚かな民は頼らせるべきで、わざわざ知らせるべきではない、混乱を招くだけだ、というように、権力側の都合のいい情報統制の根拠にされてきたそうだ。
 そんな孔子の言葉を今回の「特定秘密保護法案」をめぐってのすったもんだを見ながら思い出した。詳しい内容や、推進派と反対派の双方の論拠なるものをたどったわけでもないので、具体的にどこがおかしいなどと指摘する用意はないが、しかしごく一般的な意味で、傍目からの取りあえずの意見を書いてみる。
 先ず言わなければならないのは、「秘密にする」という言葉が示すように、秘密はあるものではなく作られるものである、ということである
 これと直接関係することではないかも知れないが、以前から言ってきたように、最近プライバシーという言葉がやたら頻繁に使われ、一人歩きするようになってきた。たとえば教師生活の終わりごろのことだが、あれよあれよと言う間もなく、プライバシーという「ひみつ」が増殖しだした。つまりそれまでは毎年のように改版されていた「学生名簿」なるものがある年を境にぴたりと作られなくなったのだ。教務課に聞いてみると、今年から上からの通達だったか、あるいは大学間の申し合わせだったかで、学生のプライバシーを守るために名簿は作りません、先生方も学生のことを知りたいときには個別に教務課にお問い合わせくださいとのこと。
 同郷あるいは卒業校の後輩を探して友達作りをしたり、クラブへの勧誘をするなどが以後一気に難しくなってしまった。私の娘など名簿を見て何時間もあれこれ発見して楽しんでいたのに、そんな喜びも奪われてしまった。でも何から何を守るというのだろう? 悪徳商人から? そんな情報などプロなら名簿が無くても難なく探り出すテクニックくらい持っている。
 要するに、秘密を作ることによって、人と人とのあいだにいわば垣根や闇が増えていくわけだ。IT機器の急速な発達によって過剰なまでの情報が氾濫する一方で、こうして社会の中に暗部がどんどん広がっていく。そしてその闇あるいは隙間にばい菌が、つまり人間の悪意が入り込む。すなわち過剰にプライバシーを尊重することによって、逆に悪意や犯罪がはびこる温床が作られるのだ。「衆人環視」という言葉とは反対に、過度の秘密保護によって死角が生れるからだ。
 自慢じゃないが、私などこのブログの母屋「富士貞房と猫たちの部屋」を覗いて見たらお分かりのように、生後50日目の赤ちゃんのときから、いや生れる以前から最近のものまで、恥も外聞も無く自分や家族の写真を公表するだけでなく、このブログを通じて内なる世界をも世間に晒している。しかし、ご安心あれ、そんな私にだって墓場まで持っていくつもりの「秘密」はゴマンと残っている。つまり人間の内面世界はそれだけ広いということだ。
 だからといって犯罪多発地帯あるいは箇所に設置される監視カメラは別にしても、昨今本来あるべきではない場所、たとえば教室などにまで監視カメラを設置する学校あるいは大学があると聞くが、それには大反対だ。なぜならそれは為政者(この場合は経営者だが)による部下あるいは教師の思想統制に容易に流用されるからだ。君が代斉唱の際に起立するかしないか、実際に歌っているか口パクかを監視するのも同じこと。本来他人が干渉すべきでない領域にまで踏み込む暴挙である。
 ちょっと脇道にそれたようなので秘密保護法案に直接かかわる話に戻れば、ここにきて冷戦時代の国家機密なるものの時効が切れて、ぞくぞく公開されているようだが、その多くは、もしも当時公表されていれば、つまり国民に知らされていれば、以後の愚行が不可能であっただろうと思われる(悔やまれる)案件がかなりある。敵に知られることによって自国が不利になるから、というより、それが国民に知られたら自分たちの愚行、時には犯罪行為が国民に知られるから、という姑息な理由で「秘密」になっていたものもかなりある。
 先ほどの闇あるいは間隙を作ることによって、フレミングの、というよりジェームズ・ボンドの『007シリーズ』(1953)やジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年)のような傑作スパイ小説に格好の素材を提供したわけだ。
 要するに秘密を作り、それらを保持することによって、自国の権益を守ったというより、時の権力者たちが己が権益を守り、その力を拡大することを容易にしたというわけである。今回の法案原案には秘密指定期間が最長60年のものもあるらしいが、時効無しと同じことだ。うがった見方をすれば、自分たちの愚行がいつか暴かれても、そんときゃ俺らは墓の中と計算しての年数かな? いやいや悪い奴ほどよく眠る、つまり長生きする、というから、60年は絶対安全圏とは言えないかもよ。もっとも、100歳を超えた老人を問責するほど…おっと、どっちにしても俺らはそのころとっくに墓の中、いや下手すると立派な土壌となって墓場の草花に栄養を提供してるかも。
 ともあれいずれみんな死んでいくんだから、どうか阿漕(あこぎ)な真似はしないでおくれ

《結論》  なんで急ぐのか分かんかったけど、ご苦労でした、この法案、廃案にしましょ。


★緊急報告
 とかなんとか、そんな大層な報告ではないが、上のブログに書いたことにまさにドンピシャリ当てはまることが今さっき起こった。
 実は今朝から明後日まで、ある外国の教育関係のテレビ局の密着取材を受けている。脱原発を番組の狙いの一つとする実に真面目な取材である。今朝も美子をベッドから車椅子に乗せるところやジュースとヨーグルトの簡単な朝食を食べさせるシーンなどの撮影が終わったところである。
 ところでその番組のディレクターから、明日の降園(初めて知ったが下校のことをそう言うらしい)の際、私が愛を迎えに行くシーンを撮りたいが、ついでに幼稚園も撮影したい、とあらかじめ言われていた。それで先週の金曜、一応ことわりを入れておこうと放課後の園を訪ねた。番組の趣旨などを書いた簡単な書類のコピーを持参して、そういうわけなので来週テレビのクルー(三人という少数の)が訪問して撮影するので了解して欲しい、と願い出たのである。ところが応対に出た若い先生は途端に固い顔になって、それは園長(遠隔の地にいる)の許可が必要なのでそれを待ってからにして欲しいと言われた。もちろんそれはとうぜんの手続きなのだが、園児のおじいちゃんへの応対としては、いささか形式ばった冷たい対応であったのが気になってはいた。
 その回答が今朝知らされたのだ。なかば予想、いや危惧していたように、撮影は愛とおじいちゃん、そして園庭だけにして他の園児は映さないで欲しい、と。忖度するに、そうした対応は他の園児の父兄たちから常々言われていたものらしい。
 証言者をマフィアの襲撃から守るために一切の情報を遮断する報道規制ならいざ知らず、まじめな教育番組、それも外国のテレビ局の善意の取材に対してこのようにガードを固くすることの意味はどこにあるのか。自分たちの愛児が誘拐犯に狙われるから、とでも心配しているのだろうか。上にも書いたことだが、悪意ある犯罪者ならどんなにガードしても、いとも簡単に破れる。つまりこうした過剰防衛の結果は、被災地の元気な子供たちの笑顔が伝えられて、その瞬間だけでも被災地のことを心配してくれている海外の視聴者たちの心を暖かくする機会を自らシャットアウトするだけであるということがどうして分からないのだろうか。
 参考までに(?)今朝のことだが、カイガイしく(?)妻の世話をする私の姿を撮影したカメラマンがつぶやいた言葉が通訳されて伝えられた。それを聞いて赤面した、いやもったいないな、と思った。彼が何を言ったかというと、自分にも介護を必要とする老親がいるが、私の姿を見て深く反省すると同時に大いに勇気づけられたというのだ。
 ともかく人と人の魂が触れ合う貴重な機会を、自ら閉ざすことの愚かしさに気付いてもらいたい。実はプライバシー条例が作られたときの趣旨が曲解され、いつのまにか肥大化して世に広まってしまった、というのが立案者の偽らざる心境だと、法律関係のプロである或る高名な弁護士から聞いたことがある。本当に今や何をもって「プライバシー」というのかも分からないまま、その言葉だけが妖怪のように徘徊している。実に嘆かわしい事態である。
 もちろん明日は園(園長さま?)のおっしゃるとおり、私と愛と園庭だけの撮影に限定してもらうつもりだ。本音? 言わぬが花だが、あえて言わせてもらえば、それ以外の撮影などこちらからお断りしたい、だ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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特定秘密保護法案 への2件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     総選挙での自民圧勝に大きな懸念を抱かれていたモノディアロゴスでの先生の発言が具体的な形で現れてしまったのが、この法案だと思います。原発推進派の町村信孝氏が座長を務めて、安倍内閣の半数が世襲議員と言うところも私は引っ掛かります。政権を行使するだけの力量を疑問視するような有閑階級の人たちの職権乱用にも思います。この人たちの目線はアメリカであり優良大企業などの強い側に注がれ、そこを中心とした支配者側の論理を国民に押し付けているようにも私は感じます。しかし、国民が選んだのは自民党であり、次の国政選挙まではこの悪政に耐えていかなければならないのが辛いというのが私の率直な感想です。

  2. 阿部修義 のコメント:

     緊急報告を読んでいましたら寂しさを感じました。しかし、現実は、そういうことが当たり前な世の中になってしまったんですね。先生が日頃繰り返し言われている自分の眼で見、自分の頭で考え、自分の心で感じれば、それがおかしなことだと誰もが感じると思います。生きるということは誰もが明日の保障がないんです。そういうことを細かく考えていること自体、生きること放棄しているようにしか私には思えません。子供たちにとっては、外国のテレビに出られたことが良い思い出になったんじゃないかと思います。

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