※以下の文章は、昨日、ソウル大学「統一平和研究所」主催のシンポジウムで朝鮮語に訳されて発表されたものである。『左膳、参上! モノディアロゴスⅩ』には既に全文収録されているが、ネットで公開するのは初めてである。少し長いものだが、原発事故後の私の考えを総括するものとしてぜひ皆さんにも読んでいただければと思う。
東日本大震災・原発事故を被災して(仮題)
ソウル大学「統一平和研究所」の金聖哲教授から研究所の皆様宛てのメッセージを、それも学術論文ではなく(もともとそれは私には無理でしたが)、今回の原発事故被災者の一人として何をどう考えているのか、率直に書いてもらいたい、さらには会議に参加するようにとのお誘いを受けたときは、大いに喜び、そして光栄に思いました。ただし会議出席の方は家内の介護のため断念しなければなりませんでしたが、このメッセージを訳された韓南大学邢鎭義教授が私の代わりに出席してくださることになったので、邢教授には大いに感謝し、そして研究所に対してはこうしてご好意になんとかお応えできることを嬉しく思っております。 本題に入る前に、貴国ならびに皆様に対する私の率直な思いをお伝えしたいのですが、これについては拙著『原発禍を生きる』の韓国版や京郷新聞のインタビューなどですでに語っておりますので繰り返しを避けます。しかし、原発事故のあとの思わぬ展開の中で、在日の方々や韓国の友人たちとのお付き合いが始まり、長年の願いがこの歳になってようやく実現したことを心から嬉しく思っていることだけはぜひ申し上げたいと思います。
さて本題に入ります。といって、国際政治や平和問題に造詣の深い諸先生方に対して首肯に値する卓説を用意しているわけではございません。ただ2011年3月11日のあの東日本大震災・原発事故によって私たちの住む、福島第一原発から25キロほどの地帯が最初は屋内退避区域、次いで緊急時避難準備区域に指定され、思っても見ぬ災禍に見舞われましたが、その渦中で考えたことのいくつかを、それこそ無手勝流に申し上げるだけであることをどうぞ御理解ください。
いま無手勝流などという言葉を使いましたが、もともとこの言葉は塚原卜伝という剣豪の「戦わずして勝つ」という戦法を指していますが、私の言う意味はそのような高等戦術ではなく、何の戦略も武器も無しに素手で立ち向かう徒手空拳と同じ意味です。実は今回のお招きに応じることだってそうですが、原発事故に遭いながらも、そしてその廃絶を目指して残り少ない人生を賭けようと思いながらも、私は未だに原発の仕組みや歴史、さらには放射能と放射線の違いという、今では小学生でも知っていることすら知らないし、この先知ろうとも思っていないのです。
つまり事故以前から原発には最初から反対しましたが、その理由は実に簡単明瞭でした。要するに核エネルギーの平和利用とか安全利用などというのは実にいい加減な詭弁であり、その廃棄物の安全確実な再利用法が完成しないうちに見込み発進したこと自体言い逃れようのない愚挙である、という実に単純明快な考えからでした。物理学や放射線学を修めた最高の知性集団に、素人の私にも一目瞭然のこの事実がなぜ分からないのか、未だに大きな謎です。
一つ考えられるのは、彼ら専門家集団・推進者の思考回路には、それがなければ人間の理性がいつか踏み誤る回路、すなわちスペインの哲学者オルテガの言う「往還の回路」が欠落していた、いや今なお欠落しているのでは、ということです。つまり科学研究の場合で言うと、いま研究している対象が人間の生にとって果たして最終的に有益なものかどうかを、絶えずフィードバックする回路です。この場合大事なポイントは、作業の一貫性とか効率性ではなく「人間の生」にとって有益か、という一点です。それがなければ悪しき意味でのスコラ哲学的迷走を始めてしまいます。よく引き合いに出される中世ヨーロッパの笑い話に、煩瑣な哲学論議の果ての、あの「針の尖に天使は何体とまれるか」というのがありますが、それと同じ迷走を演じてきたのでは、と考えています。
先ほどは無手勝流という私の基本的な姿勢を述べましたが、別の言い方をすれば物事を根源から見るという立場でしょう。つまりラディカルな見方です。政治的な訳語としては過激派と訳されるかも知れませんが、生来ノンポリ(非政治的)の私ですから、ラディカルという言葉の語源の根っこ(ラテン語の radix)をもじって根っこ派と自称することもあります。時にそれを「奈落の底から」とか「魂の重心」などと表現して来ましたが、すべて同じ意味で使っています。別言すれば物事をその生成の瞬間・状態において(ラテン語で言うところの in statu nascendi あるいは in fieri)見る、立ち会うということです。
原発事故のあと、外出も控えての籠城生活を余儀なくされた一時期、次々と流されるテレビの画像を見ているときに、とんでもない発見をしたのもそうした視点に立っていたからです。いや発見などと大層なものではなく、実は誰もが知っていて、それでいて気づかない或る重大な事実、すなわちこの世界は投機で動いているという厳然たる事実です。大津波や原発事故関連のニュースのあと、画面が切り替わって、アナウンサーは事も無げに「さて今日の株式市場は…」と続けたのですが、それまでは何とも思わなかったこの流れが実に奇妙で理不尽なものに思われたのです。事故や戦争の結果、株価に変動が生じるのはいつものことですが、しかし良く考えてみるとその原因と結果が、ちょうど鶏と卵の連鎖関係になっていることが分かります。つまり戦争があったから株価が変動するのか、それとも株価の変動を見越して戦争があるのか、それこそ綾目も分かたずに繋がっているのですから。世界がこういう動き方をするようになったのはいつからでしょう。経済学にはうとい私には分かりかねますが、しかしそれほど遠い昔からのことではないはずです。極論を言えば、この世は理想とか信念、あるいは人間の善意などによって動いているのではなく、投機あるいは投機心で動いているというなんとも味気なくも情けない現実です。
もちろんこのような世界の仕組みを元に戻すことなど不可能です。しかし少なくともその事実をしっかりと認識し、これ以上おかしな事態に進まないように、皆が知恵を出し合うことが必要でしょう。
そういう意味からすれば、9.11というもう一つの悲劇の日に、世界貿易センターがテロの標的になったのも、絶対に許されないことではありますが、それなりに理屈には合っていたわけです。つまりテロリストからすれば、アメリカ主導の世界経済の動きに対する異議申し立てでもあったわけですから。
以上が震災・原発事故の直後に考えたことの一つですが、もう一つそれに負けず劣らず根源的な問題がありました。それは私たちにとって「くに」とは何か、という問題です。つまり元はと言えば国策によって生じた事故で、それまでの日常が一瞬のうちに崩壊しましたが、その奈落の底で見えてきた問題です。そして事故後から踝を接するように次々に起こった領土問題、従軍慰安婦問題、さらには沖縄の米軍基地問題などでこの難問はより一層深刻かつ焦眉のものとして迫ってきました。
この政治問題を国内的側面と国際的側面とに分けることなど不可能なくらい両者は分かちがたく連関していますが、今は便宜的に分けて考えてみます。まず国内的な問題としては、この事故によって原発が国のエネルギー政策によるものであることを改めて認識させられただけではなく、原発は決して国民の安全・幸福に役立つものではないという苦い現実が突きつけられました。とりわけ日本のような地震多発国にとってこれだけの数の原発を設置したことは、ちょうどいつ暴発するかも分からない爆弾をやたら抱えこんでいるようなものです。しかも福島第一原発の事故が汚染水の処理など未だに収束からほど遠いのに、現政府は多数の国民の不安や反対を無視して再稼動に踏み切ろうとし、さらには海外への輸出さえ断行してきました。
問題は、こうした政権に対して国民の意思をどう反映させるかです。選挙制度の見直し、中央政府と地方行政のバランスつまり地方分権の問題、などなど課題は山積しています。しかし事故後、私にはそうした政治問題の根底に横たわるもっと大きな問題が見えてきました。私はそれを国民それ自身の中に広がる液状化現象と呼んでいます。今回の大地震によって近県にもまたがる広い地層内部での液状化が問題になりましたが、それよりも深刻な魂の液状化現象のことです。ですから事故後しきりに叫ばれた「絆(きずな)」と言う言葉が実に空疎に響きました。人と社会、人と人を結んでいたと思っていた繋がりがいたるところで断ち切れていたからです。自分の目で見、自分の頭で考え、そして自分の心で感じる者たちの強い繋がりではなく、危急の時にはたやすく切れてしまう軟弱な社会であったことが露呈したのです。
たとえば事故後の最初の国政選挙であった参院選で福島県は一人区でしたが、自民党候補者が圧勝しました。そこには自民党議員でありながら脱原発や廃炉を訴えるというサギまがいの戦術があったとはいえ、被災民自身の意識が低く、そして当然感じるべき怒りが極めて希薄で、調子のいい言葉にたやすくなびいたということです。日本人は我慢強く、助け合いの精神に富んでいるという評判の実態は大いなる買い被りだと言わざるをえませんでした。上は事故後の行政の対応の仕方から、下は日本郵政や銀行その他の社会構造のいたるところに、平常時には見えなかった脆弱さ、もっとはっきり言えば「想定外」という言葉に代表されるような、あらゆる局面での責任逃れの構図が露呈したのです。
南相馬市の南部は小高区といって最初は警戒区域として立ち入りが出来ませんでしたが、現在はそれも解除され、大部分は私の住む原町区とほとんど変わらない低線量の地帯です。しかし現在もなお無人境のままです。私の母方の親戚が多く住んでいましたが、彼らは今なお仮設住宅や遠く離れた他県に暮らしています。私は時おり人を案内して小高に行くことがありますが、そんなとき、やり場のない不思議な怒りを覚えます。そして内心こう叫びます。私だったらもうとっくに住んでいるぞ、と。
私は敗戦の時は6歳で、家族は旧満州の熱河から引き揚げてきました。父は敗戦の二年前、治療する医師もいないその僻地で病死しました。ですから当時の日本人の苦しい生活を知っています。国自体が崩壊したわけですから、国にも誰にも頼れず、しかもその日その日を必死に生きなければなりませんでした。食事にありつけるだけで御の字と思っていました。
しかしいま被災地の人たちに当時の日本人の生きる力・気力は微弱にしかありません。震災後、暴徒化したり略奪行為に走ったりするようなことはありませんでしたが、しかしそれとは裏腹に、未だに自力で復興する気のない、すべてを「お上」まかせの依存体質の国民になっていました。つまり遵法精神とか法治主義というより、自ら考えることをしない国民、言葉は悪いですが馴化・家畜化された国民に成り下がっていたのです。
こうしてすべてが国まかせ、補償金待ちの状態ですからストレスが蓄積していきます。長らく沖縄でPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療に当たってきた蟻塚亮二医師は昨年から隣の相馬市でメンタル・クリニックを開院しましたが、その彼によると、いま被災地で問題になっているのは放射能禍ではなくストレス症候群である、と明言しています。私の見立てもそれに近いです。
こう考えてきますと、単に被災地だけでなく国そのものの真の復興のためには政治の仕組みや選挙制度を変えることなどでは足りず、国民一人ひとりの覚醒が必要だということが分かってきます。でも悲観的なことばかりではありませんでした。事故後、ちょうど液状化した地層の所々に打ち込まれたパイルのように、更なる液状化を止める頼もしい人たちがいたことも嬉しい事実です。社会全体の液状化を止めるこうした有意の人を育てていくこと、それがもっとも肝要なことだと思います。
私は長らく教師をやっていましたから、国民の真の覚醒のために教育が重要なことは痛いほど分かります。しかし現実の学校教育の実態はこれまた嘆かわしい状態になっています。知識を記憶させることには熱心ですが、生きる力、考える力を養うといういちばん大事な教育がないがしろにされてきました。
大震災直後、被災地の学校はすべて閉鎖されて避難所などに使われましたが、私は当時ブログにも書いたように、真の教育に目覚めるための好機到来とばかり内心期待したものです。つまりこの際、教師も親も、そして当事者である児童も、教育とは、学ぶとは何かを考え直す絶好の機会だと思ったのです。この機会に親と子が向き合い、日ごろ読めなかった良書をじっくり読んだり、時おり巡回してくる教師に課題を出してもらったり質問したりできる手作り教育の好機と思ったからです。これからの長い人生にとって、半年あるいは長くて一年のこうした体験は実に貴重な財産になったはずです。しかし実際は30キロ圏外にある学校にバス通学をさせ、教室が狭いので廊下で学習させるなど実に愚かな対策を講じました。教育関係者には明治開国以来の盲目的学校信仰が骨がらみになっていたわけです。
最近の新聞紙上では経済協力開発機構(OECD)が実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が話題になっていますが、それについて私はきわめて懐疑的です。たとえば問題処理能力で日本の子供は好成績を上げたそうですが、これについては完全に否定的です。コンピュータ・ゲームなどでの障害物や迷路を抜け出す能力は一種の慣れの、想定内の問題ですが、しかし今回の原発事故のようなそれこそ想定外の「問題群」に対しては無力であることは、大人たちの体たらくを見てもはっきり証明されました。想定外の問題に対しては、ろくろく学校にも行けない発展途上国の子供たちの方がはるかに高い能力を示すであろうことは容易に「想定」できます。つまり人間にとってより重要かつ手ごわいのは、「生きる」ことに直接かかわってくる、つまり「死活の」問題群なのです。
さてこうして書いてきましたが、与えられた紙幅がどれほどのものなのか、さらには求められたメッセージが以上のようなものでいいのかどうかさえ怪しくなってきましたが、ここまで来ましたのでもう少し続けさせていただきます。つまり国内的な側面はこれくらいにして、国際的な側面に話を進めさせていただきます。
これまで述べてきたことと地続きのことですが、奈落の底ではっきり見えてきたのは、日本のみならず現代世界全体が陥っている進歩幻想、すなわち何のための進歩かを問い直すことをしないままの闇雲なまでの進歩幻想です。とりわけ日本は明治の開国以来、欧米に追いつけ追い越せの「富国強兵」路線を突っ走って来ました。「近代」がもたらした経済優先、効率優先、快適・利便優先に骨がらみになって来ましたし、現政権のキャッチフレーズ「アベノミクス」にも明らかなように経済優先路線が時代遅れの国粋主義的思想(注1)と奇妙な複合体をなしています。
スカイ・ツリーのフアンには申し訳ないですが、無駄に高いあの塔が、重心のやたら高い日本の姿を象徴しているように見えてきます。さらにこんな格言も思い出します。「馬鹿と煙は高いところに登りたがる」と。
前述しましたように、大震災・原発事故に続けて起こった領土問題などではっきり見えてきたのは、そうした効率優先の「近代的思考」のもう一つの産物たる近代国民国家の仕組みがもたらす深刻な弊害です。つまり小さな無人島をめぐっていまだに「固有の領土」を主張することの無意味さ、それに気付かない政治家たち、そして国民たち、の蒙昧さです。それは日本で同時期に再燃したオキナワ基地問題にも繋がっていきます。
近代国家とは一般的に言えば中世封建国家や近世の絶対主義国家の崩壊後に成立したもので、国民の代表機関たる議会制度,統一的に組織された行政制度,合理的法体系に基づく司法制度や常備軍制度など,中央集権的統治機構を備えた国家ということでしょう。しかしとかく忘れがちなのは、こうした近代国家の枠組みがたかだか数世紀の歴史しか持たない過渡的なものであり、決して未来永劫に続くはずもない、という当たり前の事実です。先般来のウクライナの場合もそうでしたが、1998年のコソボ紛争その他世界各地で起こっている紛争でも、これまで多少の問題を抱えながらも民族・宗教・言語の相違を越えて平和裡に共存していた人たちが、互いの国籍・領有権をめぐって鋭く対立し、多くの犠牲者を出してきました。
でも最初にお断りしたように国際政治に関しては無知に近い私なので、この話題をこれ以上は続けない方がいいでしょう。ともかく日本名でいうところの尖閣諸島や竹島をめぐって日中、日韓のあいだで対立が始まったときにもブログに書きましたが、たとえ国際司法裁判所に調停を願い出たとしても、当事者双方が納得できる調停案など出るはずもありません。なぜなら過去のある時点を境にすべての国が納得ずくで国境を定めたのでない限り、互いの領有権論議はどこまで遡っても妥協点が見つかるはずもないからです。私からすれば解決法はただ一つしかありません。すなわち領有権はひとまず棚上げして(でも私の願いは永久に、ですが)係争地を双方の共同管理にすること、その近辺に地下資源などがある場合はそれを完全に折半するということです。
いやいやもっと根源的なことを言えば、相手が気に入らないからと言ってどこかに引越しできるわけでもなく、この世が続く限りお隣さんなのですから、仲良くしなければ損だという当たり前の理屈です。
これをお読みの先生方は(もしもお読みになればの話ですが)なんと乱暴な素人論議だこと、そんなものは素朴な感情論に過ぎないと言われるかも知れません。しかし理性は大きく間違えるが、感情は小さくしか間違えません。
あるとき原発推進派と反原発派の論客とが討論するテレビ番組を見たことがあります。推進派は今回の事故はあくまで万に一つの事故で、それに対しては衷心からの反省の気持ちを表したいが(本当ですか?)、しかし…と、原発がいかにエネルギー源確保にとって大切か、そして事故を未然に防ぐための研究も着実に進んでいる、と縷々自説を展開しました。そのとき悟ったのはいかに感情論と軽蔑されようが彼ら専門家の用語や論理に乗っかることがいかに不毛な論議に繋がるか、いや不毛どころかいかに危険か、という一事でした。
平和問題の専門家の皆様を前に申し上げるのは不遜の誹りを免れないかも知れませんが、平和論議も同じではないか、と思っています。関が原やワーテルローでの兵士同士の戦いの時代ならいざ知らず、ミサイルや核兵器を使っての現代戦においては、たとえ自衛のためとは言えいかなる戦争も許されないと思います。今から冷戦時代を振り返ってみれば、そうした対立が互いに手持ちの戦力をちらつかせながらの愚かなチキンレースであったことは紛れようもない事実なのですから。
先ほどこの世界は投機で回っていると言いましたが、同時に地球を何千回も破壊できるほどの核弾頭で覆われている、これにさらに原発所在地を示す赤丸を満遍なく印していったら地球は真っ赤に染まってしまいます。これはどう考えても狂っているとしか言いようのない世界です。ここでも先ほどと同じことを繰り返し言わなければなりません。すなわちこうした世界の現状を一気に元に戻すことはほぼ不可能である、しかし私たちはこんな狂気の世界に生きているんだということを事あるごとに思い返し謙虚になることです。現代と同じく戦乱と狂気の時代であった十六世紀のユマニストたちが言ったように「この狂気の時代にあって、唯一残された道は、いかにして正気であり続けるか」なのです。
あるいはセナンクール『オーベルマン』の主人公の言葉をもじって言うなら、「世界は狂っている。――確かにそうかも知れない。しかしこれに抵抗しようではないか。そして、混乱と狂気が世界を覆っていようとも、それを当然と思わぬことにしよう」と。
初めて皆様にお話するというのに、終始暗い内容になってしまったことを心苦しく思いますが、それも「奈落の底」からのメッセージと思ってお許し下さい。でも最後に少しは明るい話題で締めくくりたいと思います。実はすでにブログには書いたことなのですが、領土問題が持ち上がっていたころ、こんな夢を語りました。すなわち尖閣諸島や竹島を最も建設的に利用する方法です。つまりそれらの島々にそれぞれ当事国同士が最高の技術や資材を出し合って、一大合宿所を建設し、そこで当事国の若者たちが互いの文化や歴史を学習し親睦を深めるという夢です。これはどんな空母や戦闘機にもはるかに勝る最強の防衛施設ではありませんか。
でも現実はそんなことを夢見ることさえ許さない厳しいものになっています。本当に残念で、そして情けない。お隣同士がいがみ合っている嘆かわしい現実。そんなときにいつも思い出す場所があります。アルザス・ロレーヌ地方です。何世紀にもわたって独仏両国の流血が絶えなかったその係争の地が現在は両国友好と相互協力の磁場に生まれ変わっているという事実です。あるいは領有権はフィンランドにありながら住民の九割はスエーデン人で、しかも永久に非武装中立を誓ったアハベナンマー(スエーデン名はオーランド)諸島のことです。
そして今のところはまだよちよち歩きのEUのことです。その成立事情には詳しくありませんが、初めはヨーロッパ経済共同体(EEC)でこじんまりと出発し、次いでヨーロッパ共同体(EC)に,そして現在は加盟国も格段に増えてのヨーロッパ連合(EU)にまで成長しました。素人考えですが、かつての近代国民国家という枠組みを緩やかに解体しつつあります。東アジアにも同様の道筋をたどってほしいと願うのは単なる幻想でしょうか。
かつて国際連盟のスペイン代表を務めたサルバドール・デ・マダリアーガという思想家に、皆様もどこかで聞いたことのある有名な言葉があります。「イギリス人は歩きながら考え、フランス人は考えた後で走り出し、そしてスペイン人は走った後で考える」。これは島国、大陸、そして半島に住むそれぞれの民族を、行動の人、思考の人、そして情熱の人とする面白い比較文化論です。もちろん彼の説を日本、中国、そして韓国にそのまま当てはめることは無理でしょう。でも私が言いたいのはイギリス、フランス、スペインよりもはるかに密度の濃い歴史的・文化的相互交流を経た、しかも現代に入ってからは流血を伴う不幸な歴史を持ったアジアの三国が、互いに相手の長所、時には短所をも認め合って、相互に裨益し合う真の交流が、政治的な軋轢などでびくともしない堅固な友情で結ばれる日が一日も早く到来してほしいということです。
もしも私に財力があれば、いやその前に充分な時間が残されているなら、その時間そして私財と体力・知力を投げ打ってでも南相馬(注2)に三ヵ国語学院を作り、次代の東アジアの平和と友好に役立つ子供たちを育てるのですが、それはかなわぬ夢ですから、日々細々と、しかし諦めずに平和菌(注3)をばら撒き続けましょう。最後に来て、佐々木よ、なんたる血迷いごとをと呆れるかも知れませんが、三ヶ国語学院というのは現代と同じく戦乱と昏迷の時代でもあったあのルネサンス期のブリュージュでエラスムスなどが教えた人文学の学校を真似た塾のことです。もちろん当時はラテン語・ギリシャ語・ヘブライ語の学院でしたが、私が妄想するのは中国語、朝鮮語、そして日本語の学院です。
これも私の持論ですが、経済分野のグローバリズムはいざ知らず(これとて私自身はかなり懐疑的ですが)文化の領域でのグローバリズムにはむしろ反対です。旧約聖書に出てくるバベルの塔は、互いに意思疎通ができなくなる神の罰ととるのが一般的でしょうが、私からすれば互いに言葉が通じないことによって、相手をさらに知ろう、理解しようと努めるための神の粋な(?)計らいだったと解釈しています。ですからこの学院ではいわば当面のつなぎ役として、たとえば英語が使われることはあっても、目指すべきは三つの言語が同等の重要性と役目を持つべきだと考えています。
おやおやまるで今にも実現しそうな話をしていますが、私には気力はあっても知力、体力は衰えかけています。どなたか蛮勇を奮ってこの学院創設に参加していただけたら、というのが、私の最後の夢です。
ちょうど漠然と想定した一万字になりました。こういう場合、落語家はこう言って次の噺家に演台を譲ります。
お後がよろしいようで…
2014年4月5日、東日本大震災三周年にあたって
被災地福島県南相馬市にて 佐々木 孝
注1 実は筆者はこのメッセージを書く直前に、太平洋戦争中は海軍の戦闘機乗りだった今年九十六歳の叔父宛ての公開書簡で、過去の過ちを率直に認めようとしない人たちが、それを認める人たちに投げつける「自虐史観」との批判にこう答えている。
「でも本当に謝罪したのでしょうか。領土問題に限らず、従軍慰安婦問題や河野談話や村山談話をめぐっての一部の政治家たちの再三にわたる発言・行動を見れば、それがまったくのまやかしである、と当該諸国が考えるのも無理はありません。たとえば従軍慰安婦問題ですが、南京虐殺問題の場合とまったく同じです。つまりわが国の一部の人たちはそれを公式文書が見つからないとか、規模・数字に誇張があったとして、行為そのものさえをも否定しようとしてきました。
私はこうした態度は、過去の行為以上に絶対に許されないことだと思います。時に人間は過つもの、そして戦争の最大悪は、人的・物的損害よりも人間性を獣以下の状態に追い込むことです。しかし平和時に、正常な精神状態の中でおのが罪の言い逃れをしようとしたり、さらには行為そのものを否認することは、かつての悪行以上に人間の品性を貶めることだと思います。かつての過ちを心から悔い、相手方に率直に謝罪すること、これを自虐と言いふらすことの方が人間のさもしさ、情けなさを晒す自虐行為だとは思いませんか。自虐と言うなら、自らを三百代言に貶めることの方がはるかに自虐の名に値しませんか。」
注2 私の住む南相馬は、かつて200メートルの無線塔で有名でした(1921年完成、1982年老朽化のため解体)。これは現在のスカイ・ツリーのように、最先端の工学技術を駆使して、いわば国威発揚の象徴でもありました。しかしこの塔には悲しい歴史が秘められています。つまり危険な作業に使われたのは死刑囚と徴用された朝鮮人で、彼らのことは公式文書に残されていません。
この塔は1923年、建設してまもなく起こった関東大震災で、いち早く世界にSOSを打電したことでも有名です。無線塔と関東大震災、スカイ・ツリーと東日本大震災・原発事故、偶然の一致とは言え私には不思議な暗合を感じさせます。
だからこそ南相馬にぜひ三ヶ国語学院を、と願っているのです。
注3 震災後の籠城生活の中で作った戯れ歌です。歌詞の中にあるケセラン・パサランという言葉は化粧のための白粉を食べて生きるという伝説をもつ菌状の謎の生物で、キリシタン時代に伝わったスペイン語、qué serán, pasarán が語源だという説もあり、未だに謎の言葉です。スペイン語だとしたら、「どうなるだろう? なるようになるだろう」の意味になります。アメリカ映画『知りすぎた男』でドリス・デイが歌った「ケセラセラ(なるようになる)」を連想させます。
平和菌の歌 作詞・富士貞房 作曲・菅祥久 (「月光仮面の歌」の雰囲気で)
1 生まれは いずこか知らないけれど
その働きは いつかは分かる
柳眉逆立つ不美人さえも
これをはたけば 楊貴妃に
ケサランパサラン、コモパサラン
2 そのわけ 何にも分からんけれど
誰にも効き目は じわりと分かる
争い、もめごと、戦争さえも
これを被れば 茶番劇
ケセランパサラン、コモパサラン
3 見た目は カビと変わらんけれど
漂う芳香 いつかは気づく
虚勢や威嚇は ただそれ嗅ぐだけで
馬鹿丸出しの 猿芝居
ケセランパサラン、コモパサラン
4 原爆・原発 被った今も
懲りずに推進求めるアホは
ほんわか菌を浴びるがよろし
まことの幸せ 見えてくる
ケセランパサラン、コモパサラン
5 飛ばそ撒きましょ 平和の菌を
みごと咲かせよ 心の園に
あなたと私の垣根を越えて
国境線さえ 消してゆく
ケセランパサラン、コモパサラン