ばっぱさんの遺志(その一)

以下の手紙はばっぱさんの、今となっては遺稿集となった『虹の橋』に収録されているものである。文中、原爆記念日の話が出てくるが、おりしも今年の長崎での式典で被爆者代表・城臺美彌子さんの実に胸のすくような天晴れな現政権批判に快哉を叫んだが、それにしても男たちのだらしなさが恥ずかしい。さっそく城臺さんに対するばか者たちの攻撃が始まっているが、頑張って欲しい。というか、男たち、特に報道関係者の援護射撃を期待したい。
 ここにばっぱさんの古い手紙(87歳とあるから今から15年前、つまり1999年ころ)を引っ張り出したのは、手紙の最後に「山本町を推薦する理由はお目にかかって申し上げたい」となっていることについて一言説明したいと思ったから、つまりなぜ山本町かは直接私にも関係しているからである。
 いやその前に、ばっぱさんの手紙に「山本町」となっているのは「山元町」の間違いである。この町は宮城県南部、太平洋に面する亘理郡の町で、常磐線が通っている。海岸砂丘と海岸段丘、阿武隈高地からなり、米、イチゴ、リンゴなどの栽培が行われている。先般の大地震・津波で被害があったが、話の舞台(?)である土地はその段丘部分にあり、幸い被害は僅少だったらしい。
 ともあれ今晩はそのばっぱさんの手紙を紹介し、その説明はまた明日ということにしよう。

   宮城県知事への手紙

    ※以下は半紙四枚に毛筆で書かれたものである。

 突然乍ら乱筆書状にて御無礼申し上げます。
例年にない酷暑続きの毎日にて寸暇の無い激務に日毎御精励の事とお察し申し上げます。
 さて本年も広島、長崎の原爆記念日も韓国の被爆者を併せてのはじめての祈願際が行われましたが、年毎に平和への願いと祈りは限られた人々によってのみ捧げられるようで、国民的立場からすれば世界の中核的平和運動にはまだまだ力及ばずという無力感さえ感じられます。
 日本政府の多事多難な現状から見ると無理もないこととは言え、戦後五十四年を経て余りにも未処理未解決のまま戦後処理の責任を風化させてしまって大局的観点からは国としての信頼を失っている面は見逃せないと思います。お聞きするところによると知事さんは厚生省の重要ポストに長くおつとめられたとのこと、その上、新進気鋭の若さにより今後の御活躍を御期待申し上げる次第です。過日(八月五日)山本町の森町長さんにお目にかかった際、ぜひ近日中に政府への陳情の主旨(中国残留孤児帰還促進運動)を御説明するようにとのお言葉があったので本日書状をもってお願い申し上げる次第です。
 私事不肖八十七歳の老齢乍ら長男は現在岩手県大船渡のカトリック教会の司祭をつとめ、先日(八月三日)元寺小路教会に於て小林有方前司教の告別式には司祭団の代表として弔辞を捧げました。昭和二十一年五月満州引き上げの際は小学五年生でした。
 昭和十八年十二月、夫は熱河省旧満州国官吏として殉職し、県葬の栄誉を頂きましたが、三人の子連れとして民間で第一号の引き揚げ船にて帰ってきました。教職三十年、幸いに退職後は原町市に住んで居ります。
 次男夫妻は東京の私大に勤めて居ります。さて旧満州引き揚げ者の一人として考えることは、未だに故国の土も踏めず親さがし身内さがしの悲しみをかみしめ乍ら既に六十歳に近い人々が置きざりにされてから育てられた中国に空しく帰って行く心情を考えると、間もなく二十一世紀を迎えるに当りこの辺で事情の許す人々をせめて国の立場と責任に於て永住帰国をさせ、老後を全うさせてやるべきかと存じます。事情によっては家族の絆も断ち切れず帰国を断念する人もあるでしょうが、本人の意志を確かめしっかりした身元調査により漸次人数を制限し乍ら――東北出身者の多いことから適地を選び計画的に受け入れて体制を整備して、せめて二千年を区切りとして決断すべきかと存じます。
 なぜ山本町を推薦する理由はお目にかかって申し上げたいと思います。甚だお粗末な文章で御理解し難い点は口答にて御許し下さいませ。暑さ厳しい折から御自愛を御祈りしつつ
 よき御理解を御待ち申し上げます。

 乱筆にて                        かしこ

     原町市橋本町          佐々木 千代                             

八月十三日
 宮城県知事
   浅野史郎様

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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