捨てる神あれば

捨てる神あれば拾う神あり、などという古い俚諺を思い出している。原発事故後、洋の東西を問わず(ちょっと大げさだが)、それまで全く知らなかったたくさんの人と思いもかけぬ繋がりが出来たが、I氏もその一人。
 今年の正月、そのころ里帰りしていたマドリードの■さんとご一緒に、文字通り遠路はるばる訪ねてくださったのがお付き合いの始まり。それ以来、折に触れてメールでのやり取りが続いていたが、あるとき、これまで私家本にまとめてあったスペイン思想関係の本をシカボンにする気はありませんかとおっしゃる。シカボン? いや既に私家本にはしてますが。いやその私家本ではなく市価本のこと、つまり一般の出版社から出すつもりはありませんか、とおっしゃる(このあたりは粉飾表現)。
 そんなことは夢のまた夢、ずっと前から諦めていた。電子書籍(というのだろうか?)の登場で出版界の大地殻変動、そのための大不況(でもないのかな)。二〇〇二年から始めたモノディアロゴスも、第一巻は行路社から出してもらったが、その後十巻まで続くシリーズはすべて手作りにしてきた。それと平行して、これまで書き散らしてきたスペイン思想関係に限らず同人誌『青銅時代』に発表した創作(めいたもの)まですべて暇に任せて私家本に。それが現在まで20数巻にまでになった。出版(製造?)元は呑空庵(D. Q庵、つまりドン・キホーテのいおり)。
 いやまだあった、つまり大昔に訳し始めて一応完訳までこぎつけたダニエル・ベリガンの『危機を生きる』(原題は「死者と呼ばれる我ら」)や震災前、一応K出版社からの依頼で訳し始めたオルテガの『大衆の反逆』も、編集担当者の入退院や彼との訳稿についての基本的な考えの行き違いもあり、そのうち大震災、それ以来出版社から連絡が途絶えたことで、こちらからも一切の関係を断ち切ったままのもの、などすべて私家本にしてきた。
 今回そのうちの一冊『スペイン文化入門』がI氏のご尽力で出版社も見つかり、にわかに動き出したのである。そして氏は、この連休、スペイン語翻訳・通訳塾の経営と大学教師の激務の合間を縫って訪ねてくださった。なんとゲラの前段階のゲラまで持参して。かくして一昨日の昼から昨日夕刻の帰京バスまで、食事以外はほとんど氏からの質問に答えたり、最終的な内容の再調整・再確認と、大真面目の打ち合わせが続いた。と言いたいのだが、実際は日ごろ『死霊』の「黙狂」よろしくほぼ蟄居状態の私のこと、話はスペイン思想を大きく逸脱して、「サンプラスイチ語学塾」の夢から、果ては貞房の人生哲学まで留まるところを知らなかったのである。
 このようにこちらは溜まりに溜まったものを吐き出すという一種の爽快感があったが、さてI氏の方はどうだったろう。今日の氏からのメールには「貴重なお話をお聞かせ頂き、心より御礼申し上げます」とあったが、字句どおりに受け取っていいものかどうか。
 氏にもお話ししたことだが、実は二〇〇二年に南相馬に帰省してからおよそ十年ばかり、スペイン思想研究からすっかり遠ざかっていた。スペイン語の本を読むことすらほとんどしないで来た。しかし原発事故に遭遇してから、このまま人生を終えるのは嫌だなとの思いが徐々に募っていた。中断したままの研究、とりわけビーベスを中心とするスペイン人文主義思想の研究を先に進めるのは無理だとしても、少なくともたどり着いたところまでの整理をしたいと思い始めていた。そんな時に願ってもないI氏からの救いの手である。
 原発事故のおかげとは口が裂けても言いたくないが、しかしそれをきっかけにさまざまな覚醒もあったし、それまで一面識も無かった国内外の人たちとの出会いも、すべてそれをきっかけとしたことは悔しいけれど事実である。ならばこの機に乗じて遣り残したことの整理に留まらず、最終的には世界中のすべての原発の廃炉、できればそれと平行してすべての核兵器廃絶へと微力を尽くしたい。
 あらあら、調子こいてとんだ大口を叩き始めたぞ。今日はこれまで。


【息子追記】立野正裕先生(明治大学名誉教授)からのコメントを転載(2021年3月21日記)。

じつに味わい深い、と同時に考えさせられるエッセイです。阿部さんのコメントとも交響して、しばし沈思黙考させられました。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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捨てる神あれば への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     村上文学が広く読まれている時流の中で、先生は、その意味をアイデンティティを先送りした群衆の生き方とモノディアロゴスの中で指摘されていたのを覚えています。今回市販本(市価本)として出版予定の『スペイン文化入門』は、先生がスペイン思想の長年研究されてきたウナムーノとオルテガを通じて、スペイン人がセルバンテスのドン・キホーテに象徴されているように、いかにして自己のアイデンティティを確立してきたかをスペインの原風景と時代背景を俯瞰しながら読者にわかりやすく解説され、日本人に何が欠けているかを問い、自分なりの見方、考え方を確立し、自分の問題を発見させてくれる本だと私は拝読して感じました。

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