たのしい幼稚園

 父は筆まめな人で、日記は簡略文で必ず書きつけておりました。物ごころついた頃からの記憶には、父の座右にはいつも当用日記がおいてあり、その年によって、大型小型さまざまでした。暮れになると、新しい日記帳を買って来て、満足そうに机の上に置いていた父の姿が目に浮かんできます。そして、ついでに、いや心がけて、私にはフロクのついた少女雑誌をその時々で、「少女世界」、「少女倶楽部」、「少女の友」などを、弟には「譚海」という少し小型で分厚いもの、そのほか「少年世界」、「少年倶楽部」であったが、私は弟の本には余り手をつけませんでしたが、弟達はむさぼるようにして読んでいましだ。
 あの新しい雑誌のにほいには何ともいえない満足感をそそるものがありました。そして付録には大てい「双六」が入っており、お正月にはよくそれであそんだものでした。

 以上は現在準備中(まだ三分の二のところ)の『モノディアロゴスXI』に収録予定のばっぱさんの「想い出の記録」中の一節、愛読した懐かしい少女雑誌の思い出である。それらは誌名を変えて今も出版され続けているのかどうかは知らない。私が覚えているのはそのうちの『譚海』だけであるが、もちろんそれはむかし叔父たちが手にしたものとはだいぶ様変わりして戦後しばらく続いた少年雑誌である。と言ってその時はまだ「高嶺の花」で、もっぱら愛読していたのは『冒険王』のようなもう少し易しい内容のものだったと記憶している。
 どこかの図書館には当時の少年少女雑誌のバックナンバーなどが収蔵されているかも知れない。一度手にとって見たいと思わないでもないが、しかしばっぱさんのように、想い出の中に大事にしまっておいた方がよいのかも。
 ところで表題は講談社の幼児向け雑誌の誌名で、他に小学館の『幼稚園』というのがあるが、付録などから察するに、前者は女の子向け、後者は男の子向けとなっているようだ。いつのころからか毎月愛のためにおじいちゃんが買ってきたが、今日発売の十二月号には、1. ジュエリーボックス、2. きらきらブレスレット、3. チェンジシート、4. イノセント・ハーモニーマイク、5. クリスマスカレンダー、となんと五つも付録がついている。
 今時の子供はスマホだかについているサプリ、いやアプリか、に熱狂しているのかも知れないが、でも視覚や聴覚だけでなく触覚、さらにはばっぱさんの言うように嗅覚までをも刺激する紙の雑誌に、記憶に残るという点で敵うはずはない。私が全能の魔法使いなら(あな恐ろし、いや、あなおぞまし)この世からすべてのスマホならびにその記憶さえも消してしまうのだが。
 話は急に人間相互のコミュニケーションへと広がるが、要するに現代人は天から与えられた五感を実に粗末に扱っているということだ。たとえばいま問題になっているラインとか何とかによるイジメもそうだが、人間というものを電子文字という極小の存在にしてしまい、それに「死ね!」とか「臭い!」などと、おそらく面と向かってはさすがに躊躇するだろう悪口を平気で書き込めるのも、五感のうちの視覚だけを使っているからだ。
 想像力は五感と連動している。五感の省略・縮小によって、当然想像力も制限されていく。たとえばヘイト・スピーチをやる連中の想像力は相当のダメージを受けているとしか思えない。戦時中の「鬼畜米英」の心的構造とまったく同じである。人間からそのほとんどの属性が消され、「鬼畜」というおぞましい限りのイメージへと収斂してしまったわけだ。
 ヘイト・スピーチで思い出した。このところ鶴見俊輔さん(と格付けが上がった)の本をいくつか読んでいるが、そのうちの一冊『思い出袋』(岩波新書、2010年)は八〇歳になった俊輔さん(さらに親しく)が老化と記憶の問題など、その時の彼より五歳若いだけの私にとって実に切実な問題を一人語り風に語っているが実に面白い。その内容にいつか触れるかも知れないが、いま紹介したいのは、これまで全く知らなかった或る戦中女性の話だ。つまり朝鮮の青年、朴烈との運命的な出会いをした金子ふみ子(1904-26)である。
 彼女は朴烈事件で大逆罪に問われたが、彼と「共に生き共に死ぬ」ことを願って獄中で自死する。瀬戸内晴海が『余白の春』で小説化したらしいが、晴海は苦手(?)なので、獄中手記そのものを探したら、『何が私をこうさせたか』として春秋社が1931年初版のものを再刊しているのがアマゾンで見つかり、さっそく注文したところである。
 その繋がりで、本棚の隅に読まれもしないであったつかこうへいの「娘に語る祖国 『満州駅伝』――従軍慰安婦編」(光文社、1997年)を見つけてきた。今まで映画『蒲田行進曲』の圧倒的な印象の影で忘れていたが、彼もまたザイニチであることを再確認した。たぶん従軍慰安婦問題などについては、ストレートな批判ではなく幾重にも屈折した感慨を述べているだろうと思うが、今回は井上ひさしとの共著『国ゆたかにして義を忘れ』と『人は幸せになるために生まれてきたのです』も注文した、もちろん破壊された価格のものを。
 今日も実感していることだが、いままで見過ごしたり読み飛ばしたり、あるいは読まずに来た重要な証言が、我が貧しい書庫の中でも再発見できるということだ。いつもの喩えを使うと、ジグソーパズルのピースは身近なところに充分すぎるほど転がっている。それらをゆっくり広い集めて、適切な形に並び替えてみること。このジグソーパズルの喩えは、一昨日、雲南旅行から帰られたばかりで拙宅に寄ってくださった渡辺一技さんにもご披露したが、うなずいてくださったから、喩えとしてほどほどの普遍性(?)を持っているのであろう(と勝手に思っている)。
 ところで冒頭に振った『たのしい幼稚園』だが、おそらく今回がおじいちゃんに買ったもらう最後の号となるだろう。愛の記憶の中で、その思い出はどんな形で残るのだろう。あるいはすべて忘却の彼方に消えていくのだろうか。まっそれも仕方ないか。


【息子追記】立野正裕先生(明大名誉教授)から頂戴したお言葉を転載(2021年3月13日記)。

読んでいていろいろ連想や想起をうながされずにはいないことがらに触れておられます。

わたし自身には孫はおりませんし、とくにほしいと思ったこともありませんが、友人知己が初孫の話をじつに楽しそうに語るのを、相槌を打つでもなく、羨ましいと思うでもなく、そばでただ聞いていることは以前よくありました。無感動なわたしにかまわず、相手はエピソードを披露して気がすむまで、ひとしきり語り続けます。
しかし、それも間遠になり、やがて自然に話題に出なくなります。むろんこちらから促すようなこともありません。代わりにスポーツ談義、あるいは政治談義、そして種々の事件談義と相成ります。
いっさい話に出ないのが自己のことです。せいぜい持病自慢に終始するぐらいがせきのやまといったところでしょう。
老人とは、あるいは老人になるとは、かくのごときものか。
退職前後から声をかけられて出かけてゆく会合がいくつかありましたが、コロナ禍を機にすべてぱたりと途絶えました。それでいい、とわたしは思っているのです。

イタリアのテルツァーニというエッセイストがおります。何冊もの著書があり、本国では最も信頼されている一人ということです。この人のことを詳しく知っているわけではありませんが、著作から、確かに非常に深い思索家であることがうかがわれます。末期ガンを患っていて、ヒマラヤの何処かで暮らしていると聞いたのはもう何年も前です。
あるとき佐々木先生にこの人物のことをお話したことがありました。関心をもって聞いてくださった。メールのやり取りですから、丹念に探せば記録が残っているはずですが、わたしがお伝えしたのは、人は人生の大半をすぎたあとになって、記憶に値するなにも自分の人生に起きなかったという事実に気づかされる、とテルツァーニが語っていることでした。
この心境を人は避けてとおることが出来ないもののようです。ましておびただしい書物や文献資料に取り囲まれて半世紀も学究として過ごしながら、あるときふと気づいてみると、自分のなかががらんどうでなにもない、という事実に人はどのように耐えるのか。
壮年期まで自らに期するところあった人であれば、なおさら落莫の実感は痛切をきわめる。
そういう人々を、何人もわたしは知っています。幸か不幸かは推測の限りですが、多くの先輩方がすでにこの世の人ではなくなりました。神田神保町の古書店街をあるいていると、店先に投げ出されるように置かれた段ボール箱に目が行きます。無造作に突っ込まれた廉価本のなかに、わたしの知る人の蔵書だったとおぼしい書物を見かけることがまれではない。遺族が始末に困って引き取らせたのでしょう。わたしは手に取って購入するときもあれば、もとに戻すこともあります。
感傷にふけるわけではありませんが、学者や教授として生きられた人生の多くが辿る行路(末路?)を、勤務先大学がごく近いので、まるで日常のようにわたしは目の当たりに見てきました。
数日前も古い友人から葉書が届き、われわれの先輩である方が先月中旬物故されたことが分かったと知らせてきました。満九十歳だったそうです。この先輩はわれわれの共通の恩師の一番弟子と目された人でした。
立野よ、やたらに書くな、筆を惜しめ、惜しんで書け、というのが後輩やわたしのような若輩に対する先輩からの忠言でした。事実、著書は生前一冊のみ。学生にシェークスピアの面白さを分からせたいという趣旨で書かれた啓蒙書です。
恩師ご自身が著作の極度に少ない人でした。弟子筋がみな師にならったと言えば聞こえはいいでしょう?が、翻訳は何冊かあっても自著を持つ人はあまりおりません。わたし自身も六十歳までただの一冊も著書を上梓したことがありませんでした。還暦を目前にして、ある日冷水を浴びせられた心地を味わったのを覚えています。おれはいったいなんなのだ、と思いました。大学のロクを食んでいままで三十年やって来たというのに、仕事が全然かたちになっていないではないか。そこへ思いを致して茫然となりました。
さいわい督励してくれる人々がいて、とにかく一冊はかたちにしてから還暦を迎えようと腹をくくりました。
したがって、遅きに失した出発どころの話ではないわけです。まして遅れを取り戻すどころではない。世間の同年代の人々は引退して孫の話を楽しそうにしている。サッカーだの、野球だの、相撲だのの話に夢中になっている。
どれも無骨者のわたしが興味を持てる話ではありません。好きな映画でさえ、ロッキーだの、カンフーだの、フィールドオブドリームだの、といったスポーツや格闘技を扱った作品は評判のよしあしにかかわらず見ない。
とにかく、そんなこんなで、自分の老いという現実とどのように向き合うかを考えざるを得なくなったわたしは、遅きに失したとはいえ、ものを書こう、書き続けられるあいだはものを書こうと思い定めた次第です。
そして、そういう矢先と言ってもいいころに、佐々木先生のモノディアロゴスに遭遇しました。そのときのわたしの内側に生じた驚嘆の念を、ひとくちで言い表わすことはとても出来ません。なんという膨大な日々の思索の営みであろう! モンテーニュやアミエルやピープスといった先人の例は知っていましたが、同時代の日本で、佐々木先生のモノディアロゴスのような豊かな批評的思索の営為、半ば私的半ば公的な言表空間を自分が見いだすことになろうとは想像のほかだったのです。
ここで阿部さんとも出会いました。初めはコメントを愛読していただけだったのが、その欄を談話室と改称していただいてからは、遠慮なく上がり込むようになりました。水を得た鯉と申すのは僭越ですが、初めのほうに書いたような無感動に相手の話を聞いているという状態とは打って変わり、言いたい放題に振る舞わせていただいたのです。阿部さんとはいまも連日のように筆談対話を続行させていただいています。腹蔵なく語り合うことの出来る最良の友を引き合わせてくださったのも佐々木先生でした。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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