夕刻、ガラス戸越しに西の空を見ていて、不意に武蔵に会いたくなった。以前も一度、武蔵と小次郎に会いたくなったときがある。もちろん吉川英治の武蔵と村上元三の小次郎である。二人ともよっちゃんに進呈してしまったあとだった。その時は河出書房「国民の文学」村上元三集が安く手に入ってなんとなく落ち着いた。しかし戻ってきた小次郎にその後会いに行ったわけでもない。いつでも会えると安心しただけだ。単なる所有欲? かも知れない。コレクターが集めるだけ集めて満足しているのに似ている。
だが数日前、武蔵はどうなった? と気になりだした。美子の介護に係る雑事以外にも、いろいろ片付けなければならない約束事やら課題があるのに、なぜか気になりだしたわけだ。でも待てよ、武蔵はとんでもない破格の値段で手に入ったのでは?
さっそくアマゾンを調べてみた。するとまだありました、講談社の「吉川英治歴史文庫 宮本武蔵全八巻」が、何と送料込み1,429円で。店頭売りならまだしも、これはもう価格破壊なんてものではなく、まさに文化破壊です。おそらく倉庫代の方が高くつくので放出するわけでしょう。こんな事態がいつまで続くのか分からないが、でもこの際下手に文句など言わずにありがたく買わせてもらいます。
それが今日届いた。もちろん前回と同じくさっそく衣装換えです。2巻ずつ合本にし、先日の「日本児童文学全集」の外箱を解体したボール紙で表紙を補強し、それを百円ショップで買ったよもぎ色のインド木綿でくるみ、それぞれに佐多芳郎のカバー絵を貼って、世界に一つしかない『宮本武蔵』出来上がりです。
そんなことをしたって誰が読むでもなく、いつかそう遠くない末来に、この陋屋と共に朽ち果てるのに。無駄な時間と労力? そうかも知れない。でもこれより世のため人のためになることといって、とりあえず何かあります? だいいち人生ってその大半は時間をつぶすことに費やされるんじゃない?
時間を過ごす、というのをスペイン語では pasar el tiempo と言うが、この pasar(過ごす)という言葉は、「耐える、我慢する」という意味もある。日本語でも「やり過ごす」という言葉がある。つまり貞房流に言うと、生に耐える、生きることに耐える、である。つまり人間にとって、世界は、国は、社会は、あるいは家庭は、多くの矛盾を抱えていて、間尺に合わないことだらけである。真剣に生きようとすればするだけ、苦しくなってくる。
貞房氏って見かけとは違って意外とペシミストね、ですって? いや正確に言いますと、ペシミスティック・オプティミスト、つまり悲観論的楽観主義者です。根底は楽観主義、平たく言えばチャランポラン。
話は武蔵に戻るが、実は吉川武蔵でいちばん記憶に残っているのは武蔵やお通と言った主役級の人物ではなく悪役、それもばあさんである。そう、お通の元いいなずけ又八のおっかあである。又八が道を間違えたのは武蔵のせい、ととんでもない逆恨みでねちっこく武蔵の命を狙うが、あの強烈な個性がなぜか印象に残っている。
そのうちまた街道筋にお杉ばあさんの姿を求めて新装成った『宮本武蔵』を読み返すかも。いや全編は無理としても、つまみ読みくらいはするつもり。
※ いま慌てて訂正しましたが、悲観論的楽観主義者をオプティミスティック・ペシミストなんて書いてました。逆でした。でも本質形容詞という考え方もあって、属性が本質を凌駕・変質させることもある。例えば日系アメリカ人の場合、アイデンティティは日本人それともアメリカ人? 話はややこしくなるので止めておきます.2月28日訂正