「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止(とど)まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許して呉れた事はない。徒歩から俥(くるま)、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何處迄行っても休ませて呉れない。何處迄伴(つ)れて行かれるか分からない。實に恐ろしい」(「塵労」32)。
これは漱石『行人』の中での一郎の述懐である。今になって、と言うか今ごろ、漱石の小説を読むことになった。先日スペインのサトリ出版社から印税代わりにもらった日本文学西訳本の中に入っていたのを、何気なく読み始めたのだが、途中で止められなくなってしまった。そういえば文豪漱石といっても、その作品をまともに読んだのはほんのわずかではなかったか。恥ずかしながら『行人』は今回が初めてである。
止められなくなったのは、例えば推理小説の場合のように犯人探しが面白いとか、筋自体に引きつけられたとか、あるいは文章自体が流麗で味わい深いからというわけではない。正直に言うと誠に辛気臭い小説で、主人公たち(一郎,二郎の兄弟)は両方ともつねに不機嫌であり、北の方言で言えば「神経たかり」、つまり極度に神経質な男たちである。
もちろん彼らの不安定な精神状態は、それまでの生活基盤などあらゆる価値体系が根こそぎ崩れていく時代の波に翻弄された人間一般に共通するものではあるが、それにしてもこう長々と臆面もなくその心理状態の変化を読ませられるといささか辟易しないでもない。でも最近では珍しくとうとう最後まで読みきった。
文豪に対して失礼な言い方をしてしまったが、でも悔しいけど(?)最後まで読まされたのは、やはりこの小説が人間の真実を真正面から見据えているからであろう。実は原文とスペイン語訳を交互に読み進めたのだが、私のスペイン語読解力の衰えにもかかわらずスペイン語での方がすんなり頭に入ったのはどうしてか。
いや理由は簡単である。漱石の日本語が現在の日本語とかなり違っているからだ。生活習慣などに関する表現が時に注釈を必要としているのは、それだけ日本語が執筆当時から大きく変化してきたからである。『行人』が書かれたのは二葉亭四迷が『浮雲』(1887~89)で言文一致体を試みてから20年ちょっとしか経ってない時代の作品なのだ。
スペイン語訳ではその問題はないが、しかし現在のスペイン人はこの作品を読んでどんな感想を持つのか気になった。幸いグーグルを検索してみるといくつか書評が出ており、それらをすべて読んだわけではないがおおむね予想通りである。つまり通常のヨーロッパの小説とは結構にしろ描写の仕方にしろ大きく異なっていて最初は戸惑うが、しかし人間観察やテーマそのものへの真剣な迫り方にはやはり感銘を深くしているようだ。
ともかく一世紀も後になって、近代あるいはその哲学とも言うべき進歩幻想、あるいはその具体的な力としての科学の危険性をようやく認識し始めた我々にとって、文豪漱石は実に慧眼の士だったわけだ。それでも以前からそうした漱石の鳴らす警鐘を気にはしてきた。もうどこかで引用したことがあるが、ここで改めて漱石の言葉を思い起こしたい。
「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。……向後何年の間か、又はおそらく永久に今日の如く押されて行かなければ日本が日本として存在できないのだから……ではどうして此急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。只出来るだけ神経衰弱に罹らない程度に於て、内発的に変化して行くが好かろうといふような體裁の好いことを言ふより外に仕方がない…」(「現代日本の開化」、明治44年の講演より)
この近代人漱石の苦悩は百年後のわれわれと無縁ではありえないのだが、漱石の時代の変化が少なくとも可視的であったのが、今や超高速となってわれわれの意識に上らないだけで、問題はさらに深刻の度合いを深めていることは間違いない。
さて話を元に戻して、サトリの日本文学への取り組み方が尋常でなく本格的であることを知ってもらうために、先日の俳句シリーズに続いて、今回は「文豪」シリーズを紹介しよう。
- 夏目漱石『行人』
- 徳富蘆花『不如帰』
- 泉鏡花『高野聖、他』
- 近松門左衛門『曽根崎心中、他』
- 芥川竜之介『或阿呆の一生、他』
- 島崎藤村『破戒』
- 夏目漱石『道草』
- 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
- 永井荷風『濹東綺譚』
- 幸田露伴『五重塔、他』
- 上田秋成『春雨物語』
- 夏目漱石『夢十夜、思い出す事など』
- 林芙美子『放浪記』
- 井原西鶴『男色大鑑』
- 森鴎外『阿部一族、他』
- 泉鏡花『竜潭譚、他』
- 太宰治『思い出、富獄百景、他』
- 以下続刊
以上はカルロス・ルビオ教授監修の叢書だが、他に「サトリ・フィクション」叢書として、これまで以下のものが出版されている。
- 坂口安吾『桜の森の満開の下、他』
- 太宰治『お伽草子』
- 浜尾四郎『悪魔の弟子、彼が殺したか』
- 宮沢賢治『ブスコーブドリの伝記、他』
- 為永春水『赤穂四十七士』(これは二代目為永春水作の『いろは文庫』の翻訳で、すでに1880年の Edward Greey などの英訳本から、1910年に Angel Gonzalez によってスペイン語に訳されていた。今回の訳はそれを基にサトリのマリアン・バンゴさんによって新たに稿を改めたものである)。
このシリーズも以後続刊ということだし、また佐藤るみさんが吉川英治『新平家物語』の完訳に挑戦中だから、ヒホンという地方都市の小さな出版社がこの先どこまで日本文化・文学の紹介を広げ深化させるのか楽しみである。実は以上二つのシリーズ以外にも神道や弓道、あるいは妖怪ものなどわれわれ日本人にとってもよくは知らない日本文化紹介の本を出しているが、その紹介は次回に回すことにしよう。
ともかくサトリのアルフォンソさんマリアンさんの真摯で粘り強い日本文化・文学紹介の仕事は実に驚嘆に値する。折りしもアニメ・マンガや日本食など日本のポップ・カルチャーがスペインでかなりの愛好者を増やし続けているが、それをもいわば追い風としてサトリ経由の本格的な日本文学・文化紹介が、わが国のかつてのロシア文学受容の時のようにスペイン人の意識革命に深い影響を及ぼし、それがまた跳ね返ってわれわれ日本人にも貴重な示唆を与えてくれることを期待したい。
『赤穂四十七士』の紹介のところで言い忘れたが、本文翻訳はマリアンさんだが、ヘスス・パラシオスという人がその編集作業を担当している。彼のまえがきを読むと、亡父ホアキン・パラシオスさんから彼の少年時、日本の伝統・習慣・文化への愛好を植え付けられたそうで、種本になった古書もすべてこの亡父の残した蔵書からのものだそうだ。異国文化の波及というのも、最初はこうした個人の熱烈な思いという小さな種子からいつか芽を吹くのだということを教えられて意を強くしている。
そんなことを強引に我が事に結びつけた話になるが、先週の土曜、およそ七ヶ月ぶりに息子と孫娘が一時帰宅してくれたのだが、その折りを捉まえて、孫娘にいつかスペインに留学するように、そのころはおじいちゃんとおばあちゃんはこの世にいないかも知れないが、おじいちゃんの残したたくさんの本を読んで、そうね、出来れば面白いスペインの童話や少年少女物語を訳すようになって欲しいね、などと焚き付けている。でも孫娘、お友だちの間の話題になっているのか、私いつかオーストラリアに行こうかな、などとおっしゃる。(オージーの皆さんには悪いが)スペインには長ーい独自な文化と歴史があってずっと面白いよ、などと慌てて爺さん自説を説いたりしている。ま、それより前に息子をうまく引き込むことだが、幸い最近、スペイン思想研究を生涯の課題にしようかなどと考え始めているらしいので、お爺ちゃんにもようやく明るい末来が開かれるかも知れません(まだ分かりませんが)。
そんなこんなで老夫婦なんとか無事に日を送ってます。話は突然大きく変わりますが、そんな日々、あの益体も無い、というか危険このうえも無い安保法案に対して、政界の「重鎮」たちやら憲法学者たちやらがようやく動き出したのを見ながら、それじゃ遅いっつーの!と檄を飛ばしています。かといってデモに出かけていくこともできず、こうなりゃやけくそ、とばかり、連日蔵書の整理・装丁にいよいよ熱を入れてる今日この頃であります。本日の最後の仕事は、ドン・キホーテが愛読していた『アマディス・デ・ガウラ』という古い騎士道小説の現代スペイン語訳で、簡素な紙装本を厚紙と私の古いシャツの切れ端で、見栄えのいい布表紙の本に仕立て直しました。
この一週間、今日まで何も書かずに来ましたが、ここまで書いてちょうど原稿用紙9枚分を超え、少しほっとしてます。量じゃなく質だよ、とどなたかの声が聞こえてきそうですが、ま、そこんところはどうぞ長ーい目でみてください(両目尻を両手で横に長ーく引っ張りながらオカマの独り言風に言う小松政夫のこの古ーいギャグ、今じゃ覚えている人も少なくなりましたでしょうね)。
【息子追記】立野正裕先生からFacebook上で頂戴したコメントを以下に転載する(2021年2月16日)
『行人』をスペイン語で読まれた先生にぜひうかがってみたいことがありました。確か上智大学教授だったスペイン人の方が、『行人』のモチーフかテーマか、『ドン・キホーテ』中のある挿話に着想を得ているのではないかという仮説を立てているのを、いつか読んだことがあるのです。その挿話は岩波文庫のセルバンテス短篇集に「愚か者の話」として収録されています。妻の貞操を信じきれぬ夫が、親友に無理に頼み込んで妻を口説かせる。すると初めのうちは志操堅固だった妻が親友とほんとうの恋に落ち、駆け落ちしてしまう、というような話だったと思います。そこに漱石は、「信」というものの根拠を見失った近代人の魂の虚無と危うさを見ている、という論旨でした。佐々木先生が「殉教者、聖マヌエル・ブエノ」と『こころ』の比較をとおして考察された近代人の魂の問題を、セルバンテスと漱石との比較でなさったとしたら、といまになって夢想しております。
漱石の文章の中の内発的、外発的ということを考えていましたが、日本人は昔から主体性に欠けている民族なのかなと漠然と感じます。周りがどのように変わって行っても、変わらない自分という確固とした信念というものがなければ、周りに流されてしまいます。マハトマ・ガンディーは非暴力、不服従を貫きインドを独立させました。そこには確固とした不動の信念がありました。いかなる状況になろうとも日本は武力行使はしないという主体性ある信念を世界に発信することが大切だと私は思います。世界情勢の変化に伴い日本の防衛のあり方も変えていくということが安保法案の主旨なんでしょうが、そこには主体性も信念も見えません。ガンディーがこう言ってます。
私は失望したとき、歴史全体を通していつも真理と愛が勝利したことを思い出す。暴君や殺戮者はその時は無敵に見えるが、最終的には滅びてしまう。どんな時も、私はそれを思うのだ。