逃亡からの逃亡

同じ歳の人の死はやはり気になるものである。もっとも、もうすぐ九十八歳になる健次郎叔父という頼もしい先輩のことを思い起こして、すぐさまその不安を打ち消すようにしてはいるが。それにばっぱさんも九十八歳まで生きたわけで、その息子がそう簡単に死ぬまいと思い直す。叔父と同じ誕生日のばっぱさん、生きてればもうすぐで百三歳になる。
 福島出身の詩人・長田弘さんが胆管ガンで今年の五月三日に亡くなっていたのを知ったきっかけは、やはり本の整理中だった。彼と鶴見俊輔と高畠通敏の鼎談の形で出た『日本人の世界地図』(1978年、潮出版社、現在は潮文庫、岩波同時代ライブラリーでも読める)という本を見ているうち、はて彼は今どうしているのか、とネットで調べて分かったのである。他に彼の本を二冊ほど持っているだけで会ったことはないが、なんとなく気になる人ではあった。
 それは彼が同年齢で福島出身であるということと、島尾敏雄著作集(後に全集)を出した晶文社で彼は一時編集者として働いていたはずで、マタイス神父さんと訳したオルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』の出版社を探していた時、そこの中村勝哉社長に話を持っていこうか、と考えたこともあったからである。もしそうなれば彼と出会うこともあったはずだ。でも結局オルテガは現代思潮社から出してもらった(後に単独訳で末来社から)。
 いや、どうも話が当初考えていたことからどんどん離れていきそうなので軌道を修正する。『日本人の世界地図』のことであった。これは、現代日本人は世界をどう見ているかを検証すべく、三人の評者が旅行記や滞在記、小説や研究書など幅広い資料を渉猟しての鼎談である。雑誌に連載されたものらしいが、面白いのはイギリスやフランス、ドイツなど、要するに近代ヨーロッパを牽引してきた国々が対象からはずれていること、つまり反近代の視点からの世界地図ということであろう。12回の鼎談で取り上げられた国々を列挙すると、先ずはアメリカ。
 しかしこのアメリカも従来のアメリカ論とは決定的に違っている。たとえば、たまたま私も持っているグッドマンと言う人の『逃亡師』(晶文社、1976年)が取り上げられている。著者はユダヤ系アメリカ人で、その彼が日本に来て日本語を修得し、日本語で書いた本で、副題は「私自身の歴史大サーカス」となっている。
 つまり彼はユダヤ人であることを意識下に抑えて(第一の逃亡)、アメリカ的近代化の尖兵として日本で英語教師を始めるが、当時のベトナム戦争などを契機として、英語がキリスト教的アメリカのモラルに裏打ちされた侵略の言葉であることに目覚める。そして日本語でこの自伝を書く過程で己の中のユダヤ性を確認し、かくして逃亡からの逃亡(第二の逃亡)を企てる。ひじょうに屈折した隘路だが、彼にとっては必然の道筋のようだ。
 ついでに言うと、わたくし貞房の逃亡は、彼とはまったく違う意味と道筋を辿っているが、これについてはいつかまとめて書かなければなるまい。少しだけ言わせてもらうと、貞房の逃亡もまた逃亡からの逃亡という二重構造だということである
 ところでこのグッドマン氏の今は?とネットで検索してみると、彼は日本人の奥さんと帰国し、イリノイ州立大学で教えていたが、なんと彼もまた2011年7月25日、大腸がんのため死去、享年65歳とあった。才能のある人なのに残念である。せめてもの追悼の意を込めて、長田氏の『猫に未来はない』(角川文庫、1982年、13版)と彼の『逃亡師』を布表紙にするなど少し飾ってさしあげた。合掌。
 さて『日本人の世界地図』の紹介が中断したままだったが、アメリカのあと韓国、ロシア、インド、タイ、フィリピン、中南米、アフリカ、中国、東欧、そして最後を締めくくるのがスペインである。ここで勘のいい人はハハーンと気づかれるかも知れない。その第十二章のタイトルは「ゴヤとドン・キホーテの哲学」。そう、そこで主に取り上げられているのは堀田善衛の『ゴヤ』(新潮社)と佐々木孝の『ドン・キホーテの哲学』(講談社現代新書)なのだ。本当は自己宣伝も含めてこの第十二章を詳しく紹介したかったのだが、余談を語ることで疲れてしまったので、今回はこれにておしまい。興味のある方は実物をお読みください。これでは竜頭蛇尾というよりむしろダトウダビ(蛇頭蛇尾)、つまり徹頭徹尾ただのヘビ、見世物小屋だったら「木戸銭返せ!」の大合唱になるところだが、客席には客もおらず閑古鳥が鳴いているので助かります。
 相変わらずの生活を続けてます。幸い美子は風邪も引かず、お腹もこわさず元気にしてます。ただ介護者の方がどうも元気が出てきません。といってどこか悪いわけでもないのですが、ときどき気が滅入ります。今日は二人の死者の話もありましたが…南相馬の桑折馨さんが言うように「頑張るよりしょうがない」、美子のためにも元気を出します。皆さんも元気で頑張ってください。
 今日ようやく冬タイヤを夏タイヤに替えてもらいました。数年前までは自分で替えてたのに、今じゃ悔しいけどとても無理です。あゝそうだ、もう少しで『モノディアロゴス』第十二巻を出します。240ページまで来ました。乗り越えられそうな小さなハードルを次々と設定しながら頑張っていくことにしましょう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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逃亡からの逃亡 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     昨年「こころの時代」に長田さんが出演されていましたが、亡くなられていることは初めて知りました。その番組の中で「うつくしい夕暮れの空と樹」という詩を紹介されていて、人間の作ったものはすべて自然の回復力はないが、どんなところに居ても夕暮れは美しいと言われていたのを思い出しました。三年余りモノディアロゴスを拝読している一読者として、先生が表題に鳥の名前をつけられたものが数点あり、その中で先生と長田さんは同じような視座から鳥を捉えられている印象を私は感じます。先生が「なんとなく気になる人」と言われた意味が漠然とですがわかるような気がします。「長田弘 dailymotion」で検索すればパソコンでもその番組は視聴できます。

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