自信喪失から自信過剰へ

晩年の埴谷雄高さんのお便りに、必ず「このごろすっかりボケてきました」とか「大ボケ進行中」といった言葉があって、あの頭脳明晰・博覧強記の埴谷さん、少し大げさだな、と思ったが、そういう当時の埴谷さんより若い自分が、すでにめっきり物覚えが悪くなったことを日々感じさせられている。今日もある人の名前を思い出せなくて、どうも落ち着かない。それで夕方、その人と共通の友人である西内さんに電話したところ、彼もその人と何時も一緒だったSさんの名前は思い出したが、当の人の名前はとっさのことでもあったのでやはり思い出せなかった。
 こうなると気になりだして、いろいろ手を尽くした。その人は震災前わたしのスペイン語教室の聴講生だった人だが、震災後ほどなくしてファミレスの「ココス」で再会した時のことをこのモノディアロゴスに書いたのを思い出し、さっそく「ココス」で検索。するとありました。しかしそこには実名ではなく「おばさんたち(失礼)」とだけ書いてあるではないか。さて行き詰ったぞ。でももしかしてネットの「日録」に記録したかも。それで年と日付を特定して調べると今度こそありました、Oさんでした。
 物覚えが悪くなったのに、それと反比例して(?)最近これまでなんの疑問も感じないで聞き流してきたことがやたら気になりだしたのはどうしてか。たとえば今日も例のばっぱさん秘蔵の「昭和流行歌集」を聴いているとき、「はっぴゃくやばし」という言葉に鋭く反応(?)。どこか橋の多い町のことと思うが、さてどこ? 長崎、ヒロシマ?
 現在はむかしの老人たちには無かった手立てがいろいろとある。たとえば手元の電子辞書になかったら、ヤフーの検索エンジンにかけると、あっというまに調べられる。今回のものも「八百八橋」として大阪のことを指している、とすぐ分かった。
 さてここまでが異常に長い「前振り」(これは辞書には無い芸能界の業界用語)。実はそのOさんのことは、今日の午後いつものようにスペイン語の本を借りにきた辻君がきっかけであった。つまり帰りがけに、以前私のスペイン語教室の聴講生であった彼のお父さんの近況を聞いたところ、最近かつての仲間たちとフォルクローレを始めたという。誰たちと?と聞いたが、彼は名前までは知らない、とのこと。それはともかく、そのとき二階に埃まみれになっていた楽器のことを思い出し、それらを貸そうということになって、二階に探しに行ったのである。すると、ありました、ありました。
 高さ60センチ、直径50センチほどの布ケース入りのボンボ(子羊の革を張った太鼓)。立派な金属性ケース入りのチャランゴ、ケーナ二本、マラカス、ギーロ(洗濯板みたいな波型の表面をスティックで擦って音を出す楽器)、サンポーニャ、そしてレインスティック(筒の中に入った小石?で雨音のような音を出す楽器)以上である。実はこれらは、以前高校生たちとフォルクローレのサークルを作った際、彼らのためにボリビアから直輸入したものだが、その高校生たちの卒業がきっかけでサークルは崩壊、楽器だけが残ったという次第。
 ボンボとケーナのことは覚えていたが、正直言うと他の楽器のことはすっかり失念していた。ともかくこれだけあれば小さな楽団くらい結成できそうだ。辻君喜んで、乗ってきた車のハッチバックに積んで帰っていったが、それからしばらくして彼のお父さんからお礼の電話があり、その際Oさん……待てよ、そのときOさんの名前が出たんだ…すると電話を終えた時点ですでにOさんの名前が消えた。なるほど、だから必死に思い出そうとしたんだわい。かくのごとく、ボケ進行中。よほどしっかりしなきゃ。
 話はとつぜん変わるが、相変わらず本の整理・再装丁の作業は続いている。今日はビーベスという十六世紀スペインのウマニスタの本を整理していたのだが、下線など引いた跡があって確かに読んだはずなのに、どうしても内容が思い出せない。相馬移住以後十三年近くスペイン思想から遠ざかった空白の年月は、やはりこの哀れな脳髄からいろんな痕跡を消してしまったらしい。いやいや愚痴を言っても始まるまい。謙虚に、まるで初めて読むように、楽しみながら挑戦していこう。
 それでは景気の悪い話の後に、少し明るい話題を。もう何度か書いたと思うが、これが日の目を見ないうちは死ねないとまで思いつめた我が悲願が、少し動き始めたという話。
 もうこれまでうるさいほどラブコールをしてきたハビエルさんから、ようやく待望の前向きの返事が来たのだ。つまり私のこれまで書いた創作などを単なる翻訳としてではなく、…いやこれについては彼ともう少し詰めた段階で改めてご報告することにしよう。ともかく今日、その朗報をもらった後、収録作品の一つになるはずの『ビーベスの妹』(呑空庵刊『切り通しの向こう側』収録)を読み直してみた。『青銅時代』に発表した当時は、そしてその後もずっと、誰からも評価されずにひっそり私家本の中に眠ってきたが、これはスペイン語になってスペイン語圏の読者に読まれることで初めてその真価が発揮できると信じている作品。虎の威を借る物言いになるが、近松門左衛門言うところの「虚実皮膜」を地で行く作品とでも言おうか(ちょっと恥ずかしいが)。
 もちろんそれ以外の収録作品についての腹案はあるが、ともかくこの計画は翻訳者と言うより共同執筆者のハビエルさん、そしてイラストを書いてくださればと願っているエバさんと原著者の三者一体の作品作りだということである。ほんと、これが日の目を見ないうちは死ねないし死にたくない。
 見なさい、これについて説明しようとするだけで、もう疲れてしまうほどの凄い作品集にしたいのです。〈陰の声 大言壮語もここまでくればご立派。ともあれ今日は自信喪失から自信過剰へと大きく揺れ動いた一日でした〉

※追記 近隣に住んでいる方で、もしフォルクローレに興味のある方がいましたら、今ならたぶん仲間に入れてもらえると思いますので、私までご連絡ください。私から辻さんにお願いしてみます。これまで静岡でも八王子でもフォルクローレのサークルを作ってきましたが、私の密かな願いは、私自身はもはや参加できませんが、辻さんたちのグループがいつか川俣のコスキン祭に出場することです。今思い出しました、例のOさんケーナの名手です。
 あの独特な哀愁を帯びた音色には聞くたびに胸をうたれます。たとえば「コンドルは飛んでいく」の、あのア♫ーア、アーア♬というメロディーを聴くと大空を悠然と舞うコンドルの姿が目に浮かんできます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学などの大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、宮城県立がんセンターで死去(享年79)。
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