朝からどんよりとした曇り空である。この空と同じように、いま日本はどこにも出口の見えない泥沼にはまり込んでいるようだ。このモノディアロゴスはいちいち時局に反応するものではないが、隣のコメント欄に紹介した菅さんの怒りが飛び火したのか、この際一言いっておきたくなった。
安倍が登場した時点からこの男のいかがわしさについて注意を促してきたが、曲がりなりにも言葉で勝負してきた私などからすると、先ず気がつくのは彼の、何と言えばいいのかつまり言語活動そのもののいかがわしさである。要するに、政治家にとっても言葉は命のはずだが、彼にとって言葉は相手を言いくるめるための悪しきレトリック、つまり以前オウム真理教の上祐史浩が「あゝ言えばじょうゆう」と揶揄されたのと全く同じ次元のものに成り下がっている。
以前、武田泰淳さんの政治家の言葉についての鋭い論評(『政治家の文章』、岩波新書、1960年)を紹介したことがあるが、もちろん安倍の書いたものなどそれ以前のものであろうことは容易に想像できる。それはさておき、いま彼ならびに政権与党の政治家たちが最近好んで口にする「切れ目のない」と言う言葉だけに注目したい。
特定秘密保護法成立のあたりから良く耳にするようになった言葉だが、簡単にいえば、そして善意に解釈すれば、彼ならびに彼の徒党は、法というものを逆説的な意味で全能と考えているのかも知れない。つまり法律や条文ですべて抜かりなくカバーしようとしているのかも知れない。
ところが、最高法規たる憲法などは理念を謳い上げているものであって、言うなれば安倍流に言えば本来「切れ目だらけ」のものなのだ。その理念を仰ぎ見ながら、それに適うべく人間の側からの絶えざる努力が要請される。その努力は、その意味では「切れ目のない」努力と言ってもいい。
ということは、安倍たちの言っている「切れ目のなさ」は、最高法規たる憲法を仰ぎ見る視点からではなく、条文から恣意的かつ融通無碍に繰り出される「免罪符」のことを言っているようだ。つまり彼らにとって法は条文解釈を盾に、己の都合に合わせて国民を動員できるための道具と見做されているわけだ。
豪腕と強権を振り回す陽性の独裁者ではなく、絶えず後ろ盾を必要とする気の弱い独裁者、の登場である。性質(たち)から言えば、この方がもっと陰湿で危険である。
先日、ネットでたまたま目にしたのだが、宮崎駿さんが外国特派員協会で「憲法解釈を変えた偉大な男として歴史に名前を残したいのだと思うが、愚劣なことだ」と言った。良くぞ言ってくれたと思う。埴谷雄高大先輩の「グレーツ」という言葉を思い出して嬉しくなった。それにしてもいわゆる有名人(芸能人も含めて)の中から政権批判の言葉があまり聞こえてこないのはどうしてか。事務所からストップがかかっているのかどうかは知らないが、そういう人たちの本性、もっとはっきり言えば浅ましい根性が透けて見えてなんとも情けない。
さて本日の衆院本会議での強行採決のあと、舞台は参院に移り、そして60日ルールとかで参院で難航しても結局は衆院に戻されて可決されるという筋書きなんだろうが、そこが議会制民主主義のいいところで、要するに次回総選挙まで執拗にめげずに、いやさらに勢いをつけて政権批判を繰り返し、彼らを政権の座から引き摺り下ろすしかないだろう。将来直接の被害者となる若い世代や無関心層の間に燎原の火のように現政権反対の運動が広がってゆくことを心から期待したい。
私はどうする? 公には例の安保法案に反対する学者の会への署名、九千分の一の意思表示だけでなんとも歯がゆい思いをしている。それにしても真言宗とかの反対表明を見たが、キリスト教※など他の宗教団体からの態度表明はまだ見当たらない。政権与党の一翼を担った公明党の母体・創価学会は音無しの構え? ま、もともと期待はしてないけれど。
※追記 「日本カトリック正義と平和協議会」が強行採決への抗議声明を出したようだ。