いま机の上にアレックス・ヘイリーの『ルーツ』(安岡章太郎・松田銑訳、社会思想社、1977年)が乗っている。上下二巻を例の如く合本にしたもの。合計760ページにもなるので、背中に布を貼って補強している。そしてこれをさしあたって(?)アマゾンから取り寄せる最後の本にするつもりだ。
陋屋だが二棟だからスペースなどありそうだが、実は一部を改造しないかぎり、もうほとんど壁面は埋まっていて、これ以上本は増やせない。いや、たとえスペースを無理して作ったとしても、私自身に残された時間のことを考えると、これ以上増やせないことを認めざるを得なくなった。
それで『ルーツ』が最後の本になったわけだ。たとえ今後、興味のある本が例の破壊された価格(1円)で出ていても、もう買わないと決心した。以上、いつものように長すぎる「前振り」である。本論に入る。
安岡章太郎さんが、かつて(1977年ごろ)のベストセラーで、これを一つのきっかけにしていわゆる先祖探しがブームになった『ルーツ』の共訳者であったことを迂闊にも今回初めて知った、いやもしかして失念していたのかも知れない。ともあれ、実は氏の訳書にはもう一冊、シャンソン歌手で実存主義者のマルセル・ムルージの『エンリコ』(品田一良と共訳、中央公論社、1975年)というものもあったことを最近知って、アマゾンから取り寄せたのだが、そうした作業(?)の過程で『ルーツ』のことを知ったのだったかどうか、それさえもう忘れている。
また前振りに戻りそうなので急いで本題に帰る。実は『ルーツ』の側にもう一冊、正確には二冊の文庫本をやはり合本にした安岡さんの『流離譚』(新潮文庫、1986年)がある。ここ数日、この二つの本を眺め、時おり拾い読みをしながら溜め息をついている。『ルーツ』翻訳がのちの『流離譚』執筆のきっかけ、あるいは少なくとも刺激になったのかどうかは知らない。ともあれ『ルーツ』の場合は時間的にも距離的にも遠いアフリカの部族に先祖の痕跡を求めているわけだから、大半以上は想像力の所産だろうが、しかし『流離譚』の場合はそうはいかない。おそらく物凄い量の古文書を渉猟しながらの作品作りで、そのことは巻末の小林秀雄の解説でも触れられている。
わが溜め息の理由は、この歳になって、とりわけ大震災後、自分のルーツがようやく気になりだしたが、記録や家系図が残されているわけでもないので、過去はただ茫洋と闇に包まれているからだ。
父方の先祖を辿ろうとしても曽祖父止まりだ。今は亡き父の弟・直(つよし)叔父が残してくれた記録によると、曽祖父・佐々木兵作は明治38(1905)年死亡、妻ミツはその前年死亡とだけ記されている。そしてその子、つまり私の祖父・三之助は文久2(1862)年生まれで昭和5(1930)年死亡、祖母・モト(仙台・鉄砲町 守谷興昌長女)は明治2(1869)年生まれとだけあって死亡年は書かれていない。
直叔父の話(間接的に聞いた)によると、兵作は他の二人の侍と一緒に合津から相馬に逃げてきた落ち武者ということだが、すると戊辰戦争の頃は30代、白虎隊士より十歳以上年上だから自刃もせず、落ち延びたのか。その時三之助はまだ六歳。兄弟の記述は無いので戦乱の中、子作りもままならず、一人っ子だったのだろうか。
ちなみに、三之助は長じて相馬中村で蝋燭屋を立ち上げ、一時は駅から自宅(寺前町)まで自分の地所の上を歩いてこれたほどに繁盛したらしいが、やがて電気の時代。他の仲間二人はそれぞれ米屋、薪屋として生き延びたが、蝋燭屋は衰退の一途を辿り、やがて没落、一家は北は稚内、南は名古屋へと離散することになる。
いささか因縁めいた話になるが、祖父も孫も電気関係(?)にヤラレタわけだ。もちろん私の場合は、電気そのものではなく電気を作る放射能にやられたわけだが。
ともかく一家没落のあおりを食らって父は旧制中学までしか行けなく代用教員になった。女子師範出の正教員の母と出会って結婚はしたが、さぞかし肩身が狭かっただろう。一家で満州に移住したのは、そのことも関係していたか。今となってはばっぱさんに聞くことも出来なくなった。
とここまで書いてきたが、実は平行して『モノディアロゴス』第十二巻目を編集していたのだが、なんと既に266ページにもなっていた。タイトルも『風景と物語の創造』として、その説明を兼ねた文章を書くはずだった。しかしページ数のこともあって、つまりこれ以上増やすと日本郵政さんに余計に送料を払わなければならなくなるので、今回は羊頭狗肉のそしりを免れないことを覚悟して、今書いているものを急遽「あとがき」に代えることにした。
羊頭狗肉には違いないが、まったく関係ないというわけでもない。つまり「物語の創造」とは、この「おらが国」が真に復興するには歴史・物語(ヒストリー)を、つまり国造りの神話を創る必要があるから。そのためには先ず、私自身のヒストリーを書かなければ、と思っている。母方のルーツについては、父方のそれより少しは手がかりがあるので(と言って、やはり曽祖父の先あたりから既に先が見えない闇が広がっている)、そのうちまとめるつもり、というより物語創造のきっかけにしたいと思っている。もちろん『ルーツ』や『流離譚』の向こうを張るなど滅相もない。せめてはぼんやりとでも、この衰えた想像力に鞭打って、点線でなりとなぞってみたいと思っているだけだ。
風景の創造については、もうすでにいろんなところで書いてきたが(とりわけ米西戦争後の「98年の世代」によるそれについて)、これもまた別の機会に改めて書くことにする。
ともあれ、この第十二巻を「京大有志の会」の力強く簡潔な声明文で終われることを実にありがたいことだと思う。昨日も韓国の友人二人から強い賛同の言葉が寄せられた。二人とも現役の教授なので、学生さんたちに広く拡散してくださるそうだ。嬉しい。
二〇一五年七月二十四日早朝記す
佐々木さま
モノディアロゴス、読んでおります。
川内原発が再稼働しましたが、この問題を論じる際には二つの言葉、すなわち、”安全”および”リスク”の定義をはっきりさせておかねばなりません。政府もメディアも規制委員会も、実は分かっていながら意図的に曖昧にしているように思えてなりません。そこで、本年5月31日にフクシマの友人あてに出したメールに少し補足したものを送ります。
”大飯原発の再稼働を認めない”という裁判所の判断はよかったと思います。
この判断に対しての新聞の論調はおおむね好意的だったようですが、相変わらず日経や読売は”ゼロリスクの観点はナンセンス”という否定的なものでした。
裁判所の判断は”リスクはゼロでなければならない”ではなく、”原発再稼働のリスクは許容できない”といっているのだと思います。
2011年に私が”原発の苛つく日々”で書いたように、ISOでは、安全とは”許容できないリスクがないこと”と定義されています。また、リスクとは”ハザード(事故が起こった場合の被害)の重篤度と(事故が起こる)確率の積”と定義されています。
では、”許容できるかどうか”はどうやって判断するのでしょうか。そのプロセスの詳細は”原発の苛つく日々”に譲りますが、たとえ確率がimprobableであっても被害がcatastrophicな場合は許容できないとするのが一般的です。原発事故が起こる確率を(規制委員会がどれほど厳しく審査して)小さくできたとしても、一旦事故が起こった時のハザード(被害)が破滅的なものなら、そのようなリスクは許容できない、すなわち、安全とはいえない、ということになります。
裁判所は、住民の立場に立って、フクシマの経験から住民の被るハザードの重篤度は”破滅的(カタストロフィック)”であると判断したのだと思います。それは、”電気代と比較するのは無意味だ”としたことに現れています。
他方、日経や読売(政府もそうです)は、原発事故というハザードの重篤度を、国全体という仮想抽象体の立場にたって、(数万人が路頭に迷っても)被害は破滅的ではないと考えようとしているわけで、従って、事故の起きる確率を低くすることができればリスクは許容できる(許容する)と考えているのです。
つまるところ、”許容できるかどうか”を誰の立場にたって誰が判断するのか、これが再稼働問題のキーポイントなのです。言い換えれば、基本的人権を国や企業が奪うことが出来るかどうか、なのです。
中村晃忠様
コメントありがとう。もちろん事故以前の大昔からですが、原発については終始反対を表明してきましたが、原発そのものの仕組みなど一切調べる気にもなりませんでした。つまり廃棄物の安全な処理(再使用も含めて)が出来ないうちに見込み発車したこと自体、とんでもない暴挙だという見解からです。事故後も放射能や放射線について一切調べる気にもなりませんでした。被災者からすればそんなことに足を取られては日々の生活(私の場合は妻の介護もありまして)が成り立ちません。貴兄のように緻密な問題提起や反論することはいっさい勘弁してもらってます。どうぞご理解ください。
ついでですが、先日「北海道新聞」からインタビューを受けた際の記事添付でお送りします。お暇の折にでもご覧ください。