右のコメント欄で阿部さんが見事に言い当てておられるように、昭和18年12 月8日に美子が福島市で生まれたちょうど十日後、父は旧満州は熱河省灤平という僻地で、肺結核のため、ろくな治療も受けられないまま(母の話だと診てくれたのは無資格の軍医だったとか)、34歳の若さで亡くなった。
『ピカレスク自叙伝』という短編に、その当時のことを切れ切れの記憶を拾い集めるようにして書いたことがある。遠くの山で時おり匪賊(と言っても侵略者に立ち向かうパルチザンだ)の上げる狼煙が遠望される、市壁に囲まれた小さな町での無念の死であった。恥ずかしいことに、父のその無念さにはっきり気付いたのはずっと後、この際はっきり言おう、父の歳の二倍も生きてからだ。
ところで美子である。おかげさまで、風邪も引かず、I医師の診立てでは血圧も栄養状態も良く、めでたく72歳の誕生日を迎えた。朝方、川口の娘からお祝いのメールが、そして午後には学校帰りの愛がお祝いに、先ほどは息子夫婦が鉢植えの大きな花(名前を聞かなかったが)を持ってきてくれた。戦火の中、あるいは飢餓戦線の中で、誕生祝いなど思いもよらぬたくさんのお母さん、おばあちゃんのことを思うと、こうして意思の疎通も身動きもできないながら平和の中で祝福を受けられるのは、実にありがたい、もったいないことだと美子に代わって心から思う。
美子の誕生と父の死が結びついて意識されたのも、恥ずかしいことに、美子の認知症が進んで寝たきりになってからだ。つまり昭和18年の12月、死の床に臥せった父は、遠い日本の福島で末っ子の末来のお嫁さん誕生を予感して、少しは安心して、黄泉の国に旅立ったのだ、と自分なりに意味づけるようになったのは。
幼い子を三人も残して死んでいくのはどれだけ辛かったことか。でも男勝りの千代ちゃんがいる、と思ったに違いない。事実、千代ちゃんは敗戦のどさくさの中を、動じることなく、みごと無事に三人の子供たちを連れて帰ってきたではないか。
一方、美子は置賜町のしがない旅館の一人娘として、大病もせずすくすくと育って…
美子、この一年、風邪も引かず、時に笑顔を見せながら、おろおろと頼りない夫を励ましながら、よくぞ元気にいてくれた。孝は美子に支えられて生きている、と言ったら、なにをまた殊勝げに無理言って、と言われるかも知れないが、これ掛け値なしのまっこと真実の話。ともあれお誕生日おめでとう、これからもどうぞ宜しく。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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人間は苦境に立たされた時に、そこから目をそらしてしまうものだと私は思います。そんなに人間は強いものではありません。しかし、先生は、そんな弱い人間を決して見放す人ではなく、自分も弱い人間だからと、その人が自ら立ち上がるのをただじっと待っていてくれる人だと私は思います。「待つ」という行為に特別な能力はいりません。魂の重心を低く保っていられれば誰にでも容易にできることなのです。機が熟するまで待つ。ただこれを実生活でできるかと言われれば私にはまだまだあらゆる面で足りません。簡単なことがこれほど難しいものはありません。モノディアロゴスと出合って四年、先生の言葉を、その精神の栄養物を自分の精神に注入し、繰り返し味読しても、極めて難しい越えられない魂の境地です。小さき者たちの声を聴くには、「待つ心」を養わなければ、自分の弱さを受け入れた時に待てる自分との出会いがあるのかも知れません。