新春バカ話三題

その一

フロスト警部ものはとっくの前にすべて読みきった。全部で4,000ページ近いので、こんな短期間に(と言っても昔ならものの三日も掛からなかったはずだが)これだけの量の読書をしたのは、さて何十年ぶりだろう?『冬のフロスト』の解説で解剖学者の養老孟司が「フロストはいい」とその理由をいくつか挙げていて、私もおおむね賛成だ。しかし、もしかして彼は原書で読んだのかも知れないが(そうとは思えないが)彼が言わなかったもう一つ重要な理由を加えたい。それは訳者芹沢嬢(おばはんかも)の見事な日本語である。
 小さな、さりげない表現でも実に的確な日本語を書いているのだ。今まで使わなかった、あるいは知らなかった言葉もいろいろと教えてもらった。たとえば「切手の耳紙」、「小体(こてい)な」など。そして何よりも見事なのは会話の部分である。「んなこと、知るかい!」などの「んなこと」など実に新鮮に響いてくる。
 最終作の “A killing Frost”(私の訳では霜枯れフロスト)はまだ届かないけど、たぶん届いても読まない(読めない)だろうから、警部とはこれでとうぶんお別れ、あるいは今生の(?)お別れかも知れない。警部からはいろんなこと、とりわけ、どんな切羽詰った状況においても活路を見出せる自由な発想、利己心や名誉欲まみれのカッコマン署長(どこかの首相みたいな)の小言・嫌味など一切意に介さずに、やらなければならないことをやり通す根性を教えられた。


その二

 年末から松の内にかけて、もちろん我が聖務(?)は滞りなく果たしていたが、フロスト以外にもう一つ続けていたことがある。豆本作りである。といって正確には本の形をした帳面ではあるが。B5の紙を半分に、更に半分にと五回切っていけば縦4.6センチ、横3.2センチの紙片ができるが、それを5、60枚束ねたものの背側をボンドで固定し、同じ大きさの堅紙で裏表の表紙を当て、それに布を貼り、最後に背側に革を貼って完成。 背革が茶色なのでさしずめチョコレートみたいで今にも食べたくなるような可愛い豆本、もちろんこれは自分のためではなく、孫娘・愛のために作ったのである。彼女はさらに革の部分に小さな宝石状のビーズを埋め込み、まるで小型宝石箱みたいなものに仕上げてくれた。今日まで五、六個は作っただろうか。
 そうなると今度はそれらを収める本棚つきの机と椅子が欲しくなり、高級(?)和菓子の木の箱を解体して作ってやりました。さらには別の小さな木箱を見つけてきて、蓋付きのヒノキ風呂と風呂椅子まで作ってやりましたとさ。
 完成品をただやるだけではありません。学校から帰って挨拶に来る愛に、おじいちゃんの胸ポケットに何かあるかも、チチンプイプイと言ってご覧。すると愛は真面目な顔をして言います、チチンプイプイ! では、とおじいちゃんはおもむろに胸ポケットから豆本を出すのであります。(カッテニセイ!と野次が飛んでくるかも)。
 豆本作りに俄然興味を持ったおじいちゃん、今日の午後、とうとうアマゾンに「そのまま豆本 はじめての手製本編—今すぐ切って作れる豆本用紙付き! 全17作品 (大人の趣味講座) ¥617」を注文してしまいました。そしてその時、カタログにとんでもないものまで見つけてしまいました。「ミニコミ 手塚治虫 漫画全集 Vol.1  200巻 特別限定セット BOX」。縦6.8センチ、横5センチの豆本です。ジャングル大帝 [1~3巻]、リボンの騎士 [1~3巻]など200巻の手塚作品が収められてます。
 実は私、先日も申したように、自慢じゃないが漫画とはまったく縁の無い少年時代を過ごしました。漫画は不真面目なものと思い続けてきました。昨今の漫画ブームなど鼻であしらってきました。だから手塚治虫(1928-1989年)の作品は一つも読んだことがありません。あっ、ヒゲおやじの似顔絵は得意でしたが。
 それにあの鉄腕アトムは原発推進論者の喜ぶような内容ではなかろうか、と思ってました。だからはじめは買うつもりなどまったく無かったのです。でも200巻の豆本図書館、中には我が郷土が生んだ狂気と反骨の剣士・丹下左膳も入っている…でもアトムは原発推進論のヒーロー…
 しかし本当にそうなのか、「鉄腕アトムと原発」で検索してみたのです。すると「アトムの涙 手塚治虫が込めた思い(東京新聞)2013年4月17-19日」が見つかりました。つまり手塚治虫は決して科学万能主義者じゃないこと、アトムが原発推進のために使われることに断固反対していたことを知りました。その記事の最後にはこう書かれています。

【なのはな】【プルート夫人】など、福島の事故後、原発をテーマにした作品を次々に発表した漫画家の萩尾望都(63)は、「鉄腕アトム」が原発と関連づけて語られることにやるせなさを感じ、こんな「アトム最終回」のあらすじを考えた。原発の事故直後、アトム、コバルトの兄弟と妹ウランが一緒に、放射性物質の除染のために福島に向かう。3人は発電所内で除染を終えた後、壊れて動かなくなる…。
【その物語を、いつか私に描かせてほしい。(福島の現状を見て)手塚先生は、きっと許してくださると思うんです】(文中敬称略)

 この記事を読んで、胸のつかえが取れました。それじゃ我が貞房文庫に手塚治虫豆文庫を迎えましょう、と。
(正直言うと、決定的な要因は、その豆文庫が九割引き(!)だということでした ♬♫)


その三

 我が聖務の対象者美子は、元気に年を越しました。実は昨夜少しゴホゴホ言ってましたが、急遽飲ませた風邪薬のためか今朝はすっかり良くなってました。そして午後一時からの排便サービスのあと、ホウカンさんがこう報告してくれました。
 テキベンのとき、美子さんははっきりと「困ったね」と言いました、と。ときおりホウカンさんに対して、はっきりとした言葉を話すようなのですが、私にはまだそういう経験がありません。いつも側にいると空気のような存在に思われているのかも。いや、それでもいいんですが、時には「パパ、ありがとう」などと言ってくれれば、それこそ天にも昇る気持になるのですが。でも贅沢は言いません。
 正月そうそう、こんな駄文を物してる私に心中「困ったね」と言っているのかも知れません。ま、それが分かればそれはそれでとても嬉しいのですが……

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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新春バカ話三題 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     文章の最後の二行を拝読していて、「フクシマを歩いて」の中で、先生がモノディアロゴスを執筆された後に必ず美子奥様に読んでもらって、「いいよ!パパ」と言ってもらえば、それでおしまいと言われていたことを思い出しました。先生の一番の読者だったんですね。先生の文章には読了後余韻があり、人の心を和ませてくれる何かがあるように私は感じます。それがどこから来るのかは今の私には定かではありませんが、昔、「こころの時代」の中でこんな言葉があったのを、ふと、思い出しました。先生、本年もよろしくお願い致します。

     人生の川にも堰がある。そこから生命の真実が届けられてくる。

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