台風七号が通り過ぎたようで、暑い日差しが戻ってきた。でもありがたいことにこの相馬地方にはほとんど被害を及ぼさなかったので、台風一過日本晴れ、という気分でもない。それよりかここより北の方に被害がなければ、と願っている。
歳のせいだろうかこの頃いろんなことにボケをかましながら生きている。今朝も、ある財団の機関誌※への投稿原稿がその雑誌の「趣味」欄に掲載されることに今頃になって気が付き、せめて「趣味」という字だけでも今回は勘弁してもらえないだろうか、と連絡しようとしてようやく思いとどまった。つまり平和菌が「趣味」欄に分類されることこそ、宿主である私の密かな戦術ではなかったか、と思い直して、低温沸騰を始めたわがロートル瞬間湯沸かし器を急いでなだめすかしたのである。隣の「時評」欄の気の抜けた論評より(と言って誰が書くのかまだ知らないが)数段厳しい現状批判が内容であるので、読者はそこでびっくりして、何か考え出してもらえるのでは、と思ったからだ。それに久しぶりに原稿料の入る仕事でもあるし(?)。
その代わりと言っちゃなんだけど、雑誌刊行前に、ここに拙論を掲載することにした。これまでも繰り返し書いてきた内容だが、暑い中、一服の清涼剤にでもなってくれれば本望です(そんなわけないか!)。
※めでたく出版されたので機関誌名を明記する(9月30日)
(渋沢栄一記念財団機関紙『青淵』、平成二十八年十月号)
佐々木 孝 について
佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
私たちは明るい明日を信じて、前向きに生きようと日々努めているんでしょう。もちろん日本が明るい未来に進むことを望まない国民はいないと思います。安倍さんの人気が衰えない理由もそこにあると私は思います。しかし、5年前の大震災、それに伴う原発事故を冷静に考えてみると人知を遥かに超えた自然の摂理を完全に人間の都合で統御できるものではなく、ましてや放射性物質を使った電力供給など最悪の事態に直面したら国の安全基準に合ったかどうかの問題に意味がないことがわかります。アベノミクスで私たち国民の生活は豊かさを感じているのでしょうか。安倍さんは道半ばと繰り返し、さらなる加速が素晴らしい日本の未来に繋がると事あるごとに連呼しています。国民の多くはそれに賛同し、マスコミも同調するというのが日本の現実の姿なんでしょう。東京オリンピックとアベノミクスで右肩上がりの経済成長をして国民が豊かになれば確かに良いですが、そうならなかった責任は原発事故同様誰も取らないということも忘れてはならないと思います。豊かな明日を信じて努力すること、それと同じように最悪の局面におかれても安心、安全を確保できる道筋を持つ、この相異なる両方を合わせ持つことが今の日本に足りないことのように私は思います。先生が提唱されている平和菌の威力は、後者が顕在化した時にこそ発揮するものだと私は思います。たいていの人間は、思うようにならない厳しい状況と向き合ったときに自分を省みて、新たに真面目な生き方を模索し、その一歩を踏み出すものなんでしょう。人間は魂の重心を低くして初めて物事を複眼で考えられる視野の広さが生まれるんだと思います。人間にとって大切なことは、強さや豊かさを誇ることではなく、どんなに小さなことでも常に感謝の心を持ち続けること、その継続の中から平和菌が生み出されるのかも知れません。