今年の流行語大賞

数年前から新聞購読をやめているので、通常の私の情報源はヤフーニュースだ。検索エンジンも付いているから、なにかと重宝している。毎回八つほどのトピックが並んでいて、内容はその都度変わっていくわけだが、中にはくだらない芸能ニュースやおぞましい犯罪事件なども混じっている。詳しく調べたいトピックは、新聞各紙のネット版で読むようにしている。
 先ほど覗いてみたら、今年の「流行語大賞」に「神ってる」というのが選ばれたそうだ。とたんに気分が悪くなった。もともと流行語そのものが浮足立った社会のアブクみたいなものなので、無視すればいいのだが、今回のそれはテレビで流され始めた当初から「世も末」というか、いやーな世の中になってきたな、と感じていた。
 もうどこかで何度か槍玉に挙げたような気もするが、例えば「なにげに」とか…他にも思い出すさえ気分が悪くなるような、意地汚い省略語にうんざりしてきたが、今回のものはそれこそ「ゲスの極み」である。「神」という言葉が弊履のように粗末にされているから、ではない(それほど私自身信心深い人間ではない)。きれいな言葉の中身をごっそり抜き取るその根性がなんとも卑しいわけだ。
 たぶん「神懸(がか)っている」の懸を抜いたわけだろうが、「かかる」という言葉の意味、すなわち「神霊が人間に乗り移る」「神のような性質・傾向を帯びる」が抜け落ちて、それで何が言いたい? 神技・神業というきれいな日本語もあるじゃないか。
 これまで事あるごとに嘆いてきた軽佻浮薄な日本社会の液状化、空洞化そのものを表している、と皮肉混じりに、あるいは逆転の発想でそれを使うならまだしも、そんな批判精神など微塵もないアホな日本人の流行語。あゝやってらんねえ! 
 私もときどき、巫山戯(ふざけ)んじゃない!の「ふ」を省略して「ざけんじゃない!」と叫んでしまうことがあるが、しかしそれは怒りがあまりにも激しいので「ふ」が吹っ飛んでしまったわけである。ちなみに、巫山(ふざん)は中国四川・湖北両省の境にある名山で「山は重畳にして天日を隠蔽する」という言葉が存在するような絶景、そんな巫山でざれよう(あそぶ)とするのはたわけ(バカ)のやることである、というのが語源らしい。
 このように伝えられた言葉にはすべて歴史があり深い意味がある。私ほどの怒りも無いのにニタニタだらしなく笑いながら「神ってる」なんて言うのとはわけが違いまんねん。

 ざけんじゃねーっ!!!

いけねー、また瞬間湯沸かし器がうなり始めた。ここらでやめようっと。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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今年の流行語大賞 への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     師走にいよいよ入って、今年もあとひと月なんだなあと思いながら、坂村真民の名言というのを検索して読んでいました。こういうのがありました。

     一難去って
      また一難。

     でも思えば、
      この難によって、

     念が鍛えられ、
      念の花が咲き、
     念の実が熟するのだ。

     この詩を読んでいて、人間にとっては「難」というもの、たとえば難局、難儀、困難など、あまり歓迎できないものが、人間が念ずる際のパワーの源になるんだと坂村さんは言い切られています。ふと、真実というものは、もしかしたら、私たちが常識的に考えているものとは真逆の(対極の)ところに存在しているのかも知れません。そういえば、私が鮮明に覚えている先生の言葉を思い出しました。

     「美子の大のお世話が私にとってすべての勇気と希望の根源っちゅうことですたい。2012年11月22日(塹壕の中の一輪の花)」

     

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