或る人が私のことを小熊秀雄に似ているとかなんとか、そんなことを言ったと別の或る人から間接的に聞いて以来、このコグマが私の意識に入り込んできた。というよりいささか狼狽したのだ。なぜなら名前はどこかで見たような気がするが、それがどんな人か皆目見当がつかなかったからだ。あわてて「貞房文庫」を探してみると、「お」のところと「こ」のところと両方に岩波文庫の彼の「詩集」が一冊分類されていた。もちろん正しくは「おぐま」。つまりこれではっきりしたのは、これまで一切読んでこなかった詩人・作家だということである。
その岩波文庫が今どこにあるのか探すのも面倒なので彼に関する著作をアマゾンから取り寄せることにした。最初に届いたのは小田切秀雄・木島始編集の『小熊秀雄研究』(創樹社、1980年)という500ページを越える分厚い本で、中野重治、金子光晴など錚々たる面々の小熊論が収録されている。続いて同じ出版社から出ている「全集」全5巻(1977年)が届き始めた。
読み通すことなどできそうもないのに、そこまで入れ込む必要はないのだが、「似ている」というそれまで聞いたこともない評言がよほど嬉しかったらしい(誉め言葉かそうでないか分かりもしないのに)。それにそれぞれ500ページを超える布表紙の立派な全集なのだが、全巻揃いではなくいくつかの書店にばらばらに注文すると意外に安く揃えられそうだったからだ。
でも、とみに読書力の低下している現在、その圧倒的な作品の量に先ず圧倒されて、ところどころ拾い読みするのがせいぜいである。ただ漠然と分かってきたのは、彼が日本近代文学史上稀にみる優れた批評文学を書いた詩人・批評家だということである。なぜ今まで出会わなかったのか。取り立てての代表作もないことから、名も無き群小作家の一人として見過ごしてきたのであろう。
しかし何人かの作家たちが書いているように、彼の詩には不思議な魅力と感染力がありそうだ。もしも今まで彼の作品をじっくり読む機会があったなら、私もかなりの影響を受けたのでは、と推測できる迫力がある。
つまり従来の日本の近代詩とは一味も二味も違う独自の詩境を開拓しているように見えるからだ。もっとはっきり言えば、これが詩、これが散文といった境界を軽々と超えて自在な表現形式を生み出しているのではないか。それには彼が漫画をも射程に入れた造形作家でもあったことが深く関わっているのではないか。
といって以上はつまみ読み、飛ばし読みでの荒っぽい感想だ。彼に惹かれ始めたのは、実はつね子夫人の回想記を読んだことが大きく作用している。故郷・旭川※での彼の絵画展を見に来た彼女は、他に誰もいない会場で一人の男から懇切丁寧な説明を受ける。
「その絵は、表現派というのか、ダダの絵というのか、私にはよくわかりませんでしたが、複線で描かれた波型のような構図の左下方に、ほん物の鮭の尻尾が貼付けてありました。私もその人も暫く黙ってその絵を見ていました。
《僕のところに寄っていらっしゃいませんか》。その人が言いました。
{中略}
彼の下宿の小さな部屋の中で、二人は向き合って座っておりました。二時間か、もっと長くか、その人は何かしゃべっていたようですが聞いている私は、目の前が星のない紺色の夜空のように深くなり、その人の顔も姿も見えませんでした。……何を聞いたかわかりません。只一言耳に止まりました。
《僕と結婚したら不幸ですよ》私はうなずきました。そして思いました。不幸とはいったい何であろうと。(中略)《―たとえこの人が、癩病やみであっても、―又は監獄に座っている人であっても、―私はこの人でいい》と思いました。
この人、小熊秀雄です…」
貧窮と病に苦しんで39歳でこの世を去ったこの漂泊流浪の詩人に、もしこのつね子夫人なかりせば、おそらく彼の全詩業は生まれなかっただろうし、たとえ生まれたとしても、あの破天荒ながら、しかし突き抜けた先に見えるあの青空のような晴朗さは存在しなかったであろう。
同じ道産子であること以外、私とは似たところなどどこにもない孤高の天才に出会えて、たとえそれが或る人の買い被りと早とちりに発したものだとしても、いまはただただ感謝あるのみである。
※生まれたのは1901(明治34)年小樽