或る私信

以下にご紹介するのは、昨日届いた立野正裕さんから私宛ての私信ですが、読みながらこれはぜひ皆さんにも読んでいただきたいと強く思いました。立野さんに特にお願いしてお許しを得ましたのでそのままコピーします。番外編としてもかなりの長文ですが、最後まで内容の濃いお手紙です。ぜひお読みください。(1月19日、貞房識)


佐々木先生、
 先日、小熊秀雄について書かれたことのお知らせをいただいて、その後すぐに拝見しました。ご案内をいただきながら、返信を差し上げるのが遅くなりました。

 「貧窮と病に苦しんで三九歳でこの世を去ったこの漂泊流浪の詩人に、もしこのつね子夫人なかりせば、おそらく彼の全詩業は生まれなかっただろうし、たとえ生まれたとしても、あの破天荒ながら、しかし突き抜けた先に見えるあの青空のような晴朗さは存在しなかったであろう。」

 つね子夫人のことがすっかり視野から抜け落ちていたわたしなどは、ここを読んであっと思いました。
 これはぜひと思いましたから、ブログをコピーさせていただいて、わたしの若い友人にも送りました。
 返事ないし感想を待ってからお伝えしようと思っていましたが、かれのアルバイトがホテルの夜間勤務で、普段は読書も執筆も比較的容易なはずですが、このところたいそう宿泊客が多いため、なかなか時間的余裕が持てずにいるようです。
 ただ、きょう届いたメールに、「佐々木さんの小熊秀雄についてのエッセイを送付いただきありがとうございます。拝読、感激しました。あらためて感想をのべる機会があれば幸いです」とありました。
 ちなみに友人は『トルソー』発起人の一人で群島の会の同人、創刊号にいくつもの文章を精力的に書いています。コラムは匿名ですがすべて同君の文章です。
 ところで、その二日後に佐々木先生がブログで紹介された米国人マイク・ヘインズさんの言葉にも、わたしは深く感銘を受けました。
 コメント欄に書き込みをさせていただこうとも思いましたが、長くなりそうでためらっておりました。
 取りあえず、手紙でお伝えしようと思いますので、お目とおしいただければさいわいです。

 イラク戦争の従軍経験後、十年もの長きにわたって人前でものを話すことができない状態だったというPTSDを克服し、来日して、あのような平易な言葉で、日本の現状がイラク戦争前のアメリカに酷似してきているとヘインズさんは警告したのですね。
 ヘインズさんの言葉とかれが語る体験は、「愛国心」から戦場に出て行った一人の若者が、現実に味わった苦悩がどのようなものであったか、そしてそれを勇気をもって直視するに至る魂の経緯がどのようなものであったかを垣間見る機会となりました。
 読みながら、いくつかの連想がわたしに生じましたが、まず思い出されたのはクロード・イーザリーのことでした。
 ご存知とは思いますが念のため申し上げれば、イーザリーは広島原爆投下の前に観測機に搭乗し、投下OKと打電した飛行士です。投下成功のあと、他の飛行士らとともに国民的英雄となり、勲章を授与されました。
 しかし、かれはジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を読むうち、無差別爆撃による無辜の市民多数の殺害の当事者としての責任を自覚するようになっていきます。やがて強い自責の念に駆られるようになり、「奇行」を繰り返して、自らの虚偽としての英雄性を踏みにじろうと執拗に試みます。
 郵便局やスーパーで万引きや強盗をはたらき、そのつど検挙逮捕されるのですが、「ヒロシマの英雄」と分かるとすぐに釈放されます。しかし同じケチな愚行をすぐにまた繰り返すのです。すべては意図的に行われた犯罪でした。
 困惑した国家はイーザリーから勲章を剝奪する代わりに、かれを精神病院に送り込みました。このことを知った反核運動の推進者でもある哲学者ギュンター・アンダースは、書簡を送って、イーザリーの意図とその「愚行」の根源をなすものに理解を示します。こうして、二人のあいだに頻繁に往復書簡が交わされるようになります。それが一本にまとめられて、ひところは日本でも翻訳がちくま文庫に入っていました。(現在は残念ながら絶版のように見受けられます。)
 その往復書簡集を読みますと、戦争犯罪を回避するための口実として、命令だから仕方なくやった、というよく聞く弁明が良心を偽る以外のなにものでもないこと、人間性をあくまで保持しようとする人間は、必然的に当事者意識に立ち、そしてその意識ゆえに、取り返しはつかないながら苦悩とともに責任の重荷を引き受けようとすること、いったんは命令に従いながらも結局は自らの倫理感を貫こうとすることが、如実にうかがえるのです。
 復員した元軍人クロード・イーザリーによって示された個人としての良心の保持は、かれに勲章を与えて国民的英雄としながら、のちにかれを精神異常者としてあつかった国家の大義とは、根本的に矛盾し、激しく対立するものです。両者のあいだに融和はあり得ません。
 ヘインズさんの場合もまさにそうですね。復員後のヘインズさんの苦悩の根底には、人間であり続けることの条件がなんであるかを人間に明かす、その意味で根源的な倫理が存在しています。
 それから、昨年の早い時期だったと思いますが、テレビのドキュメンタリーで、ウクライナの青年兵士たちを取材した番組をわたしが見たことも、記憶として浮かび上がってきました。一七、八歳のかれらは、ハイスクールを出るとすぐに兵士となったかつてのヘインズさんと、年齢も思考の持ち方もさしてちがわないでしょう。
 戦場に出て行って敵を殺せるかという質問に答えて、若者たちが、命令ならば発砲すると発言していたのが、とくにわたしに印象的でした。命令を至高価値と受け取るかれらは、その従順さにおいて、ほとんど全世界の軍人のそれとなんら変わるところがありません。
 それが、やはりヘインズさんの言葉からわたしに輓近の実例として連想されたことでした。
 命令にしたがって発砲するとき、そこには人間を人間たらしめる基礎、つまり良心と意識は背後に退き、不在かほとんど不在といった人格の希薄な状態になります。その欠落部分を充填するのが、国家のため、名誉のため、栄光のため、という超個人的な徳、しかし人間性をみごとに欠いた「大義」となるわけです。
 ひるがえって近代日本について申せば、日清戦争、日露戦争以来、日本人は右の超個人的大義のために、いかにやすやすと個人としての良心と意識を擲ってきたことでしょうか。アイヒマンを自分とは別個の異質な存在とみなす資格など、ほんとうは大多数の日本人にはないと思います。
 ヘインズさんが指摘するとおり、幻想の敵を誇大宣伝しながらナショナリズムを露骨に標榜するエイブこと安倍晋三と、反イスラームとヘイトスピーチで排外主義の言辞を臆面もなく公言するトランプとは、瓜二つとみなさないわけにはいきません。両者はまるで一卵性双生児のようです。
 しかもこの双子瓜は、現在の世界のように良心の干上がりかけた人心砂漠の炎天下では、政治的高熱のためのぼせ上がればいつなんどき爆発するか分かったものではない危険性をはらんでいます。その点もヘインズさんが憂慮するとおりにちがいないと思われます。
 日米の激化しつつある愚かしいナショナリズムや排外主義に足をすくわれないため、われわれが日本人として人間的な正気を保つ足場となるものは、やはり憲法でありましょう。基本的人権の価値を明記し、戦争放棄を明言した現行憲法のなかにこそ、こういう時代に正気を保つ思想的な根拠をわれわれは見いだすことができると思います。
 しかし、エイブは著書『美しい国へ』のなかで、個人の自由と国家の関係について次のように述べています。

 「個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう。」

 唖然とするような愚論です。近代の人権理念の根幹をなすのが「天賦の権利」としての基本的人権ですが、その「天賦の権利」でさえも掣肘可能な国家にエイブは日本を作り替えようと躍起になっているのです。
 しかし「天賦の権利」という言葉を口にしながら、そのじつエイブらにとっては、それはしょせん絵に描いた餅にすぎないとしか見えていないことは明らかです。
 たとえば、現行の憲法でわたしが読み返すたびにことのほか胸を熱くせざるを得ない一条があります。それは、基本的人権の本質を明言している第九七条にほかなりません。そこには次のように書かれております。

 「この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 日本憲法のこの一条ほど、二つの大戦に巻き込まれて非業の死を遂げざるを得なかった世界の幾千万という人々の犠牲の意味を、まざまざとわれわれの脳裡に浮かび上がらせるものはありません。
 エイブら野卑そのものの政治家たちが、寄ってたかって踏みにじろうとしているのは、まさにこの「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」そのものなのです。
 犠牲をことごとく犬死に終わらせるか、それとも人類史における「自由獲得の努力の成果」とみなすかは、かかってのちの世代たるわれわれ次第であると申さねばなりません。なぜなら、われわれは死者たちから「信託」を受けているわけなのですから。
 生き生きとした記憶と感覚と想像力を伴う「信託」あるいは「委託」を通じてこそ、現在に生きるわれわれは過去をあたかもわがことのように受け継ぐことができます。そして同時に、受け継いだものを、来たるべき時代の人々へと手渡してゆく責務があるわけです。
 過去は過去としてあるわけではなく、現在は現在としてあるわけでもなく、未来は未来としてあるわけでもありません。すべてはつながりあるものとして存在します。そうであればこそ、われわれは過去と対話することができますし、未来を構想することもできます。そうであればこそ、過去と未来の遭遇する場所として、現在を現在として見つめるまなざしもまた獲得できるわけです。

 マイク・ヘインズさんの言葉と行動から連想したことどもを書き連ねているうちに、釈迦に説法のようないらざる饒舌を先生のまえで弄してしまいました。どうかご海容をお願いします。

        二〇一七年一月十六日            立野正裕



※ 立野さんが引用しているエイブ(Abe、これは盟友ハビエルさんが教えてくれたように、エイブラハム・リンカーンの「エイブラハム」の愛称で、リンカーンその人は嫌っていたそうだが、自らアメリカの属国首相を任じている安倍には嬉しい愛称のはず)の言葉に総毛立った。この一言で彼の本性が見事あぶり出される。つまり彼は、個人は国家あっての個人であるという、まさに国家至上主義のかたまりのような男なのだ。この事実に気付かない、あるいは気付いても等閑視しているマスコミ、いや国民全体こそいい面の皮。一日も早く引きずり降ろさなければ日本はとんでもない国になる。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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或る私信 への6件のフィードバック

  1. 守口 毅 のコメント:

    立野正裕さん

    真摯で且つ広い視点で、素晴らしいコメントをいただきました。
    国の内外を見るにつけ、反知性主義の時代に突入した感のある今日このごろ、少しでもまっとうな将来を次世代に残すべく、もう一度気合を入れ直しました。有難うございました。

  2. 佐々木あずさ のコメント:

    佐々木孝先生
    立野正裕先生

    メッセージ、お手紙拝読。兵士として戦場に駆りだされた人々の精神性、心の瓦解が迫ってくるような思いになりました。今、友人たちが(私もその一端に身を置かせていただいています)、自衛隊員の心のケアについて憂慮し、支援グループを立ち上げているところです。2月3日に記者会見予定です。

    ここ十勝の部隊も、南スーダンに送られることになります。友人である元自衛官(50代)が、自衛隊員の命を守るために声を上げています。その根っこになるのは、人殺しをさせてはならない、殺されてはならない、という思いです。ただ、残念なことに、自衛官自身またその家族、友人たちのなかには、この事態を自分たちのこととして考えていない向きもあります。一方、真剣に不安を感じている当事者たちの多くは、語ることすら抑制しているのが実情です。

    つきましては、このメッセージを印刷して配布したり、FB上で共有したいのですが、可能でしょうか。ご検討くだされば幸いです。

  3. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生
    このコメント欄をお借りして、守口 毅様に返信メッセージを差し上げることを、どうぞご了承ください。

    守口 毅様
    佐々木先生に私信として差し上げた拙文ですが、公開に値すると先生がお考えになってはからずもお目に留まることになったわけです。お読みいただいてうれしく思います。
    「反知性主義の時代」にわれわれが生きつつあるというご指摘、まことに同感です。諦観に後退することなく、若い有為の人々に語りかけてゆく粘り強さを、われわれはなおも持続させなくてはと思っています。

    佐々木先生の孤軍奮闘の数十年の結晶たる『モノディアロゴス』既刊十三巻に照らしても、持続する勇気とenduranceをこそ、と自らに言い聞かせる日々です。

    数年前に物故したアメリカの作家カート・ヴォネガットが、晩年の著作『国のない男』のなかで、「わたしのまわりに、自分の孫の世代がどういう時代に生きることになるかを夢見ている人は、ほとんど見あたらない」と嘆いていましたが、事情は日本でも大同小異でありましょう。
    ヴォネガットは第二次大戦末期、米軍兵士としてドイツ軍の捕虜となり、他の連合軍将兵数千名とともにドレスデンに収容されておりました。英国軍はそれを知りつつ700機以上の爆撃機で無差別爆撃を敢行し、この歴史と文化の都市を破壊しました。死者は数十万とも数万とも言われますが、実数はいまだに不明です。直前までにドイツ各地から避難民が多数流入していて、行政側にも把握できていなかったためです。

    ヴォネガットら捕虜は、地下に設けられた食肉処理施設に収容されていたことがさいわいして生き延びられたのです。戦後、作家となったかれは、この経験をあえて小説として書きました。旧連合軍である英米が、冷戦時代にひた隠しに隠した非道な無差別爆撃の事実を、作家として告発しました。
    『スローターハウス5号棟』と名付けられたその小説の巻頭で、作家は自らを旧約聖書の「ロトの妻」になぞらえているのがたいそう印象的です。ご存じのように、神罰により破壊されつつある故郷の町を振り返って見ることを禁じられた「ロトの妻」は、禁を破ったため塩の柱と化します。
    滅ぼされるべき「ソドム」と「ゴモラ」は、戦争当事国の両方が互いの敵国に対して用いた名称でした。
    勝つためには手段を選ばない。無差別爆撃もあえて辞さない。人も歴史も文化もすべて破壊し去るのもやむを得ない。それが両大戦によって人類が経験した戦争の非情な論理であります。いったん戦端がひらかれれば、究極的にそこへまでいたりつくのは必至でありましょう。

    それを見据えて、ヴォネガットは、現代文学の課題の一つは、作家が自らの戦争経験を踏まえ、そのむごい経験を次世代に警告すべく自ら「塩の柱」になることであるという認識から出発したのでした。

    戦後生まれのわたしに戦争経験は直接にはありませんが、事柄の根底においてかつての時代と共通する現代目前の恐るべき経験的な現実に目をふさぐことはできません。
    すなわち核兵器と原子力の脅威がひしひしと切迫感をもって立ちふさがっていること、そして国益と国防というナショナリストの発想からくる軍備増強への抑えがたい誘惑がそれであります。

    現政権とその支持者らによって主張される「国益」と「国防」の論理なるものは、それ自体が憲法に明確化されている基本的人権とその成り立ちの歴史に対する嘲笑であり、侮蔑にほかなりません。
    「愛国心」「国益」「国防」「大義」「犠牲」というたぐいの政治家や権力者好みの美名に、二度とわれわれが翻弄されてはならないことだけは確かです。

    「愛国心、それこそは下司どもが人々に有無を言わさぬために用いる口上である。」
    十八世紀英国の大知識人ドクター・ジョンソンがつとに喝破しております。その言葉は二世紀を経た現在、いよいよアクチュアリティをはらんでいると申さねばなりません。

  4. 立野正裕 のコメント:

    佐々木孝先生
    佐々木あずさ様から拙文を拡散なさりたいとのご要望ですが、わたしのほうに異存はありません。よろしくお願いします。

    佐々木あずさ様
    このコメント欄に投稿されるメッセージをたびたび拝見しています。

    自衛隊の南スーダン派遣が決まり、内心不安をかかえている隊員も少なくはないと思いますが、おっしゃるとおり、いまだ事態をわが身に引き付けて考えられない若い隊員たちがいないわけではないのでしょう。
    佐々木さんは、北海道で若い隊員たちの精神的ケアなどの支援活動に参加されておいでとうかがいました。
    そして「その根っこになるのは、人殺しをさせてはならない、殺されてはならない、という思い」であるとお書きです。
    とはいえ、一般の若者たちより自衛隊員たちのほうが事柄に対して逼迫感が切実、というわけではかならずしもないのが現実なのでしょう。

    たとえば米国とその同盟国からイラクへ派兵され、その模様とその後の若者を追った番組が、この十数年のあいだだけでもNHKをはじめずいぶん制作放映されてきました。そういった貴重なドキュメンタリーをわたしは学生たちに見てもらい、意見交換の場を授業演習などで機会あるごとに設けてきましたが、あれはこの日本の話ではない、自分たちとはどうやら無縁に思われる、という楽天的な反応が残念ながらいつも若い人々のあいだには支配的でした。

    しかし、こうして対岸のことと呑気にかまえているうちに、憲法を変えてしまおうというエイブらの目論見が現実性を帯び、国民主権が反故にされる危険性が増大しつつあります。
    自分の非力も顧みず、隔靴掻痒のもどかしさから、それでいいのか、とつい口走ることもありました。

    むろん、ものを考える若者がいまの日本にいないわけではないのも事実です。わたしは若者たちと語り合うのがなにより好きで、映画の話、文学の話、絵の話、さまざまな話題を取り上げながら、終電近くまで飲みますが、さらに卒業生たちと読書会や映画鑑賞会を定期的に
    ひらいて、人生万般のことを語りながら話し込みます。

    われわれは大多数の政治家のような扇動演説家ではありませんから、聴く耳を持った若者たちとじっくりと語り合うことを粘り強く重ねることが、むしろ大事な運動なのだろうと最近は考えております。
    猶予はなりませんが、急いてはことを仕損じ、かえって若い人々は離れて行ってしまいかねません。

    イラクから帰還復員した退役軍人のなかに、マイク・ヘインズさんのような人が多数いるわけでもない、にもかかわらず、その人々が語る言葉は、聴く耳を持った人々には千金の重みを持つと思います。
    佐々木孝先生はかならず了承してくださると思いましたから、そのヘインズさんと拙文とをわたしもFBでシェアさせていただくほか、プリントして若い知友にどんどん送り、読んでもらおうと思っております。

    わたしのほうに異存はありませんから、北海道でもお役に立つならどうぞ拙文をコピーでもなんでもなさって、ご自由にお使いください。

    立野正裕

  5. 佐々木あずさ のコメント:

    立野正裕先生
    コメント、エール、情報共有ありがとうございます。早速、コピーさせていただきます。特に、元自衛官の友人には大きな励ましになることと思います。

    佐々木孝先生
    先生のモノディアロゴスが、地球上を走り回り、思索と行動の原動力になっています。心より感謝します。

  6. 守口 毅 のコメント:

    立野 様
    私の短いコメントに、またまた深い洞察をお示しいただきました。有難うございます。私は日本政府及び保守層のあまりの米国盲従ぶりに、そしてそのことのために私たちが国としての誇りも尊厳も持ち得なくなっていることに大いに幻滅を感じて、アメリカからずっと距離を置いて生きてきました。ここは一転、カート・ヴォネガットというアメリカ人の言葉に耳を傾けることにします。国のレッテルを取り外して、真の知性には真摯に心を開くべきですね。感謝!!

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