『ドン・キホーテ前編』はまだ第13章で止まったままである。先日も書いたように、同時に読み始めた大江健三郎の『憂い顔の童子』に予想以上に手こずっている。それならやめてしまえばいいものを、何か気になる。それは著者自身と思しき主人公・長江古義人(ちょうこう・こぎと)が故郷に戻って自分の生涯の総決算を『ドン・キホーテ』の骨格をなぞりながら試みようとしているからだ。
おまけに作品の複雑な構造、つまり本作品以前に書かれたことの経緯を細部まで踏まえながら、そしてそれに新たな意味づけをしながら、同時に現実に起こる様々な出来事やら事件やらを絡ませるという多層構造になっており、さらに彼の文体そのものが私の老いた脳髄ではすぐには理解できないほど難解ときている。このもつれに堪えられなくなって、前述したように何度も放り出そうとしたのだが、いろんな意味で現在の私自身が置かれている位相と類似性を持っているらしいので、結局は最後まで読み通すであろう。そうしないとどうにも納まりがつかないのだ。
それだけでなく、この『憂い顔の童子』が最後の(かな?)三部作の二番目に当たっていることで、最後までとなると、他の二書をも読み通さなければ完結しないから始末が悪い。どこかでもう書いたことだが、現存する作家でそのほとんどの作品をそろえている作家は他にはいない。今そろえている、と言ったが、文字通りそろえているだけで初期、中期の作品のいくつかを読んだ以外、そのまま積ん読状態である。要するに、私にとって大江健三郎は光さんのことも含めてどうにも気になる作家であり続けてきたのだ。
先ほど三部作といったが、具体的に言うと『憂い顔の童子』(2002年)は、『取り替え子』(2000年)と『さようなら、私の本よ!』(2005年)の中間に位置する作品である。それなら『取り替え子』に戻って最初から読み始めればいいものを、半分近くまで来て今さら戻るのも癪とばかり、強引に読み進めている。
先ほど、私の現在置かれている位相と言ったが、例えば登場人物の一人、古義人の研究家でもあるアメリカ人ローズさんの次のような古義人観にもそれは表れている。少し長いが引用してみよう。
「私が幾度も幾度も『ドン・キホーテ』を読むのは、そうした探求のためなのね。古義人がアカリを連れて森のなかに帰って来たのは、あなた自身たびたびいうように、老年に入ったと自覚するからでしょうけれど、もうひとつは、「読みなおす」ことのためじゃないですか? それも、あなたの場合、他の作家作品を読みなおすのじゃない。それをふくめてもいいけれど、なにより大切なテキストは、あなたの書いたこと・してきたことのすべてだと思います。
古義人は、自分の書いてきたこと・してきたことを、その構造のパースペクティヴのなかで読むのじゃないでしょうか? それが、言葉の迷路をさまようのではない、老年に入った人間の生死の、方向性のある探求になることを望むわ。」
これはまさに原発事故以後、私が初めは無自覚に、そのあと徐々に意識的にやろうとしてきたことではないのか。ここで白状すれば、実はここ十日ほど大江作品と並行してゆっくり(これはわざとじゃなく、読解力の衰えからだが)読み進め、昨日ようやく読み終えたのは、今から40年ほど前に発表した『ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書、1976年)なのだ。しっかり読みなおすのはこれが初めてである。雑誌や紀要などに文章を書いてきたが、一冊の本にしようとして書いたのはこれが唯一の作品。若書きの未熟さは随所に目につくが、しかし改めて読んでみると私の世界観、人生観の基礎構造はこの作品の中にすでに明瞭に表れていることに我ながら驚いている。この本を含めて、残された時間の中で何とか自分のこれまで書いたものを再読し再考しようと思うが、もう一つぜひやりたい作業がある。それは美子の卒論 “The Prufrockian World”(プルーフッロク的世界、私家本『峠を越えて』に収録済み)の和訳である。
そうした思いにとらえられたのは、大江健三郎の三部作の最後に来る『さようなら、私の本よ!』では、『憂い顔の童子』におけるセルバンテスの『ドン・キホーテ』の役回りを、T. S. エリオットの詩作品、特に「ゲロンチョン(小さな老人)」が担っていると知ったからである。もし美子が和訳のことを知ったら大喜びするだうと考えると、複雑な思いがするが、なに分かってもらえなくとも構わない。孝が美子と二人の人生の総決算をしようとしていることを絶対に喜んでくれると信じて作業を進めるつもりだ。
今さら本格的にT. S. エリオットを読むつもりもその時間もないが、少なくとも美子の卒論にまつわる彼の作品ぐらいは読みたいと思っている。それには。認知症発症後、後の祭り(?)とは思いながら買い求めた中央公論社版『エリオット全集全五巻』や “Complete Poems and Plays of T. S. Eliott” (Faber and Faber, 1978) が役に立つであろう。
私たち二人の人生の総括のための貴重なヒントを与えてくれた大江健三郎氏に感謝したい。どなたか彼と繋がりを持っている方がおられたら、「おかしな二人組〈Pseud couple〉」(『さようなら、私の本よ!』第14章タイトル)ならぬ「真正な二人組(Genuine couple)」よりとして、この感謝の気持ちを伝えていただければ幸いである。
※ このごろ頭が疲れると、先日本箱の隅から見つけて装丁し直した一冊の子供向けの薄い英語の本を2、3ページ読むことにしている。それは “More Funny Stories” (Oxford Univ. Press, 1991) で38編ほどの小話の入ったやさしい英語の本である。私の英語力でも読める(ぴったりの?)英語で書かれていて、それをゆっくり読んでオチが分かると、不思議な安らぎを覚える。特に大江健三郎の本を読んだ後など、実に効果的だ。買った覚えもないし、もらった覚えもない本だが、ユーモア・センスあふれる挿絵がまた心を和ませてくれる。