またもや虫害を免れた本の話である。本といっても今回は空色の表紙で100ページほどのタイプ印刷の機関誌。表紙には常葉学園大学イスパノ・アメリカ文化研究会 “RETAMA” 第三号、1987年発行とある。表題のレタマとはマメ科の落葉低木。日本語ではレダマといい「連玉」とも書く地中海沿岸地方原産。枝は上向きに長く伸び、倒披針形の葉をまばらに互生。夏から秋,大形黄色の蝶(ちよう)形花を総状につける。表紙絵にそのレタマの葉を図案化したイラストがあるが、一期生の松林君の作らしい。
なぜこんな題名を、という当然の疑問には、表紙裏にスペイン語と日本語でこう答えている。
“La vida es el texto eterno, la retama ardiente al borde del camino donde Dios da sus voces”
「生とは、永遠のテキスト、そこで神が語られる道の辺に燃えるレタマである」((オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』、第一の思索12より)
1984年から勤めた静岡の私大のスペイン語学科生たちが創った年一回発行の機関誌(五号まで続いたはずの他の号は今のところ見当たらない)、長らく記憶から消えていたので懐かしく、ページをめくってみる。すると巻末に35名の一期生一人ひとりに半ページが与えられた特集があった。その半分がポートレート、後の半分に「私の主張」が述べられている。専攻したスペイン語との関わり、そして一年後にやってくる社会への旅立ちへの覚悟をそれぞれに語っていて面白い。写真は私の研究室で私が撮ったものらしい。
どちらかというと保守的な風土の、教員養成を主とする私大にスペイン語学科が誕生したのも面白いが、学生たちは彼らなりにきちんと自分の考えを述べている。一期生のうちのかなりの学生は第一志望が英米語学科だったのに大学の都合で(?)スペイン語学科に回されてきた。当時そのことを「まるで交通事故に遭ったみたいに」と茶化したこともあった。私としてはここで初めて男子学生にも教えることになったわけだが、男子学生に限らずみな性格が良く屈託がない。それで、石垣イチゴみたいにのんびり屋だね、と皮肉交じりに茶化したところ、「先生、石垣イチゴは冷たい苗床で辛抱強く開花を待つんですよ」と反論されたのも今では懐かしい思い出である。
その石垣イチゴで思い出したが、当時は専業主婦だった美子は、私が勤めに出ているあいだ、よく車で海沿いの久能街道を日本平や三保の松原あたりまでドライブしたものだ。美子がいちばん自由を満喫したときであろう。住まいは小高い丘の上の大学のすぐ下にあった学長の持ち家を借りていたが、夕刻、授業中には提出できなかったレポートなどを学生たちが我が家の郵便受けに投函する音が夕食時の食堂からかすかに聞こえてきたこともある。
それまではまったくなじみのなかったスペイン語を勉強する学生たちになんとかスペイン語に慣れてもらおうと、この機関誌発行以外にも、市の公民館などを借りて「スペインの集い」という催し物を無謀にも二年目から企画させ、ロルカの劇を演じさせたり(セリフは意味もよく分からないまま丸暗記)、柳貞子さんの歌や森本哲郎さんの講演などで彩りを添えてもらったこともある。
夏休みには二泊三日のスぺイン語合宿。清水港からフェリーで伊豆の松崎に、それからバスで子浦に向かい、そこにあった学園所有の合宿所での楽しい催しである。そこはかつての政界の大物・小泉三申(さんしん、本名策太郎、1872-1937)の別荘だったところで、三申の八男がその少し前までテレビの「クイズ・グランプリ」で司会を務めていた俳優の小泉博。三申は若き日の林房雄を、共産党運動から転向させ、作家活動に専念させるためにこの別荘を使わせたこともあったらしい。このとき書いたのが『壮年』(1936)だと言われている。
ところでこの松崎こそ十勝開拓の父・依田勉三の生まれ故郷であることを知ったのもこの合宿のおかげであった。十勝生まれの私にとってはまるでご先祖様に会ったかのような(ちょっとオーバー)懐かしさを覚えたものである。
ところでこの『レタマ』3号には、その松崎で偶然会った一人の彫刻家へのインタビュー記事もある。松崎の長八美術館(幕末に活躍した漆喰鏝絵 <こてえ> の名人・入江長八の作品の展示館)を飾る石彫モニュメント制作のため一時帰国していた外尾悦郎氏である。もちろんあのサグラダ・ファミリアのただ一人の日本人彫刻家の外尾氏である。インタビューを担当したのは、加藤君と増井さん。
他にも特集としてスペイン大使館勤務のスペイン人Eさんへの「国際結婚」をめぐっての西文エッセイや、「企業に聞く」というヤマハ発動機へのインタビューなどもあり、なかなか充実した内容の機関誌である。
とにかくこの静岡の四年間は(他の勤務校には申し訳ないが)私にとって、今もセピア色に輝く懐かしい四年間だった。それなのになぜ常葉を去って八王子の女子短大に? 何か問題を起こしたの? とか、上司と折り合いが悪かったの? とよく聞かれた。実はそのいずれでもない。初対面からなぜか気の合った上司たち、すなわち今は亡き諏訪学長(大家さんでもあった)、そして現在も親しく付き合っている創立者・木宮泰彦の甥で後に学長になられた国文学者の海野先生、それに諏訪学長の副知事時代からの腹心の部下・岩本事務局長さんたちから大幅の信頼を寄せられて、また気の合った同僚たちに恵まれての実に働き易い四年間だった。
なぜ常葉を去ったか、その理由は、実は自分で言うのも少しかっこ良すぎる(?)理由からだった。つまり1986年に鹿児島で亡くなった作家・島尾敏雄への一種の恩返し、つまり生前、娘さんのマヤさんが障害(失語症)を持ちながら正式の司書として鹿児島女子短大に働き始めたことをことのほか喜んでいたので、私もその短大に移って何かと力になれたら、と思ったのが発端。さらにこれまたかっこいい理由だが、専門を同じくする教え子でもある或る同僚へ道を譲るためでもあった。しかし鹿児島行きはあまりに唐突で、しかもあまりに遠方であることに美子が躊躇したので(当然であろう、それに子供たち二人の大学受験が迫っていたし)、その次善の策として姉妹校の東京純心に移ってそこにマヤさんを迎えるということでいろいろ伝手を求め、最終的には恩師・神吉敬三先生のお力添えがあっての移動ではなかったか。このあたりの記憶は完全に飛んでいる。
「ここまでいつものようにぐだらぐだら書いてきたけど、でもどうも分からないな。第一かっこよすぎるよ」
「いま挙げた理由はウソではない、でも……」
「でもなんだい?」
「実は昨夜から当時の日記を拾い読みしてたんだが、直接移住に関する記述はなかったけど、なにかに行き詰ったような精神状態が感じられる。つまり温暖で(もちろん気候的にも人間関係においても)居心地のいいところにそうやってどっぷり浸かっていることへの漠然たる不安……」
「それはなんとなくわかるような気がするけど……でもやっぱり分からん」
「君、生きるっちゅうことはもともと間尺に合わないものだよ」
「そう言ってしまえば、それこそ身も蓋(ふた)もない。それで一つ気になってたんだが、マヤさんは東京純心に移れたの?」
「いや。私たちは八王子に移り、ミホさんに頼まれた借家も探して待ってたんだけれど、最後にきてキャンセル。そういえばお兄さんの伸三さんにそうなる可能性があるよ、と忠告されてはいたんだけど」
「亡くなった方の悪口はいいたかないけど、ミホさんて本当に独特な人だったね」
「そのミホさん今度映画になって登場するよ」
「そういえば伸三さんからメールが来ていた。ミホさんの『海辺の生と死』を映画化したもので、主演は浦島ひかり*さん 」
「今年は島尾敏雄生誕100年記念ということで、奄美でもいろんな催しがあるようだね」
「伸三さんにもメールしたけど、私はどこにも出かけられないので、いつかテレビで放映されるのを待ちましょう」
「いつの間にか話題がどんどんずれてしまって、最初の話題が何だったのか忘れてしもた」
「いやだねー、レタマでしたよ」
「そうでした。敢えてオチをつければ、四年間の恵まれた順風・温風の教師生活の後、八王子で待っていたのは希望通りの(?)逆風・寒風の中の教師生活でした。でも疲れちゃった。この辺でお開きとしましょ」
※ 現在、その常葉学園がどうなっているのか、実はよく分からない。同系列のいくつかの短大・四大が一つにまとめられて、かつてのスペイン語学科はグローバル・コミュニケーション学科などいう洒落た名称の学科に統合され、その学科長が一期生の■さんだというところまでは知っているのだが。この歳になると、あまりに激しい変化に脳の方がついていけない。まっこれもヴォネガット流に言わせてもらえば「そういうものだ(So it goes)」、わが平和菌流に言わせてもらえば「ケセランパサラン、コモパサラン(なるようになる)」である。
* 満島ひかり、の誤記か(息子記)