発端はすでに書いたことだが、長らく絶版になっていたウナムーノ著作集第三巻『生の悲劇的感情』(法政大学出版局)の再刊本三冊が送られてきたことだ。送り主はそれまで全く知らなかった戸嶋靖昌記念館館長の執行草舟氏、そしてそこの学芸員安倍三﨑さんからの懇切丁寧なご挨拶と事情説明のお手紙だった。
恥ずかしながら戸嶋靖昌という画家を知ったのはその時が初めて。おぼろげな記憶として、1974年にウナムーノ論執筆の資料集めに渡西した際、当時サバティカルでスペインにおられた恩師、故・神吉敬三先生から、スペインで日本人画家が一人頑張っている、と聞いたことがあり、多分それが戸嶋靖昌さんではなかったか、と今にして思う。
とにかくこの再刊本を仲立ちにして執行氏、安倍さんと急速に親しくなった。これも正確に言えば、いつも温かで丁寧な安倍さんのメール、そしてそこに時おり挟まれた執行氏からの短い代言メッセージを通じての交流である。折しもセルバンテス文化センターでの戸嶋靖昌展が一か月近く開催され、私の紹介記事でそれを知った何人かの友人たちが会場を訪れてくれた。介護のために上京できない私としては、その友人たちの対応が実にありがたかった。そのうちの一人、というよりわが舎弟・守口毅さんが会場で安倍さんに強く南相馬行きを薦めてくれたようだ。
かくして安倍さんから拙宅訪問の希望が伝えられたが、彼女からのメールに、事情が許せば館長も同道するかも、との一言に当方が飛びついた。そしてもしも可能なら立野正裕さんもご一緒してくれればさらに嬉しい、と欲張った願いを伝えたところ、さっそく安倍さんから、立野さんもそれを望んでいるとのお返事。執行さんたちと立野さんは展示会訪問をきっかけにすでに密度の濃い交流が始まっていたのである。
このお三方とは、メールのやり取りはあったがお会いするのはこれが初めて。いつか機会があったらお会いできないだろうかとの当方の願いがここに来て一挙に、しかも同時に実現することになった。まさに「盆と正月が一緒に来た」わけだ。
さて当日、折あしく曇り空時々小雨という天候だったが、南の方では大雨災害が報じられているときだったので、文句は言えない(もちろんこれは私だけの文句)。新幹線で福島、そこから安倍さん運転するレンタカーで予定より少し早く12時半ごろ到着。しかも、通常は隣の幼稚園で働いている頴美に弁当を作ってもらっているので、申し訳ないが私の分も含めた昼飯持参で来ていただければ、などという実に図々しい願いにも快く応じてくださった。玄関での初対面の挨拶もそこそこに、まさに草上ならぬ粗末なテーブルでのピクニックと相成ったのである。
立野さんと私は半袖シャツ姿、しかも私のズボンは両膝の綻びを漁師が網を繕う具合に縫った粗衣。しかし執行氏はスーツにきちんとネクタイを締めておられる。なるほど現代風サムライの出で立ちである。
実は今だから白状するが、氏からいただいていた2冊の著書『根源へ』(講談社、2013年)と『「憧れ」の思想』(PHP研究所、2017年)の随所に書かれた憂国の志士風の警世の言葉、さらには数日前にアマゾンで見つけた5ページほどの氏の「私のアルバム」掲載の雑誌『正論』(2012年11月号)がよりにもよって今話題の防衛大臣や論客櫻井よしこなどの記事と一緒の号だったので、ちょっと苦手なタイプの人かな、と内心少し恐れてもいた。しかし安倍さんを介して私の中に徐々に作られていた氏との「魂の同質性」というイメージ(彼女を通じて氏にもそれをお伝えしていたが)を信じていた甲斐があった(?)。つまりお会いした瞬間から長年の知己のような親しさを強く感じたのである。
ここまでは立野さんのことに触れないできたが、彼とは間接的にではなく直接に、その作品、折々のお手紙やメールで「魂の同質性」はすでに体験済みだったからである。そして常日頃から人との対話に飢えていた蟄居老人がもっぱら会話をほぼ独占してしまったからでもある。昔なら美子が傍からそっと「パパしゃべり過ぎ」と注意してくれたのだが……
その美子のことだが、執行さんが座られたところからテーブル越しに見える書棚にバリ島周遊の折りの美子の写真を執行氏が目ざとく見つけられ、「美人ですね」との思いがけない言葉。そのときはただありがたいと思っただけだったが、その折りいただいた数冊の著書の中のインタビュー形式の著書『おゝ ポポイ!』(PHP研究所、2017年)の最後あたりに語られていた信じられないような稀有な体験、つまり2年2ヵ月という短かすぎる新婚生活のあとスキル性乳がんに倒れ、生後3か月のお嬢さんを残して帰天された充(あつ)子夫人との出会いと別れのお話を読んだあと、なぜ彼に理屈抜きの魂の同質性が感じられたのかが、一瞬のうちにまさに霹靂のごとく腑に落ちた。
そうした一瞬のうちの同質性体験は、もっと軽い形で(なぜってただ本を通じてのそれだったから)小熊秀雄とつね子夫人の場合にもあったが、三十数年前の執行さんのまさに劇的な出会いと離別体験は以後の執行さんの人生行路の探照灯であったはずだ。夫人帰天とほぼ並行して氏は菌食・ミネラルの会社を立ち上げている。
執行氏の事業については正直よく理解できないので、ここは氏ご自身の言葉を引用しよう。
「そもそも私が売っているのは、分類上は《健康食品》に入っていますが、正確には体内の均衡をとり、正しい自然死をするためのものだと思ってます。元気になるため、長生きするための食品ではない。この地球上では元々、菌のほうが主体なのだから、人間のほうで菌に対する親和力を持つために、菌を体内に取り入れるという思想です。菌の存在に、人間が合わせていくという考えです。それによって菌の《原始の力》をもらうことが出来るということです。原始の力とは、生命力を全部出し切って正しく死ぬということです」
なるほど。これはこれまで奇病に取りつかれたりして何度か死の一歩手前までいった氏の実践哲学から生まれた事業なんだろう。脱帽である。と同時に、あの日、話題が平和菌に移った時に氏がふと漏らした言葉に注目したい。すなわち氏が研究と実験の末にたどり着いたその菌こそ平和菌ではないか、というご指摘である。
つまり自然界ならびにその一部たる人間にとって病・老・死は、近代に入って、とりわけその進歩信仰の盲目的な信奉者と成り下がった日本人にとってすべて避けるべきもの、隔離すべきものとただただ忌み嫌われている。しかしそれらは必ず人間に起こるもの、ならばじたばたしないで従容として迎え入れることこそ正道ではないのか。なぜならそれら三苦のみならず四苦八苦の「生」そのものが人間の根源的苦悩に他ならないからだ。黄金世紀スペインのカルデロン、あの「人生は夢」のカルデロンも言っていたではないか。
“El delito mayor del hombre es haber nacido; pero una vez nacido tiene que cumplir en este mundo de la mejor manera su papel, el que le fue asignado por el Autor de la Gran Comedia del Mundo: Dios”
(人間の最大の罪は生まれ出たことだ。しかし生まれた以上、この壮大なコメディーの作者たる神が指定したこの世での役回りを最大限心を込めて演じなければなるまい)
ジョン・レノンの歌う “Let it be” もカート・ヴォネガットの言う “So it goes” そして我らが平和菌の歌が誦(ず)する “Que serán, pasarán” もまさにそのことを言っているのだ。つまりおのが運命をじたばたせずに受け入れ、しかも不退転の決意をもって生き抜くことである。
最後に嬉しいニュースを。実は40数年前、正確に言えば1976年に発表した『ドン・キホーテの哲学―ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書)はすでに絶版になって久しいが、この貧しい著書を執行氏、立野氏が昔から愛読してくださっていたそうで(それだけでも著者冥利に尽きるが)、なんとこれにその後書いたいくつかの論考を加えて、執行氏が解説・監修を引き受けた上で再刊(正確には新刊)してくださることになったのである。今回私は、一切手を出さずすべてをお任せするという、先日の弁当ご持参依頼の何万倍も図々しいふるまいに及んだ次第だ。何の資格もないのに、あえて挙げるなら年の功だけのこのわがままを許していただく所存です、はい。
出版社などが決まり次第、皆様にも宣伝その他ご協力いただくことになりそうで、どうぞその節はよろしくお願いいたします。
こんな長いの(3,672字)これまで書いたことがありません。最後まで読んでくださった方には心よりお礼申し上げながら今夜はこの辺でお開きとさせていただきます。
※ 言わずもがな、の注。表題は三好達治の詩集『南窗(なんそう)集』の中の、友人・梶井基次郎への挽歌「友を喪ふ 四章」の一つ「路上」に出てくる言葉を借りました。この至福の午後はあっという間に過ぎてしまいましたが、それでも4時間半にはなったでしょうか。皆さん、またおいで下さることを約して、八木沢峠を越えての帰途につかれました。
佐々木兄い殿
素晴らしい七夕の邂逅となりましたね。お蔭で東京でも何時以来かと思うような、七夕の夜の月を楽しむことができました。『ドン・キホーテの哲学ーウナムーノの思想と生涯』再版はこの上ないグッドニュースです。待望しています。
ワクワクドキドキしながら拝読しました。素敵なお仲間とのひととき、お隣の部屋で美子奥さまの耳を楽しませたことと思います。書棚の本とお写真に囲まれた書斎で、魂をかよわせ、智慧を共有している先生とお仲間のお姿を想像します。そしてご著書の再版の知らせ!きっとばっぱ様からの贈り物のような気がしてなりません。
十勝は連続、真夏日です。南相馬も暑いのでしょうか。どうぞ、美子奥様によろしくお伝えくださいませ。
佐々木あずささん
十勝も暑そうですね。普段は家の中でクーラーを点けてて気づきませんでしたが、昨日、久しぶりにスーパーに出かけたとき、そのあまりの暑さにびっくりしました。この時期の暑さではない。間違いなく異常気象ですね。
でも美子は、脇の下にアイスノンを当てるなど、孝の適切な温度調節が功を奏して(?!)熱も出さず風邪もひかずに頑張ってくれてます。
この暑さで、日ごろは沈着冷静な或る友人が、九州での雨災害、しかも原発事故の後始末など決してundercontrolされてないのに五輪開催などとんでもないと、その中止か延期を求めて意見書を各方面に送るそうです。私も元気ならお手伝いしたいけど、その元気もなさそうです。
ところで先日の写真などメールでお送りしました。
ともあれこの暑さに負けないで一緒に頑張りましょう。
お写真ありがとうございます。旧知の友にお会いできたような心和らぐひとときだったのですね。その空気感が伝わるようなお写真でした。そして、愛ちゃんの笑顔。先生が満州から命からがら、ばっぱ様の知恵と勇気に導かれて十勝まで戻ってきたときと同じお年ごろでしょうか。愛ちゃんのような子供を見ると、平和な世の中にしていかないとならないと、何かしら使命感のようなものを感じます。美子奥様へのお心遣いにも感動している私です。先生、無理はなさらず、奥様のためにもご自愛くださいませ。
佐々木先生
福島に執行さんたちと先生をお訪ねしたあの日の午後のことを、若い友人たちと会食しながら語ったところ、その一人からメールが届き、2013年10月29日のモノディアロゴスに「そのまま 思い出のようなひと時」という見出しがあることをおしえてくれました。
その項をさっそくわたしも見ますと、三好達治が梶井基次郎への挽歌として書いた「友を喪ふ 四章」の一つ「路上」から数行が引かれていました。
巻いた楽譜を手に持って 君は丘から降りてきた 歌ひながら
村から僕は帰ってきた 洋杖(ステッキ)を振りながら
……ある雲は夕焼のして春の畠
それはそのまま 思い出のようなひと時を 遠くに富士が見えてゐた
先生は「そのまま 思い出のようなひと時を」という詩句に強く引き付けられたとお書きです。
そのまま思い出のようなひと時…その例として挙げられているのが、美子様との思い出です。
「もう20年ほど前の或る爽やかな秋の一日、鎌倉の日本庭園で眞鍋宗匠囲んでの実に文学的な集まりに美子と一緒に参加したときの、柔らかな午後の緑色の光の中の数刻。あるいはちょうど今ごろの季節、まだ歩ける美子と夜の森公園の大きな銀杏の樹の下を通ったときの黄金色の光の中の数分…」
その項の最後に次のようにお書きになっています。
「不思議なのは、いずれの場合にもその瞬間、あゝこれはそのまま思い出になるな、と確信していたことだ。でも本当は、そんな特権的な時間だけではなく、すべての時間が、すべての体験が「そのまま思い出になるように」生きなければならないのではないか。そのとき時間は直線状に未来へと続くのではなく、いわば螺旋状に現在に重なってくる。ということは、奈落の底からの視点、終末からの視点、限りなく重心を低くした視線、「末期の眼」などもすべて同じことを言っているような気がする。さらに言うなら、人はそのような瞬間の中に「永遠」を垣間見る、先取りする。」
一読して深く感銘を受けました。と同時に、わたしにゆくりなくも思い出された言葉がありました。それはイタリアのジャーナリスト、ティツィアーノ・テルツァーニが『反戦の手紙』(飯田亮介訳、WAVE出版)に書いている言葉です。本書は日本語版への序文を含め、九つの手紙によって構成されています。「フィレンツェからの手紙」「カブールからの手紙」「ヒマラヤからの手紙」といった具合です。
いずれも「非暴力のための巡礼の旅」の途上にて書かれたものなのですが、著者の優れた国際ジャーナリストとしてのアクチュアリティと、人間としての深い寛容さに裏打ちされた叡智とのみごとな結合にほかなりません。そのテルツァーニがこう書いているのです。
人生には、なにも起きない日々というものがある
あとで思い出すべき出来事もなく、
あたかもそんな日々などなかったかのごとく、
足跡も残さず、ただ過ぎてゆく日々。
よく考えてみれば、人生のほとんどの日々とはそういうものなのだ。
ただ、自分に残された日々が明らかにわずかになってみてはじめて、
人は自問することになる。
なぜこんなにも多くの日々を、こうも漠然とやり過ごしてしまったのだろう、 と。
だが、人間とはそういうものだ。
過ぎてしまってからようやく昔のよさに気づき、
なにかが過去のものとなってしまってはじめて、
もし仮にいまもそれがあったとしたらどうだったろうか、
ということが見えてくる。
けれども、そのときそれはもうない。
人間とはそういうものだ。
よく考えてみれば、人生のほとんどの日々とはそういうものなのだ。
テルツァーニのこの言葉を、わたしは、常に「末期の目」でものを見、ものを考えようとする人の痛切な反語として受け取ってきました。
著者は1938年の生まれですが、2004年に物故しています。末期癌の晩年、ヒマラヤ山中で思索に没頭する日々を送ったと聞きました。
テルツァーニがもしも先生のお書きになっていることを生前読んでいたら、「時間は直線状に未来へと続くのではなく、いわば螺旋状に現在に重なってくる」という考え方に共感したのではないでしょうか。なぜなら、テルツァーニの反戦の思想は、まさに「奈落の底からの視点、終末からの視点、限りなく重心を低くした視線」を特徴とすると言って差し支えないと思われるからです。
話を戻しますが、あの日の午後の語らいは、申し上げるまでもなくわたしにとっても「そのまま 思い出のようなひと時」でありました。「あたかもそんな日々などなかったかのごとく、足跡も残さず、ただ過ぎてゆく日々」が「いわば螺旋状に現在に重なってくる」と思われた密度の濃い数時間でありました。