長ーい長い私信

先日は短い時間でしたが、とても充実した時間を過ごさせていただきました。初対面のはずなのに旧知のお友だちと再会したような楽しい時間でした。
 そして三日前、柳さん流の言い方をお借りすれば、パートナーさんにもお会いでき、しかもその折たくさんのご本まで頂戴して恐縮しました。
 実は息子さんの丈陽君(たけはる君、大学進学おめでとう!)、母上のことは知ってましたが、現在どのような家族構成かは全く知りませんでした。しかし玄関先に立ってらした方を見て、口をついて出た言葉は「あっご主人ですか?」でした。そしてそれに対してにこやかな笑顔で「はい」と答えられた瞬間、柳さんの現在の幸福を確信しました。そのうちぜひお揃いで、いやもうすぐブックカフェを始められると家を留守にすることが無理でしたら別々にでも、町場においでの節はまたお立ち寄り下さい。
 それまで私が持っていた柳さんの著書は、『水辺のゆりかご』(まだ見つかりません)と『生』、『家族シネマ』の3冊だけでしたが、『人生にはやらなくてもいいことがある』、『JR上野駅公園口』、『ねこのおうち』、『飼う人』、『春の消息』、『国家への道順』と一挙に6冊も増えました。それぞれがお心のこもった献辞と署名入りです。例えば『人生にはやらなくてもいいことがある』には「本の頁をめくる そこに私はいる」、そして『国家への道順』には「戦の中に人あり 戦の後に人あり」という具合に。
 さっそくその『人生には…』と『国家への道順』を多大の共感を覚えながら読ませていただき、初対面の時に感じた「魂の同質性」(埴谷雄高さんの言葉)が間違ってなかったことを改めて確認しました。あの日、話の途中で私の修道体験とそこからの離脱(還俗とも言いますが)のことが出たとき、両方とも確かに大事な決断だったが、しかし私は何か重大なことを決めるときにプロとコントラを比較考量などせず、ある時を境にちょうど秤の針が一気に傾いだ方を選んできた、そしてその決断を後悔したことは一度もない、と言ったとき、私もそうです、と強く同意なさった柳さんに感じた同質性です。
 柳さんが著書の中で南相馬との出会いを語られるそのときどきに、私の中に眠っていたいろいろな思い出もまた蘇ってきます。もちろん中には私の知らなかった南相馬の歴史や生活の諸相を改めて教えられもします。まだちらっとしか見ていないのですが、『春の消息』で、東北大教授の佐藤弘夫さんと訪ねられた大悲山や浦尻貝塚など、前者はたしか小学校時代に遠足で行っただけの薄い思い出だけでしたが、まさに南相馬の真の復興のための基層ともいうべきものへと、一気に目を開かせてもらいました。まさに『春の消息』の中扉に書いていただいたように「春は生者にも死者にも息吹を与える」からでしょう。
 こうして柳さんの著書は合計9冊になったわけですが、今朝思い立って『魂』、『 石に泳ぐ魚』、『命』、『フルハウス』、『声』の五冊も注文しました。でもご心配なく(?)これは現在の異常なまでに進化した物流構造のおかしなところで、尊い文化財がとんでもない安値で取引されているのを逆利用(?)して、文字通り破壊された価格で手に入れますので。実は私の著書もその破壊された価格で売りに出ているのが忍び難く(?)何冊かを救出したことがあります。柳さんの他の著書もこの方法でこれからも救出するつもりですが、でも今度いらしたときにそれらに献辞入りの署名をしていただければ嬉しいです。
 さあ、そうなると私の本棚に「柳美里コーナー」が出来上がることになりますが、柳さんのブックカフェの片隅にも(昔ならミカン箱にでも入れて)「富士貞房(佐々木孝)コーナー」を作っていただければ最高です。もちろんそれらは市販されてませんので、ご迷惑でなかったらこれまで作った私家本、そしてこれから作る私家本を寄贈させていただければ、の話です。
 実は先日も、仙台白百合女子大カトリック研究所と、日本基督教団西仙台教会にもそれぞれ私家本全冊(31冊)を寄贈しました。残り少ない人生(意外と長生きするかも)を周囲一キロ世界に蟄居する老人にしてみれば、ブログ発信のほか、こうして私家本や豆本を作って皆さんに読んでいただくことが唯一の楽しみになってます。
 ところで先ほどは、つい柳さんの南相馬体験に話が行ってしまいましたが、しかし『国家への道順』などを読むと、小説かエッセイかを問わず柳さんの書かれた文章の一つ一つに帯電している強い思いの根源が良く分かります。つまり在日作家の苦しいがしかし創作衝動の根源が実によく分かります。
 同じく在日作家の徐京植さんとは少し違ったものを柳さんに感じます。氏から頂いた本なのに批判めいたことを書くのは礼儀に反するかも知れませんが、例えば徐さんの『日本リベラル派の頽落』などは反論の余地がないほど実に鋭利に、理路整然といわゆるリベラル派批判をしてますが、しかし徐さんの立ち位置が少し気になります。簡単に言えば時には高見から、つまり生身の徐さんの足場が見えないままに、あるいはそれをむしろ捨象しての一刀両断に見えるのです。
 その意味でハンギョレ新聞の記者に語った柳さんの言葉は実に示唆的です。

「わたしは日本語にも韓国語にも常に違和感を覚えてきました。この違和感こそが、戯曲や小説を書く動機と武器になってきたのだと考えています。このギクシャクとした不自由な言葉を使って、わたしは書き続けるしかないのです。言葉は、私を傷つけ血を流させるものでしかありません」

 これは柳さんの作家として立つ動機ではありえてもあまりに苦しい道筋。しかし幸いにこれは二十年前のことで、「今は、ウリマル(在日の人が韓国語のことを言うときに【私たちの言葉】という意味でウリマルと言う。佐々木注)の学習に本腰を入れようと思っているんです。ソウルの大学に留学して…」と大きく変化したそうで、先日お会いした時に差し上げた『原発禍を生きる』の韓国語版や鄭周河さんの南相馬写真集がそのために役立ってほしいと願ってます。
 実は、もしかするともうお気づきかも知れませんが、このお手紙、確かに最初は文字通りの私信として書き始めましたが、途中から、待てよ、これは私の友人たちにも読んでもらいたいと結局は公開書簡にさせてもらうことにしました。かと言って内容・スタイルとも全く変わりません。つまり残り少ない(また言う!)人生でこれは私信、これは公開のもの、と腑分けすることが面倒、というより意味がない、と思うようになってきて、柳さんなら必ずこのことを理解してくださるだろうと確信しているからです。
 だらだらと長いお手紙になりましたが、ここまで来れば同じことと、ちょうど震災の年に書いたものをここに再録させていただきましょう。私と在日の方たちとのお付き合いの前史として。その時以後、今では大の仲良しになった今市教会の昌川信雄神父さんはじめ、在日の友人たちの数が少しずつ増えてきました、嬉しいことに。 


ディアスポラからあゝ上野駅まで (投稿日: 2011 年 6 月 19 日)

 先日ここでご報告したように、徐京植氏との初対面の、しかも互いに相手をほとんど知らないままに、つまり氏は例の新聞紙上の私たち親子三代の写真、私といえば氏が在日の作家である、というだけの知識しか持っていないのに、なぜ旧知の間柄同士のような対談に進むことができたのか。
 氏に宛てた最初のメールで、私は考えようによれば実に不遜というか失礼なことを言った。まるで父違いあるいは母違いの兄弟(他に異父兄弟とか異母兄弟という言葉や、もっと露骨な日本語があるが好かないのであえて)に会うような気持ちです、と。といって白状すれば、私はこれまで身の回りに在日の知人はいなかったし、在日の友人もいなかった。さらに言えば、在日の歴史について正確な知識もない。それなのに、在日に対して、なぜか親しい、懐かしいような感情を持ってきた。いや、少年の私が朝鮮人の集落に生きていたような感じさえ持ってきた。もちろん錯覚である。
 しかしたとえば少年時の貧しさ、疎外感、不条理なものへの怒り…それらはすべて在日の人たちと共有できると思えたのである。先ほど身の回りに在日の人はいなかった、と言ったが、これまで何回か擦れ違ったことはある。最初は、旧満州から引き揚げて北海道の帯広に住むようになったとき、まだ終戦後間もなく世情騒然としていたある時、町の朝鮮人たちが戦中のひどい扱いに抗議して、槍玉に上がった人たちを襲っている、という噂が立った。相手をリンチするときの彼らの戦法、つまり人差し指と中指をV字型にして、それで相手の眉間を狙うなどという細部までまことしやかに伝わってきた。実際にそんなことが行なわれたわけではなかったのに。
 次は、イエズス会という修道会に入り、広島で修練していたとき、その修練院の裏手の急峻な小道を降りた先に朝鮮人の集落があった。それはほとんどが掘っ立て小屋のような貧しい集落であった。バス停への近道としてその側を通ることがあったが、後にそのときのことを「午睡」という掌編(「修練者」の中の)にこんな風に書いている。

 「夢の中の鶏たちは、裏山の裾に点在する朝鮮人部落で飼われている鶏たちだった。そしてその家の一軒がわが家だった。そのわが家の縁側に坐ってだれかと激論していたはずだが内容は思い出せず、ただそのときの熱気だけがこめかみのあたりに残っているだけだ。家を捨てたはずなのに夢にまで見るとは、これは本物ではないなと反省しはじめたとき、今度こそ本当にベルが鳴った」。(「青銅時代」、第27号、1984年所収)

 次は五年間の修道生活から足を洗って(?)相馬に帰ることになったとき、以前そこの学生寮にいたときに知り合った教会のカテキスタ(志願者などに教理を教える人)のおばさんが、将来結婚する相手候補として在日の娘さんを紹介してくれたことがある。還俗したての私にはあまりぴんとこない話で、そのときは特に気に留めないで聞き流していたが、その後相馬に戻っていた私のところにそのカテキスタから、今度その娘さんが東京を去って郷里の青森に帰るが、途中原町駅で途中下車させるので、迎えて欲しいと連絡があった。その日、次の列車(まだ電車ではなかった)までの時間、彼女を曇り空の殺風景な町の中を案内した。楚々としたもの静かな娘さんで好感は持ったが、結局その小一時間ばかりの淡い思い出しか残っていない。名前も彼女の住んでいる町のことも覚えていないので、もしかすると当たり障りのない話に終始したのだろうか。いま彼女も青森のどこかで孫たちに囲まれた幸福な生活を送っていると思いたい。
 最後は、定年前に辞めた大学で、或る年、朝鮮人の名前を持った女子学生が入ってきた。授業の際に教室で会うだけの接触しかなかったが、機会があれば話し合ってみたい、と思っているうちいつの間にか卒業してしまった(当時はまだ短大だったので)。
 以上が在日の人と擦れ違ったすべての過去である。

 いや、今回、徐氏とお会いしたときに感じたあの親密な感じは、そうした頼りない経験だけから生まれたものではなさそうだ。要するに私が現在置かれている状態が、どこか在日の人のそれと相通じるからではなかろうか。つまり今回の大震災とりわけ原発事故によってもたらされた精神的位相が在日のそれと酷似していることから来る親近性ではなかろうか。氏はディアスポラ(離散の民)という言葉を氏の思想のキーワードの一つにされている。換言すれば根扱ぎにされた人々(デラシネ)のことである。もちろん私自身は、ディアスポラにされること、デラシネになることに抵抗してきた。しかしそれは小状況にあっての抵抗であって、別の角度から、つまり俯瞰する視点から眺めれば、私もまた一人のディアスポラアに過ぎない。少々キザな表現を使って「奈落の底」と言ったのもそのことと関係がある。
 いやもっと巨視的な視点に立てば、東北それ自体が、近代日本発展史の中では常にディアスポラの位置に置かれ続けたと言ってもいい。富国強兵の時代には人買いも介入しての労働力として、太平洋戦争のときには最前線の尖兵として、列島改造論・高度成長の時代には集団就職組として、そしてGNP世界第二位の時代にはそれを支える電力エネルギー供給の拠点として、絶えざる収奪の対象であった。

 おや、気のせいだろうか、井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞 関口義明 作曲 荒井英一)が聞こえてくるようだ。

   どこかに故郷の 香りをのせて
   入る列車の なつかしさ
   上野は俺らの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった

https://monodialogos.com/archives/3853
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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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