この頃、まるで聖書を読むように(それはちと買い被り) 行路社版『モノディアロゴス』を二つか三つずつ読んでいる。お前馬鹿か、と言われそうだが、実にいいし、心が落ち着くのだ。ウソだと思ったら、あなたもぜひ試してください。あの頃、つまりモノディアロゴスを書き始めた2002年ごろ、ちょうど千字に収まる書き方をしていたせいか、今よりずっと密度の濃い文章になっている。「富士貞房作品集」でも読めるので、お時間のある時にでもどうぞ。今日読んだのは「みなそれぞれに不幸」という文章。文中Mさんというのは常葉時代の同僚マロートさんである。Yはゆーちゃん、あゝ懐かしい。マロ-トさんのご家族にいつかまた会いたい。それでは読んでください。
【みなそれぞれに不幸】
私の友人Mさんには、Yと言う名の筋ジストロフィーを病む息子さんがいた。小さい時は何度か勤め先の大学に連れてきたこともあったが、成長とともに重くなった彼を運ぶのは難しくなり、Y君とも会うこともなくなった。最後に会ったのは、四谷の聖イグナチオ教会での彼自身の葬儀ミサにおいてであった。一九九六年一月、彼は二十歳になっていた。参列者宛ての家族からの礼状にはこう書かれてあった。
「私共への神様からの贈りものは その役目を果たし終えたかのように天にもどってゆきました。色々な事を思い、見る日々でした。深い哀しみも心にしみる人のやさしさにも触れました。今 自由な足を持ったYは、おひとり、おひとりに心から御礼を申し上げていると思います。ありがとうございました、又会う日迄ね、と。」
スペイン人の大学教授と日本人の女医の子供として、Y君にはきっといろいろな夢があったに違いない。しかし難病に見舞われた。彼も成長するにつれて苦しんだと思うが、家族にとっても大変な重荷であったはずだ。しかしM教授はいつも「Yは私たちの宝です」と言っていた。その言葉を意外とは思わなかった。それは彼と彼の家族の確信であり、信念であり、そして希望であることが素直に理解できたからだ。Y君の姉のMさんは弟の存在が動機になったのか、医学の道に進み、たぶん現在は立派な女医さんになっているはずだ。
不幸に見舞われることに法則はない。つまり誰が何の理由で、どの程度の不幸に逢うのか、まさに理屈を越えたミステリーである。時々、なぜこの人がこんな不幸に、と思う。神や仏があるものか、と言いたくもなる。統計をとったことはないが(当たり前だが)、理不尽な不幸の方が圧倒的に多いのではないか。
でも不思議なのは、自分のであれ、あるいは愛する人のであれ、不幸や苦しみが時に人を強くし、優しくし、そして高めてくれることである。人間劇(ヒューマン・コメディー)において、マイナス記号が突然プラス記号に転じる不思議が起こる。まさに神秘だが、おそらく苦しみや不幸が人間としての真の意味での自立を促すからではないか。※
トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の言葉は、その意味で深遠な真理を突いている。「幸福な家庭はすべてよく似かよったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」。九月二十二日
※ このことは美子の介護をしながら、日々、いや毎瞬間、時にこみあげてくる温かい幸福の涙と共に実感していることだ。
2015年の暮れに一週間ほど入院することになって、何か本でもと思って持ち込んだのが行路社版『モノディアロゴス』でした。治る見込みが半々でしたので精神的には弱っていた状態でした。先生が「心が落ち着く」と言われていますが、そういう意味で持ち込んだんだと今になってつくづくそう思います。『モノディアロゴス』は詩を鑑賞するように、何が書かれていたかを把握することも大切ですが、じっくり文章を味わうことに大きな意味があると思います。そして、自分が精神的に落ち込んでいるときに、叱咤激励するのではなく、不安や怒りもすべて受け入れて、ありのままのあなたで良いんだよと肩に手を添えてくれるような心地良さを私は感じます。美子奥様の毎日の介護は、先生にとっては十字架だと思います。その十字架を自ら真正面から受け入れた先にある人生の真実は、文章の最後の二行で私にも伝わってきます。