安息日について

暑くなったり寒くなったり、体温調節が難しい季節になった。いや私のことではなく美子のことだが。でもおかげさまで、朝晩二回の胃婁からの栄養剤注入作業にも慣れ、月一のクリニックの先生の往診でもこのままの状態を続けるようにとのお墨付きもいただいた。
 しかしこのところの政治の世界の安っぽいドラマはどうだろう。もちろん朝鮮半島の非核化、平和は望むところだが、しかしあの二人の主役、一人についてはゴネ得の帝王という言葉しか思いつかないし、もう一方については私の知る限り米国史上もっとも下品な大統領としか評価しようのない御方、芝居自体が初めからドタバタ喜劇なのだから多くを期待していなかったが、今のところ最小限の効果はありそうだ。でもいつどんなどんでん返しがあるか最後まで予断を許さない。
 政治の話はここまで。ところで先月28日のラジオ福島の短い電話インタビューは、当方、難聴のこともあって緊張したが、なんとか無事に終わった。次回からは電話インタビューを収録して、あとで適当に編集することになり、少なくとも気分的には楽になった。と言っているうち、今日がその収録の日、前回は福島県知事の施政方針に対するダメ出しだったが、今回は教育問題について話す予定。原発事故後いろんなことを考えさせられたが、中でも教育問題、もっとはっきり言うと学校教育の現状は考えるだに目の前が暗くなる。たぶん今日は、とっかかりとして先日ここでも話題にした東松島市の夏休み短縮の話でもしようか。
 数日前になるが、突然「安息日」という言葉が頭に浮かんだ。息子の嫁や孫娘が洗礼を受け毎日曜隣の教会のミサに行くのは大歓迎大賛成だが、私たち夫婦が教会に行かなくなったのはいつからだったろう。それさえ思い出せないくらいの昔になった。いや話を戻すと、その「安息日」という言葉からいろいろなことを考え始めたわけだ。
 本箱の隅っこにあった昔懐かしい『公教会祈祷文』という小さな祈りの本に「公教会の六つのおきて」というページがある。これはいわゆる十戒とは別に、信者が守るべきおきてが書かれてあり、その第一はこうなっている。

「主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭にあずかるべし」。

 「主日」とはすなわち日曜日のことである。先ほど不用意に「安息日」などと言ってしまったが、正確に言うと「安息日」はユダヤ教の土曜日を指す。
 それはともかく、その安息日あるいは主日という言葉から連想したのは、この世は(とひとまず言うが)いくつかそれぞれ異なる価値体系の混合体ではないか、いやそうあるべきではないか、ということである。安息日は宗教的価値体系に属し、その他の曜日とは異なる価値基準が支配する。例えばキリスト教徒やユダヤ教徒など普段の生活とは違った時間の過ごし方をする。つまりと現政治体制や教育体制とは別個の価値基準・行為基準に則った時間の流れである。もちろん運動会や学芸会など年に数回の学校行事の場合は別だが、それぞれの安息日は宗教や地域、そして各家庭の自由に裁断できる時間が流れる……
 どうもうまく言えないが、要するに言いたいのは、先の学校教育の問題との関連で言うなら、現在の日本は、政治や教育その他もろもろの現世的(とひとまず言うが)価値体系、行為基準が各地方、各地域、いや各家庭にまでその支配力を及ぼしている。最近ではそれに拍車をかけているのがテレビなどマスコミによる均一化(横一列)の加速である。
 どこかの大学の話だが、近頃トイレで弁当を食べる学生がいるとか。それは孤独を好んでではなく、学食などで自分の回りに友人がいないことを恥じての行為らしい。一人でもいっこうにかまわんよ、という自信が見事にかき消え、ひたすら衆に紛れようとすることの裏返しである。
 最近話題になった日大のアメフト事件も、あるいは新幹線での惨劇も、突き詰めていけば現代日本を覆うこうした価値の一元化、画一化、つまり以前から言ってきたように学校が金太郎飴製造機と化していることの結果であることは間違いない。前者は部活の指導者への絶対服従、後者は金太郎飴製造機からはじき出された人間の悲劇である。
 そろそろ電話機の前にスタンバイしなければならないので、話の途中だがこの辺で一時中断する。あとから続けるかどうかお約束できないが…
 この話、「安息日」から始まったので、最後にとっておき(?)のオチを一つ。
 ユダヤ人たちの「安息日」に対する画一的・横一列の極端なまでの形式主義に対して、キリストはこう言われたそうな。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ 2.27-28)。

 つまりユダヤ教徒の安息日重視・一元化・画一主義に対して、各自が自由に、安息日の行動的主体者になりなさい、と勧めておられるのだ。つまり、政治や教育制度の画一化・一元化から個の自由・主体性を取り戻せ、と言っておられるわけだ。んっ、先の「六つのおきて」とちょっと矛盾する? まあいいっしょこの際、はい時間が来ました、お後がよろしいようで ♬♪

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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安息日について への1件のコメント

  1. 阿部修義 のコメント:

     哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない、と日本のある思想家の言葉を思い出しました。先生が言われる画一化・一元化ということを考えていましたが、実生活から乖離した思想や哲学、教育は人間が生きる上では役に立たないということなんでしょう。例えば、権力の世襲は、極論ですが論理の遊戯に過ぎないと思います。お隣の国の若大将もわが国のトップも三代目の世襲です。人間は本来個別的なものであり、親や祖父母が偉人であったら、その子や孫も偉人とは言えません。権力の世襲を継続するための体制維持や富国強兵路線を政治のように言ってますが、国民の実生活から離れた政治は政治とは言えません。昭和の時代に総理にまでなったある政治家がこんなことを言っていたのを覚えていますが、実に人情の機微に触れた言葉であり、国民の実生活を踏まえた地に足をしっかりとつけた政治哲学だと思います。こういう人材を私たちは選挙で選んでいかなければならないのでしょう。

     政治とは明日枯れる花にも水をやることだ。

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