このところやり場のない怒りが燻っている。
発端はほんのつまらないことだった。十日ほど前だったか、いやいや野馬追いの最終日だったから、あれこれもう一月以上も前のことだ。関西から来た二人のご婦人が小高での神事を西内さんに案内してもらったあと揃って我が家にやってきた。『原発禍を生きる』を読んでその著者に会いたいと思ったらしい。いつもの通り話し相手に飢えている私にとっては格好の餌食。お話を聞いていただいたそのお礼にと、帰りがけに二冊の私家本(『峠を越えて』と『虹の橋』)を献呈した。
その後しばらく音沙汰が無かったが、三日前、そのうちのお一人から小包が届いた。開けてみると、美味しそうな和菓子と、なんとなんと差し上げた筈の私家本二冊。慌てて同封されていた手紙を読んでみると、こういう貴重な本を私個人の物にしておくのはいけないと強く思いましたのでお返しします、とあった。
その時気付けば良かったのだが(つまりその変な理屈に)うぶな(?)私はその言葉にただただ誠実で謙虚なお人柄だけを認めてしまった。
ともかくその二冊、せっかく差し上げたもの、再度こちらから署名・献辞入りで送り返せばよもや再度返送されることもあるまい、とは思ったものの、でもそれではあまりにも能が無い。そうだ最近各地に出来た呑空庵の関西支部でも作ってもらおうか。支部と言ってもなんのノルマも制約もない、ただ呑空庵発行の贈呈私家本を家の片隅にでも置いてもらって、時々、思いついた時、お友達などに無料貸し出しするだけの支部である。
先ずはご意向伺いを、と手紙を書き、どうどす(とは書かなかったが)、一度ゆっくり検討してみて下さい、と提案した。そして、ここ一週間ほど前からメールの交換が始まり急速に親しくなった韓国のKさんの私信を四、五通まとめてコピーして送った。Kさんはその関西のご婦人同様、韓国語に訳された『原発禍を生きる』を読まれて実に感動的なメールをくださったので、彼女にも興味ある内容だと思ったからだ。もちろんKさんからは事前に許可を得ていた。
すると折り返し送ってきた手紙に再度仰天。ご自分がどれだけ忙しい身であるかを滔々と書き連ねたあと、前述のとおり何の義務もない、言うなれば、ただの献呈に半ば冗談のように格好をつけただけの申し出に対する丁重なお断りの文面。もちろん当方に無理強いする気など一切ない。ただその後に続いての言い分に我が瞬間湯沸かし器が一気に沸点に達してしまった。つまり送っていただいたKさんのお手紙は「私の主義に反する」のでそっくりお返しします、とあったのだ。慌てて封筒の中身を確かめると、確かにKさんの手紙が送り返されていた。
おそらく彼女、プライバシー保護という概念を自己流に、というか教条主義的に理解している類の人らしい。もともとプライバシー保護条令というものは、関係する個人が悪用されて不利益を被ったりすることなどないようにとの意図で作られたものだが、それがいつの間にか一人歩きして、どんどんその範囲を広げてしまったというのが実状である。
大学教師をしていた最後あたり、或る年とつぜん「学生名簿」が作られなくなった。慌てて教務課に行って聞いてみると、その年できた「プライバシー保護条令」の指針に沿って今年から作るのをやめたという。それまで学生同士が、同郷の先輩後輩を探したり、趣味を同じくする学生たちが集まってクラブなどを作るのに至極便利だったのにその年から作られなくなってしまったのだ。たぶん現在もそのままだろう。そんな名簿がなくとも、大量の情報が乱れ飛ぶ現今、悪徳業者が個人情報を手に入れる機会や方法などゴマンとあるのに。つまり過剰防衛である。
最近テレビを見ていて本当にむかつくのは、例えば或る人を取材したおりに紹介される写真で、当人以外の人の顔が無残にも塗り潰されていることだ。もしも私がそんな目に合ったとしたら、文字通り面目丸つぶれとして名誉棄損で逆に抗議するだろう。なんで俺の顔つぶすんだよ!
車のナンバーや悪所通いの現場写真ならともかく、なんでそこまでやる必要がある?
まっこと変な社会になってますぞ。以上の惨状と一見無関係に見えながら根っこのところでは同じ問題なのは、世にはびこる偽親切、偽愛嬌である。もうどこかに書いたことだが、見るたび聞くたびにむかつくのは例のチューリッヒ自動車保険のコマーシャル。可愛いい顔した妙齢の女性がにこやかにのたもう「このカカクです」。このカカク、カカクとまるで小鳥のように可愛い囀り。考えるまでもなくただのコマーシャル、つまり儲け商売のために作られた美声。だから怒りは倍返しになる。
偽親切で思い出すのは、食べ物などの入った袋に印刷された「写真はイメージです」という何とも不思議なメッセージ。たぶんどこかの馬鹿が袋の写真と中身が違うとかなんとかクレームをつけたばっかりに、以後食品会社はバカの一つ覚えに、この愚かな同語反復の文句を印刷するようになったらしい。羊の絵なのに袋を開けたら犬の肉、つまり羊頭狗肉、ならまだしも、誰も袋に印刷された写真と中身が全く同じなどとは考えもしないだろうに。
先日皮膚炎の体質改善に役立つかも知れないと、世田谷自然食品の青汁を買ったら、個人名の女性から馴れ馴れしいハガキが舞い込んだ。あて名書きは下手くそな字なのに、ハガキの文面は達筆の草書体。良く見ると何のことはない大量に印刷されたもの。
話があっちゃこっちゃ飛ぶが、先日たまたまテレビで聾唖の子供たちのドキュメンタリーを見て、感動のあまりしばらく涙が止まらなかった。昨夜再放送で見た『六男四女 サーカス家族の夏』も、子供たちのあまりに可愛くて健気なのに、やはり涙が流れっぱなしの一時間だった。本当に友達思いの障害児たち、そして親思い、兄弟思いの子供たちの何と美しい姿!つまり人に対する温かな気遣いと思いやり。
要するに作られた愛嬌や親切はごまんとあるが、魂と魂が触れ合うときの、時には面倒くさく人間臭い親切、時にはお節介がめったに見られなくなった世の中になってきたということである。世話好きでお節介焼のおばちゃん、あの子とあの子は相性がいいかも、などと時には一人合点で若い男女を結び付けたかつてのおばちゃんは今や絶滅危惧種。
そんな世界を少しでも生きやすいものにしたくて、この自称「紡ぎ人」は今日もその機会を貪欲に探している。そうだ、昨日もかつての教え子で現在盛岡市の郊外、X沢などという可愛い名前の場所に住むYさんと、岩手未来機構のZさんの仲を取り持っただけでなく、食事を挟んでの楽しい初対面のあと、互いに「末永くお付き合いしたい」というつぶやきをそれぞれの相手にコピーして知らせるという念の入れよう。
『青春デンデケデケデケ』の岸部一徳先生じゃないけど、このお爺ちゃん、人と人を仲良くさせるためならどんどん仲介役を引き受けちゃう。ベラスケスの『織女たち(Las Hilanderas)』のように、死ぬまで魂と魂を紡ぐ人でありたい。もっとも大事なことは、『傷だらけの人生』で鶴田浩二が唄うように、「ひとつの心に 重なる心」なのだ。
なに! 人のプライバシーを侵すなだと。ザケンジャナイッ、そうかいそんならもう俺は知らん、一人寂しく生きやがれ!
小梅太夫じゃないけれど、私ゃ本気で言いますよ、チッキショー!
あれっ燻っていた怒りがいつの間にか消えてるよ。
たれからも宜(うべな)ふ声の無かりせば
荒ぶる霊(たま)をいかに鎮めん
人間という字は人と人との間で表されているように、他者との繋がりの中に生きがいを見出しているものなんだと思います。そう考えると「プライバシー保護条例」は、そういう出会いの場を初めから放棄してしまっています。数日前、久しぶりに『大学の中で考えたこと』を読み返していましたら「適正距離」という題で先生が興味深いことを言われています。
「教育は人間と人間の出会いであり、そしてその適正距離の測定であり確認でもある。学問において、その学ばれる対象と学ぶ主体とのあいだの適正距離が絶対必要な条件だからである。つまり学ぶ主体は、その対象を自分の世界の中に適切に位置づける必要がある。それが忘れられたところに真の学問はありえない。そしてこのことは、人間と人間の適正距離に対する勘を通じて養われるのである。」
プライバシーという一つの括りで人と人との関わり合いを否定するような割り切ったシステムを作る前に、他者との関わり合いの中で、個別的にそれぞれの人たちとの適正距離に対する勘を実生活の中から学ぶことが大切だと思います。例えば、先生のことを語るのであれば、少なくとも先生の著書に精通していなければ語れません。一冊の本だけで結論は出せないわけです。そのご婦人の方も本や手紙を先生に返す前に少なくともほかの何冊かの著書を読んで先生の人となりを見届けてから結論を出すべきだったと思います。せっかく先生とご縁ができたのに残念だと思います。
阿部さん
またいつもの適切なコメントありがとう。昨日この問題について西内さんと話し合ったとき、私が京都人はいざ知らず関西の人はもっと大らかな生き方をしていると思っていたと言ったら、関西での赴任生活体験者の彼、いやいや意外と互いに規制し合って面倒くさい社会だよ、と教えてくれた。
じゃ、相馬人のちゃらんぽらんな生き方の方が楽でいいね、と言ったら、そうそう、と彼も笑いながらうべなった。そっかー、相馬人のいい加減さもなかなかいいねー。