昨夜、夕食後、老夫婦の部屋に息子一家に来てもらい、美子を囲んで初めての家族会議。明日入院なので必要事項の伝達が主目的だが、せっかくの機会、と言うより、もしかして最後の機会になるかも知れないので、爺様の夢も語らせてもらった。こんな話、人さまに伝えるのは大いに異例のことだろうが、しかし私のこれまでの生き方からすればごく自然なことではある。それに別段恥ずかしい内容でもないし、隠すべき内容でもないので、ここに記録しておく。
1)まずは経済状態
これまでも特に贅沢もしなかったし困窮もしなかっただけでなく、貯めるつもりもなかったのに、真面目な夫婦への天の配剤であろうか、今後20年間、一家が路頭に迷わぬ程度の蓄えはある(年金は別として)。
2)家族の現況
先日もブログに書いたが、息子が富士貞房Jr.を名乗って、私がやり残したことを引き継いでくれることになった。文章の最終的なチェックが残ったままのオルテガ『大衆の反逆』やダニエル・ベリガン『危機を生きる』の最終稿完成が当面の仕事だが、暇を見つけては「貞房文庫」の管理、私家本や豆本の印刷・製本をやってもらいたい。今後、例えば職業欄に「自由業(著述業)」と自信と誇りを持って書いてほしい。
穎美は病気を克服するだけでなく、すぐ隣りのカリタス南相馬のシスターたちのお手伝い(主に料理担当)や、さゆり幼稚園のお手伝いをしている。頑張り屋さんの彼女、この間、保育士の試験も通って来春から正式の幼稚園の先生になりそう。爺様は大喜びです。
愛はすぐ裏の第二小の四年生で合奏部でトロンボーンを吹いたり、ピアノ教室や英語教室にも通ってすこぶる元気。爺様は小六の秋から高校までの原町の生活経験しかないが、愛は生まれたときから純粋の「原町っ子」として子供時代を過ごしている。原発事故後、生徒数はいまだ回復していないが、小人数ながら仲の良い友達に恵まれて幸福な少女時代を満喫している。
3)愛に関する爺様の妄想的未来図
これから先、爺様の出身校でもある第一中学校、原町高校で青春前期を過ごした後、ぜひ清泉女子大に進んでスペイン語を修得してもらいたい。下宿だけはもう決まっている。四谷雙葉学園の経営母体である「幼きイエス会」の管区長シスター松本の実家を守っている清泉スペイン語学科の教え子・松本恵子さんにお願いする予定。
そして卒業後は原町に戻り、爺様の残したスペインの児童文学書の翻訳に挑戦してもらいたい。そして日本文化や文学を勉強したい気立てのいい(?)スペインの若者と結婚してほしい(¡ワーオ!)。その青年には日本文学の研究やら翻訳、そしてできれば爺様のスペイン研究の貧しい成果をスぺインに紹介してもらいたい。もし暇があるなら、爺様がかってやったように、ボランティアでスペイン語教室を主宰したらどうだろう。
愛はいつかは穎美の後を引き継いで、さゆり幼稚園の保育士になり、最後はそこの園長さんに(¡ワーオ!)。職場が自宅から百メートルのところとは、何と恵まれた環境だこと。こうして質素ではあるが、文化的には国際的で個性的な家族が育っていく。ばっぱさんが残した家屋の古い方は、呑空庵(ドン・キホーテの庵)としていつの間にか知る人ぞ知る魅力的な古家と変貌する。
妄想はこの辺で現実に、いや遥かな過去に遡及する。
4)佐々木家の過去
実は父方も母方も元々は相馬の人間ではない。父方は会津のサムライで、戊辰戦争敗北の後、他の二人のサムライと相馬に来たのだ。確かその時、祖父は6歳、曽祖父は幸か不幸か白虎隊の年齢より少し上だったので飯盛山で自害することなく無事相馬に辿り着く。他の二人のうち一人は米屋、もう一人は薪屋、そして佐々木家はローソク屋になった。おそらく会津の絵蝋燭の技術を習得していたのであろう。かなりの土地・財産を得たが、しかし間もなく電気の時代。急速に没落して、北は稚内から南は名古屋まで十一人いた父の兄弟は離散の憂き目に遭う。下から二番目の父・稔は中学にしか行けず代用教員になる。
一方、母方の安藤家は十九世紀初頭、あの天保の飢饉直前に3歳の曽祖父を天秤棒に担いで一家(夫婦と姉一人)して八戸を出奔。「相馬盆歌」にも歌われているように道の小草にも米が実る豊かな相馬に流れ着く。苗字の安藤は曽祖父が磐城の家老(?)の家で働いていた或る夜、夜盗が侵入するという事件の際、沈着な行動で難を救い、その功績を認められて安藤姓をもらったと、祖父安藤幾太郎の『我が家史』にあるが、少し怪しい。つまりあの当時の百姓の分際で自由に国を変えられたかは疑問だし、そういう事件で苗字をもらうのも果たしてどうか。私の推測ではその事件の顛末がその通りだとしても、八戸出奔の真の理由は十八世紀、八戸で活躍した禁制の思想家・安藤昌益と何らかの関係があって居づらくなったのではないか。ともあれ曽祖父は、農民運動家でクリスチャン、のち日本社会党に属した杉山元治郎の伝記に土地の素封家アブラハムの名で登場する。
ここまで書いてさすがに疲れました。明日の出立のことを考えるともう床に入らなければなりません。そんなわけで、今年はがんセンターで年越しをすることになりましたが、どうか皆さま、穏やかで幸多き新年を迎えられますように。そして皆様から送られてくるお祈りや「気」の助けで私も無事帰還できますように。
※上の写真は今晩、本ブログ執筆時の部屋の様子
最近はオブジーボなどの新薬の開発でガンのタイプや患者さんの遺伝子との相性がうまくかみ合えば、肺がんには大きな効果があるような話を聞いたことがあります。先生がご入院される病院は東北屈指の最新医療を提供されているわけですから、決して楽観的には考えてはいけませんが、治癒できる可能性もまだまだあります。私の父は食道がんで今から29年前62歳で亡くなりました。60歳の時にガンが見つかり、当時の医療では国立ガンセンターの食道がんの名医と言われた人に執刀してもらいましたが助かりませんでした。ガンと告知された時の母の落胆ぶりと涙は昨日のことのように私の記憶にもあります。ですから先生のご家族のみなさんのお気持ちも私にはわかります。私自身も阪神大震災の前の年の暮れ胃潰瘍の手術で胃を三分の二ほど切った経験があります。ですから先生がご入院されるご不安も多少はわかるつもりです。とにかく前を向かれて良いことを考えられてください。明治大学名誉教授の立野先生の「漂泊」という私の好きな詩を先生に贈ります。先生がご快復されることをお祈り申し上げます。
漂泊こそわがさだめ
きのう きょう あす
地のおもて 地の底
地の果てまでも
漂泊流転をわが境涯とし
古人の跡を辿る
雲よ巻け
われを押し包め
風よ立て
われを吹き飛ばせ
三界に家なき身なれば
なにを惜しむべき
呑空庵主 佐々木孝先生
家族の交わりを拝読。しばし、私もその輪の端っこに座している錯覚を覚えております。サーロー節子さんは、無慈悲な原爆投下の地で、身体の上にはありとあらゆるものがのしかかり、火の手も上がり、真っ暗闇の中、「光に向かって前にすすめ」との言葉に力を得て、生還したといいます。私も、闇の中にあると思ってしまうとき、そのように前に前に進んでいきたいと強く思うようになりました。
先生、先生も私に「光に向かって前にすすめ」とエールをくださっています。先生、美子奥様はじめご家族とともに、前へ、前へ。
佐々木孝殿
昨日、前から希望していました大阪万博「太陽の塔」の内部ツアーに参加し、<生命の樹>を見てまいりました。ああ、地球の太古からの命の繋がりの、自分はいまここにいるのか、と己れの位置取りをしっかり確認し、あらためて「太陽の塔」の”漲る力”を全身に感じました。この力を遠く佐々木兄いの元に届けたい、とひたすらに思いました。一方で、もちろん私の信じる天にも、祈りをささげております。
ついひと月前の、美子奥さまとの金婚のお祝いの、まだ余韻の中にあるいま、孝兄
! ここは頑張りどころです。またお元気な復帰のコメントを、私は信じて待っております。
守口
呑空庵主 佐々木孝先生 美子奥さま 皆さま
先生の16日のメッセージを反芻しております。先週より沖縄におります。今日は、普天間のバプテスト教会でクリスマス礼拝に参列しました。マタイ伝2章から、「不安と希望」について考える機会を与えられました。ヘロデ王の時代は、権力者が力で民を牛耳っていました。弱いものたちは苦難にあえぎ、暗黒の状況を生き続けていたといいます。しかし、不安の中におびえているだけではなかった。その中にあって、キリストの誕生を待ち望み、希望を持ち続けていた。
命を与えられた弱きものが、不安と希望の中で自分らしく歩む。その中で、自分の心と、自分の過去と対話を重ねていく。モノディアロゴス。この地道で深く心を掘り下げ、広く思考を広げる作業を、新しい年も先生のように、モノディアロゴスを続けていきます。