22. “セルバンテス・シンポジウム”(1988)


セルバンテス・シンポジウム


 ちかごろとみに国際会議やら国際シシポジウムとやが盛んである。さまざまな領域での国際化が進んでいるしるしとしてまことに結構である。 こう言う私自身、先ごろ上智大学創立七十五周年を記念して行なわれた『ドン・キホーテ』を主題とする国際シンポジウムにコーディネーターとして参加する機会を持った。
 今までドン・キホーテをタイトルの一部とする本を訳したり書いたりしたことはあっても『ドン・キホーテ』そのものについてはまったくの素人であり大いに困惑したが、誘いをかけてきたのが昨年の「地中海学会」でお世話になった清水憲男氏(上智大学教授、富士市出身)とあっては断るわけにもいかず、つい引き受けてしまった。
 これには外国から三人の著名なセルバンテス研究家、すなわちイギリスからはエジンバラ大学のE. C. ライリー教授、スペインからは高等学術研究所のA. サンチェス教授、そしてアメリカからはカリフォルニア大学のJ. B. アバジェ・アルセ教授も加わり熱のこもった発表が行われ、実に刺激的なシンポジウムであった。
 しかし折悪しく、日本は梅雨の最中、台風接近の兆しもあり、三日間を通じていつかな晴れ間を見せようとしなかった。最後の総括でサンチェス教授がいみじくも指摘したように、考えようによっては、『ドン・キホーテ』を語るには実に適切な時節でもあった。つまりスペインと日本との見事なまでの風土性の違いゆえに、むしろ逆説的に『ドン・キホーテ』を語るにふさわしい状況設定となったからである。
 さて、シンポジウムの内容はいずれ公刊されるはずなので、ここではむしろこの種の国際会議、もっと一般的に言って国際交流、をめぐるいくつかの問題点を指摘するにとどめたい。
 第一点は言葉の問題である。日本側の発表者の多くは外国からの客人も驚くほどスペイン語の達者な若手研究者であり、国際化時代の到来を思わせて頼もしい限りであったが、そこにある種の危惧を感じないでもなかった。それは発語される言葉そのものに意識が集中するあまり(発表者、聴衆双方にとって)、異質な文化同士の出会いに不可欠な「間(ま) 」が少なくなり、いささか余裕のない感じがしたことである(発表時の時間的制約など技術的側面のことだけを言っているのではない)。
 その意味で、お世辞にも流暢とは言えない英語なまりのスペイン語で、かんで含めるような発表をしたライリー教授の姿は実に印象的であり示唆的であった。このことは次の問題点につながる。
 すなわち、自然科学の分野はいざ知らず、人間の「生」に深くかかわる文化、とりわけ文学の領域では、研究者自身の視点が明確であってほしいということである。もちろんこれは外国文学への接近がつねに狭義の比較文学的視点からなされなければならないということではない。
 しかし、たとえば『ドン・キホーテ』をあつかう場合、サンチェス教授が敏感に反応したように、日本文学とスペイン文学の風土性の違い、さらには「笑い」の質の違い、文化的コンテキストの違いなどがどこかで意識されていなければならないであろう。発表者の一人剣持武彦氏(上智大学国文学教授)がわが国における『ドン・キホーテ』受容の歴史を坪内逍遥から山田洋二監督の「寅さん」シリーズまでたどってくれたのは、今後のわが国のドン・キホーテ研究に貴重な一石を投じたものと思う。私個人としては、たとえば駿府の人、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』との比較などが将来なされれば面白いのだが、などと勝手な想像をたくましくしている。
 ともあれ、以上はアジア地域最初の本格的なセルバンテス・シンポジウム開催の意義を全面的に認めたうえでの、いわばぜいたくな願いであって、昨今の国際交流隆盛の機運に水をさすつもりは毛頭ない。ただ真の国際交流には「広がり」と同時に、「深まり」もまた必要なことを再確認しておきたかったまでである。
 公開のシンポジウムにはどうしてもイベント性がつきものであるが、大切なことは「宴の後」に始まる本当の意味での対話であろう。その意味で、シンポジウムが終わって舞台裏に戻った三人の碩学と再会を約しながらの温かな握手は忘れられない。それぞれはまた書斎に 孤独な思索へと戻っていく。真の国際交流には、自己解放と同時に自己沈潜が必要である。

(筆者は常葉学園大教授・スぺイン思想)

「静岡新聞」
1988年8月3日