25. スペイン的「生」の思想 (1992年)


スペイン的「生」の思想



スペインとは何か


 私に割り当てられた課題は、スぺイン黄金時代(一六、七世紀)の思想を紹介することであるが、直接その問題に入る前に、少し回り道をしなければならないのではないかと思う。そしてその回り道は、たまたま私自身がたどった、あるいはたどらざるをえなかった道と重なっている。つまり払は初め、現代スぺインが生んだ偉大な思想家ミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)やオルデガ・イ・ガセット(1883-1955)などの作品を読むことからスぺイン思想に入っていったのであるが、彼らの作品を読み進めるうち、彼らの思想を本当に理解するには、スぺイン文化の骨格が形成された「黄金時代」に一度戻ってみなければならないのではないか、と考えたからである。以来、黄金時代の魅力にとらえられて、と言えば聞こえはいいが、実際にはその複雑さに足を取られて、いまだに現代に戻れないでいる。
 先ほど「たまたま」という言葉を使ったが、しかしよくよく考えてみると、それはまた必然のコースではなかつたかと思われるのである。というのは、スぺイン人たちにしても黄金時代はたんに過去のある時点に完結し、すでに評価の定まった時代ではなく、自国の再生を目指す苦闘の中でいわば「発見された時代」であり、その全体像把握のための作業がいまなお継続中の、その意味ではいまだに評価が定まらない時代と言ってもいいからである。
 かつて「太陽の沈むことのない大帝国」と称えられたスペインは、一九世紀末には見る影もなく落ちぶれていた。いやもっとはっきり言うと、一六世紀末には(一五八八年の無敵艦隊の敗北など)すでに翳りを見せ始めていた。それでも植民地が残っているあいだは、なんとかつじつまを合わせることができた。しかし一八九八年の米西戦争の敗北によって、キューバ、プエルトリコ、フィリピンなどの植民地を失っただけではなく、かろうじて残っていた誇りさえも無残に打ち砕かれてしまった。そうした政治的かつ精神的荒廃の中で、スぺインの再生を模索した一群の若い知識人たちがいた。ウナムーノを中心とする「九八年の世代」である。
 ところで、スぺインの末来像を模索するためには、もちろん過去を手がかりにしなければならない。過去といえば、スぺインがもっとも輝いた時代である「黄金時代」をとうぜん視界に入れなければならない。しかし彼らにとって、黄金時代はそれまでのように、けっして無批判に讃仰すべき対象ではなかった。とくにウナムーノは、黄金時代を絶対視することの危険を誰よりも敏感に感じていた。彼の言うには、黄金時代は確かにスぺインにとって恵みの時、幸いなる時代ではあったが、しかしそれはスぺインの可能性の一つの実現に過ぎなかった。こういう認識に達したのは、長い低迷の期間を通じて、とりわけ一九世紀という激動の時代を通じて、スぺインもそれなりの精神的成長を遂げていたからである。
 というのは、それまで国の再生をめぐる論議は、過去にしがみつくか、それとも自国の伝統を否定してひたすら先進諸国の模範にならうか、すなわち伝統主義か進歩主義かの二者択一であった。しかし、それではもはや問題が解決しないことに気づいていたということである。
 ちなみに、スぺインの再生をめぐるそれまでの論議は、次のような図式にまとめられよう。

  ・伝統主義者―――輝ける過去の栄光に回帰せよ!
  ・進歩主義者―――ヨーロッパの先進諸国を追って前進せよ!

 ところが、「九八年の世代」が掲げたモットーは、「内部に沈潜せよ!」であった。後退でもなく前進でもなく、沈潜である。言うなれば、彼ら「九八年の世代」は内面主義者であった。何の内面か、どこに沈潜するのか。まずは歴史の内面に向かっての沈潜(ウナムーノの言う「内–歴史」)、次に自然の内面に向かっての沈潜(風景の創造)、そして究極的には己自身に向かっての沈潜である。かくして彼らの目の前に「黄金時代」が、たんに黄金色に輝く理想郷としてではなく、同時に反省・批判の対象として浮かび上がってきた。なぜなら黄金時代は、それ以後のスぺインの衰退,低迷を奥深く準備した時代でもあったからである。
 かつての栄光とそこからの急激な没落、これはよその国の人問にとっても不思議な事実であるばかりでなく、当事者であるスぺイン人にとっても大きな謎であった。すでに一六世紀後半には、スぺイン没落の予兆が感じられ、優れた知識人による問題究明の声が上がっている。スぺインという国は、以後現在まで、その巨大な謎に振り回されてきた不思議な国である、と言っても過言ではない。
 たとえば、黄金時代屈指の知識人フランシスコ・デ・ケベード(1580-1645)は、エルサレム滅亡を嘆く旧約時代のエレミアにならって、
  「なんじが皆から一人で奪ったものを皆してなんじから奪い取る」
と嘆いている。
 なぜスぺインは没落したのか、と問うことは、スぺインとはなんぞや、と問うことである。そしてそうした問いかけは、たんに黄金時代ばかりでなく、遠く現代にまで、スぺイン文化のいわば通奏低音として響いてきている。たとえば前述のオルテガは一九一四年に発表した『ドン・キホーテをめぐる思索』の中で、次のような言葉を書きつけた。

「いったいスぺインとはなんだろう? 世界という広がりの中、数知れぬ民族にかこまれ、 限りなき昨日と終わりなき明日のあいだで道に迷い、天体のまたたきの広大にして宇宙的 な冷たさの下にあるこのスぺインとは、そもなにものか? ヨーロッパの精神的岬、ヨーロッパ大陸の魂の舳先たるこのスぺインとは?」(拙訳、未来社)

 確かにいささかパセテイック(感傷的)に響く文章ではある。しかしここには、そうした問題に立ち向かう際のきわめてスぺイン的な特徴が濃密ににじみ出ている。それはどういうことかというと、国の問題の立て方にはふつう大きく分けて次の三つが考えられる。すなわち、

  1. 《現状維持の問題として》。自国の現状をほぼ満足すべきものと考えて、その状態をどのように維持すべきか、という問題の立て方。
  2. 《完成の問題として》。現状を不満足なものと見なし、現状からの脱出向上を図ろうとする考え方。
  3. 《存立の問題として》。自国の問題に対して、ハムレット的に、すなわち「在るべきか、在らざるべきか」と根源的に問いかけること。

 言うまでもなくケべードやオルテガの言葉は、この最後の問題設定、つまり根源からの問いかけといった特徴を帯びている。しかしこうした問題の立て方は、近代といういささか性急な時代、効率と即座の成果を期待する時代に適したものとは言いがたい。スぺインが近代化競争の中で取り残された感があるのは、この辺の事情が大いに関係している。
 さて、ここでもう一度問題を整理してみよう。スぺインが近代化に乗り遅れ、そして自国の再生という問題の立て方にも独持なものがある、ということは分かった。しかし、なぜそうなのか。これは結論を先取りすることになるが、私の仮説は、それらのすべての姿勢が「黄金時代」に形成された、ある独特な「生」のとらえ方に発しているということだ。しかしその問題に入る前に、さらに考えておきたいいくつかの問題がある。



生と理性の対立


理牲の克服

 ギリシャの昔から、人問の思想的営為は、生と思考という二つの極をめぐって展開してきた、と言えば少し乱暴に過ぎるかもしれない。しかし「生きる」ことと「考える」こととを軸に、ある時代には一方へ、また他の時代には別の一方へと傾き、またあるときは両者のあいだにほど良い調和があったということを否定することはできないであろう。
「考え(哲学し)しかるのちに生きる」のか、それとも「まず生き、しかるのちに考える」のか。常識的に考えるなら、「命あっての物種」なのだから、まず生きることが優先されるはずである。しかしそこが人間の面白さ、あるいは文化というものの、ある意味で反自然的性格の摩訶不思議なところで、ときには、いや実を言えばほとんどの時代が、「生きる」ことよりも「考える」ことを重視してきた。そればかりでなく、ある場合には後者のために前者を犠牲にすることまでしてきた、というのが本当ではなかろうか。とりわけ、「近代」というものは本質的にそのような性格を帯びているのである。もちろんここで言う「考える」は、たとえば効率優先、利潤追求など理性から導き出されるあらゆる属性を含めての話である。
 先ほども名前の挙がったウナムーノは、その「近代」というものについて面白い見解を述べている。彼によれば、「近代」は三つのRから成り立っている。すなわちルネサンス(Renacimiento)、宗教改革(Reforma)、そして革命(Revolución)である。そしてそれらは究極的には理性(Razón)、それも文字通り大文字の(いわば神格化された)Rに収斂する、と。明らかにスぺインはこのいずれに対しても反対、あるいは留保の姿勢をとってきた。
 まずルネサンスに対してであるが、はたしてスぺインにルネサンスはあったのか、という問題が立てられたほど、ルネサンスはスぺイン文化とは異質の要素を持っていた。この問題は芸術や文学の章でも論じられるであろうが、ここで簡単に言っておくと、さすがに現在ではスぺインがルネサンスと無縁であったなどと言う人はいないが、しかしルネサンスを支える原理の一つ、すなわち古典的な精神とスぺインはもともと膚が合わなかったとは言えるであろう(中世キリスト教世界との連続あるいは決別という問題については、もっと後になって触れるつもりである)。
 ここで思い起こされるのは、オルテガと同世代のエウへニオ・ドルス(1882-1954)の見解である。彼は、人間の美的傾向は従来の古典主義⇔ロマン主義という二分法ではなく(ロマン主義はむしろバロックの亜種である)、古典主義⇔バロックという対立項で考えるべきではないかと主張して、それぞれを次のように特徴づける(彼の『バロック論』には邦訳もある)。

  • 古典主義(重く沈むフォルム)―― 調和、均衡、静謐。
  • バロック(高く飛翔するフォルム)―― 不安、不均衡、ダイナミズム。要するに、バロック精神とは、「自分が何をしたいのか分からない」ということ。

 ここで言われているバロックの特徴は、まさにスぺイン文化の特徴そのものである。
宗教改革については今さら言うまでもあるまい。スぺインは対抗宗教改革の牙城であり、イエズス会の創立者イグナティウス・デ・ロヨラ(1491-1556)、そしてトリエント公会議(1545-63、台頭するプロテスタント勢力に対するカトリック側の陣容を整えた会議)で活躍した神学者たちの国であった。
 また、ウナムーノの言う革命は市民革命といった狭義の革命ばかりでなく、産業革命をも含めた広義のそれであるが、スぺインは、フランスなど先進諸国から自国に入ってくる新思想に対してはつねに神経をとがらせていた。フランスなどでは「新しい」という概念はおおむねプラスの価値を帯びているのに対し、スぺインではたいていマイナスの価値を帯びていた。たとえば、「つつがなく」という意味を表す言葉に「シン・ノべダー」という表現がある。「シン」というのは「…なしの」という意味で、「ノべダー」というのは「新しいこと」という意味である。つまり「新しいこと」というのは、「危険なもの」「避けるべきこと」と同義であったのである。
 スぺインが理性を最優先させる近代というものに、ことごとく反旗を翻した国だとしても、しかしなぜそうなのか。先ほど指摘した「考える」ことと「生きる」こととの対立の図式からも答えは自ずから明らかであろう。すなわち、スぺインは終始一貫して「生」の立場に立った国であり、そして生は、理性がつねに積み重ねが可能であるのに対して、否応なく海抜ゼロメートルから問題を設定せざるをえない、という性質を持っているからである。
 一九一三年、ウナムーノは『生の悲劇的感情』という、彼の名を一躍世界的にした作品を発表した。これはスぺイン再生に向かう彼の思索の集大成とも言うべき作品であるが、その最後の局面でぶつかった問題は、理性と生の対立、そしてその超克であった。そして彼は、他のヨーロッパ諸国と違って、スぺインがつねに「生」の側に身を置いた国であることを確認するのである。
 近代ヨーロッパはまさに「理性」の旗印のもとに進歩をひたすら求めてきたが、スぺインのとるべき道は、そうした姿勢に追随することではなく、むしろ独自の道、すなわちはっきりと「生」の立場に立たなければならない。つまり彼にとって、両者はまったく相容れない宿敵であり、理性 = 近代を克服するには、それまで王位に君臨してその権勢をほしいままにしてきた「理性」を追放しなければならないのである。
 しかし近代の毒をたっぷり吸い込んでいるウナムーノにとって、この戦いは初めから矛盾に満ちた戦いであったのは当然である。なぜなら、彼自身、青年時にスぺンサーなどの主張する「実証主義」にどっぷり漬かり、それを排除することは、下手をすると自身をも否定することになるからである。彼の後期思想がひときわ悲劇的な相貌を帯びているのはそのためである。



情熱の原理

 スぺイン文化を「理性の相の下に」ではなく「生の相の下に」見るという視点は、現代の優れた文明史家であったサルバドール・デ・マダリアーガ(1886-1978)の主張にも重なっている。マダリアーガは、スぺイン人を他の二つのヨーロッパ人と比較した作品『イギリス人、フランス人、スペイン人』の中で、スぺイン人を情熱の民族と定義したが、その場合の「情熱」は今まで述べてきた「生」とほぼ完全に重なる。つまり本来的な意味での「情熱」(パシオン)は、その通常の意味であるたんなる激情というより、「キリストの受難(パシオン)」という場合のそれ、すなわち「生」をまるごと甘受する(耐える)という意味なのである。
 この情熱の原理は、「全か、しからずんば無」であって、そこから帰結される特徴は、あらゆる時と場所において己の全体性を希求すること、限度を知らないこと、つねに人間性ゼロ地点から始めること、両極端のものの共存を許すこと、対象と主体の末分化などである。これらの特徴は、まさに「生」の特徴そのものと言わなければならない。なぜなら、オルテガも言うように、「生はひきとめることも、とらえることも、跳び越えることも許さない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手の施しようもなく存在することをやめて行く」ものだからである。
 しかしそのオルテガは、ウナムーノとは違って、生と理性を対立させることはしなかった。確かに近代的理性は、人間の「生」を不当にも圧迫し続けてきたが、しかしだからといって、その理性を否定すべきではない。理性が潜称してきた王座から理性を降ろさなければならないのは確かだとしても、理性を追放処分にすべきではない。なんといっても人間にとって理性は役に立つ家臣であり、ただ従来の地位からそれ本来の地位に戻ってもらえばいいのである。オルテガの言う「生–理性」すなわち「生ける理性」とはそのようなものを指す。
 ともあれ、以上述べてきたことからも、スぺイン文化の基盤が「生」に置かれていることはお分かりいただけたと思うが、さらにここでスぺイン文化のもう一つ重要な条件にも触れておかなければならない。それというのは、スぺインがヨーロッパのいわば「周辺」に位置するということである。そこからスぺイン文化独自のリズムが生まれた。つまり中央からの文化の波及が、他の国々と微妙にずれているということ。そのずれは、さしあたって二つの結果を生む。すなわち遅まきの成果と、それとは一見矛盾するようだが、時期尚早の成果、である。
 言葉を換えれば、文化的後進性と、それとはまったく反対の文化的革新性である。どうしてこのような相矛盾する結果が生じるかといえば、理屈は簡単である。つまり、池の中央に生じた波紋は岸辺に達するにはそれなりに時間がかかるが、しかしそれがために、ときには(いつもというわけではないが) かえって熟成の機会が与えられるからである。
 分かりやすい例を挙げれば、たとえばセルバンテスの場合がそうだ。彼は騎士道小説がすでに時代遅れになったときに、いわばそれを洒落のめすために『ドン・キホーテ』を書いた(これは作中人物のドン・キホーテが騎士道そのものを再興するという時代錯誤もはなはだしい企てと、ちょうど入れ子細工のように組み合わされている)が、そのことがかえって『ドン・キホーテ』に近代小説の先駆的役割を担わせることになるのである。



血の純粋性をめぐる葛膝


生粋主義

 ところで私は冒頭で、ウナムーノ、オルテガを読み進める過程で「黄金時代」に出会った、と言った。確かに私は彼らによって黄金時代の重要性を教えられ、彼らによって黄金時代に導かれたと言えるが、しかし彼らが構築したスぺイン文化論には重要な欠落部分のあることも教えられた。三つの宗教の混在がもたらした血の純粋性をめぐる問題である。それをもう少し具体的に説明してみよう。ウナムーノが一八九五年に発表した『生粋主義をめぐって』は、アンへル・ガニベット(1865-98)の『スぺインの理念』(1897)とともに、スぺイン文化の本質を探るための必須の文献であるが、その中で彼は、スぺイン文化の根底に、それ抜きではスぺイン文化の理解が不可能なある重要な問題を採り当てた。それは表題にある「生粋主義」の問題である。
 生粋主義というのは耳慣れない言葉であるが、もともとこれは、外国風の言い回しや表現を嫌って、たとえ廃れたものであっても、自国の伝統的な言葉使いや表現を重視する姿勢を指すものであった。ウナムーノはこれをもっと広い意味で使っている。冒頭、彼は次のように言う。

「ここでは生粋な(カスティソ)ならびに生粋主義(カスティシスモ)という言葉を、ふつう 一般のきわめて広い意味でとる。生粋なという言葉は、血統(カスタ)という言葉から派生し、そしてこの血統という言葉は純粋な(カスト)という形容詞から派生する」
(拙訳「生粋主義をめぐって」、『ウナムーノ著作集』、第一巻、法政大学出版局)

 続けて彼は、雑種よりも純血種の方が優れているとするのはまったくの偏見であり、むしろ交配によって新たな活カと進歩の源泉を獲得する、と言っている。
 つまりここで問題となっているのは、結局は前にも触れておいた、自国の伝統と外国文化の関係の問題である。彼は「スぺインの精神的悲惨は孤立にある…われわれがこうした精神的荒廃に生気を与えることができるのは、ただヨーロッパの風に対して窓を開け放ち、自らを大陸的状況に埋没させ…自らをヨーロッパ化し、自らを民族の中に浸すことによってのみ初めて可能である」と結論する。
 ところが実際には、彼が生粋主義を肯定しているのか、それとも否定しているのか、は最後まで曖昧模糊としている。それは、彼の言うカスタ(血統)が、結局なにを指しているかが曖昧なところから来ている。スペイン北東部の港湾都市ビルバオのバスク系家族の出身ながら、「九八年の世代」を構成する他の多くの人たちと同じく、カスティーリャをスぺイン再生の中核に据えるという視点に立っていた彼は、スペインの歴史的現実に対してある種の偏見を持っていたと言わなければなるまい。
 その事実を象徴的に示しているのは、彼とガニベットとのあいだに見られろ決定的な違いである。つまりガニベットには、カスティーリャ中心主義に立つことは、結局は自らの存在そのものの否定につながるという問題意識があったが、ウナムーノはついにそのことを理解することができなかったという一事である。
 かつてのイスラム・スぺイン文化の中心グラナダに生を受けたガニベットは、自らをかえりみて、これはイスラム的なものの残存、そしてこれはユダヤ的なものの痕跡、という具合に「生粋ならざるもの」を剥ぎ取っていくならば、ちょうどラッキョウの皮をむく具合に、自らの中心までもが剥奪されるという明確な意識を持っていたのである。
 要するにウナムーノは、「スペインには異端審問的精神が内在する」として、スぺイン文化の根底にカスタ(血統)をめぐる確執ごときものがあることを探り当てたのはよいが、その言葉(カスタ)が具体的には何を意味するのかを突きとめなかった。それが文字通りキリスト教徒、イスラム教徒、そしてユダヤ教徒の血統とその葛藤であったことに思いいたらなかったということだ。しかしこれは彼一人の責任ではない。スぺインそのものが四世紀もの長いあいだ、自国文化の中枢にこの血統の問題を抱え込んでいることに目をつぶり続けてきたからである。
 とくに、スぺイン史の正統的解釈者を自認してきた歴史学者にその責任の大半がある。スぺイン正統史観によれば、スぺインは一五世紀末に他の国に先駆けて国家統一を成し遂げ、以後ユダヤ人追放(1492)、そして再征服後もスぺインに留まっていたモーロ人(モリスコ)の追放(1609)を経て、思想的にも宗教的にも一枚岩を形成してきた、ということになる。
 これが単純な人種問題であったなら、話はある意味で簡単だったであろう。しかしこの血統の問題は、スぺイン文化ならびにスぺイン人の奥深くに内向した問題であったから話はややこしくなる。たとえば「カトリック両王」の一人、すなわち近代スぺインの建国の父とも言うべきフェルナンド二世が四分の一ユダヤ人であったという厳然たる事実にそれは集約的に表われている。とくにユダヤの血は、社会の上層に行けばいくほど濃くなっていく可能性があった。なぜならユダヤ人の多くが知識人であり裕福であった、つまり一般庶民より貴族階級の方がはるかにユダヤの血を引いている可能性があったからである。



オルテガの限界

 次にオルテガが持っていた限界に話を進めよう。彼がその広範囲にわたる思想的営為を通じて、スぺイン文化に関する実に多くの卓見を開陳したことは事実である。しかしパイオニアにとかくありがちなことだが、それら貴重な見解のいくつかは実証的な裏づけなしに放置されたままである。一例を挙げれば、スぺイン黄金時代の最高の人文学者であったルイス・ビーべス(1492-1540)に関する見解がそうである。
 それはどういうことかというと、若くして国外に出て活躍していたビーべスが、アルカラ大学 (後のマドリード大学) の教授を務めていたアントニオ・デ・ネブリハ(1441?-1522)の死に伴い、その後任に推挙されたときの対応をめぐるオルテガの解釈についてである。ネブリハは当時のスぺインにおける最大の人文学者と目され、スぺイン最初の文法書を書き、さらには有名な多国語聖書を編纂した人物である。確かに当時、ビーべスの名はヨーロッパの知識人たちのあいだには知れ渡っていたが、しかし大学者の後釜を引き受けることは、故固に錦を飾る千載一遇のチャンスであったはずだ。しかし彼はこの誘いを断る。これについてオルテガは、ビーべスも当時の人文学者の常として一か所に定住するより放浪を好んだから、といった理由づけをした。
 しかし実は、帰ろうにも帰れない事情があったのである。それは彼が、実はユダヤ系であり、一族は異端審問所から隠れユダヤ放徒の嫌疑を受けていたからである(1501年には叔母と従兄が、13年には別の叔父が焚刑に処せられ、そして教授職への勧誘があった二年後の一五二四年には、今度は彼の実の父親が処刑、おまけにすでに墓に入っていた母親の遺体までもが掘り起こされて焼かれ。ビーべスのの不安は悲劇的な形で現実となったのである)。オルテガはこの事実を「ビーべス論」執筆時にはまったく知らなかった(はっきりと史料的に裏付けられたのは1964年、つまりオルテガの死後10年近く経ってのことであった)。こうした誤読は、歴史的制約から来る、ある意味では不可避のものであって、必ずしもオルテガだけの落ち度ではないが、彼ほどの目利きもそれに気づかなかったという事実は、やはりはっきり指摘しておかなければならないであろう。
 以上、二人の偉大な先駆者が持っていた限界について述べてきたが、しかしだからといってウナムーノとオルデガが、スぺイン文化の基層を掘り起こすための道具を整えてくれたという事突か帳消しになるわけではない。ウナムーノは、あらゆる人間的・文化的事象の底にあるもの、とりわけ歴史的事象の底部にあるものに着目すべきことを繰り返し説いた。

「歴史の波は、そのざわめきと、太陽を反射するその泡ともども、絶え間なく続く深い海、すなわち沈黙し、そのもっとも深い底には太陽がけっして屈くことのない海の上を揺れ動いている。新聞が毎日のように語っているすべてのこと、歴史的現時点についてのあらゆる歴史は、海の表面、すなわち書物や索引書の中で凍結し結晶する表面にすぎない… そうした海の底そのもののような 内-歴史的な、沈黙し継続的な生こそ進歩の実体であり、 真の伝統、永遠の伝統なのだ」(『生粋主義をめぐって』前掲書)

 つまり彼の用語を借りれば、歴史を歴史たらしめる「内–歴史」に着目する必要を繰り返し説いたのである。
 またオルテガは、「観念と信念」、あるいは「歴史的危機」といった新しい視点を導入することによって歴史解釈に新しい地平を開いた。前者は、人間は観念を持つことができるが、しかし信念の中に生まれ、それを糧として生きるという考え方である。つまり信念は、人が持つものというより、人がその中に生まれるもの、ちょうど空気のように通常はその存在に気づかないが、「生」を根底から支えているものと言えよう。そして後者の「歴史的危機」とは、そうした信念の根底が揺らぎだし、それがもはや有効性を失い、かといって、いまだ新しい信念にたどり着けない時代ということになる。
 さらにオルテガは、歴史のみならずあらゆる人間的事象を見るときに注目しなければならない三つの層を明快に指摘した。すなわち一人の人間が生きるというのは、二つの層にまたがって生きることだというのである。いちばん上にあるのは当面の対象(オルテガはそれを敵という言葉で表している)、次いでその敵ならびに自己がよって立つところの表層、そして最後に、それらすべてを奥深いところで支えている地下層である。もちろん、いちばん大事なのは最後のものである。
 以上のような考え方が、ウナムーノの言う「内–歴史」と微妙に交錯し、反響し合っているのは言うまでもない。彼もまたウナムーノと同じく「内部から」という視占を強調したのである。



『スペインの歴史的現実』の衝撃

 しかしウナムーノ、オルデガなどによって深められた歴史観、人間観をさらに精緻に、また具体的にスぺイン文化の中に検証するためには、もう一人の思想家を待たなければならなかった。その人こそアメリコ・カストロ(1885-1972)である。とくに一九五四年に発表された『スぺインの歴史的現実』は、それまでのスぺイン史観の見直しというより、そのコぺルニクス的転回を迫る革命的な書物であった。つまり彼は、スペインの歴史と文化がかつてのキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三つの宗教・文化の融合と葛藤によって形成され、また「血の純粋性」にまつわる強迫観念が、近代スぺインの「生」にいかに甚大な影響を及ぼしてきたか、を歴史的に実証しようとしたのである。
 それまで彼は言語学・文献学の分野で優れた業績を上げてはいたが、この『スぺインの歴史的現実』によって一挙に史学界に殴り込みをかけた形になった。いや、少なくとも歴史の専門家たちの目にはそう映った。とうぜん激しい議論が巻き起こり、とくにサンチェス・アルボルノース(1893-1984)は『スぺイン、歴史の謎』(1957)をもって激しく応酬した。つまり彼にとってカストロは、それまで生粋のスぺイン文化と見なされてきたものの中に、やたらユダヤやイスラムの痕跡を嗅ぎつける物好きな人間に見えたのであろう。事実カストロは、いたるところにユダヤやイスラム(とりわけ前者)の影を見つけていく。もっと具体的に言うと、それまでスぺイン文化の担い手とされてきた人たち、こともあろうにあの輝ける黄金時代を築き上げた人たちの中に、ユダヤの血を見つけていくのである。
 たとえば、すでに名前の挙がった人文学者のルイス・ビーべス、彼とは違って国内に留まって活躍したルイス・デ・レオン(1527-91)、ピカレスク小説の傑作『グスマン・デ・アルファラーチェ』を書いたマテオ・アレマン(1547?-1614?)、国際法の開拓者フランシスコ・デ・ビトリア(1492-1546)、そしてスぺイン文学だけでなく世界文学の至宝ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)、さらにはなんとスぺイン文化の精神的支柱たる神秘主義の華、聖女テレサ・デ・へスス(1515-82)やフアン・デ・ラ・クルス(1542-91)までもがユダヤ系改宗者(当時は新キリスト教徒と呼ばれた)の血を引いているとしたのである。
 確かにそういう目で彼らの作品を読み直してみると、それまで分からなかったいくつかのこともいちいち合点がいく。その例は枚挙にいとまもないほどであり、先のビーべスの場合もそのうちの一つに過ぎない。ただ、ここで是非ともはっきりさせておかなければならないのは、カストロはなにも好きこのんで「ユダヤ人狩り」をしたわけではない、ということである。また、ある作家なり思想家なりが実はユダヤ系の出自を持っていたとしても、だからといって彼の業績の持つ意義が大きく変わるわけでもないし、その価値を減じるわけでもない。つまりユダヤ系の出自を持つということは、彼の行動、業績の原因であったのではなく、むしろ動機であったと言ったらいいかもしれない。
 いい例が思いつかないが、たとえば次のような場合を想定してみよう。ある旅人が崖道を歩いているとする。行く手の崖の上にいまにも落ちてきそうな巨岩があるとする。とうぜん彼は迂回する道を選ぶであろう。そのとき、その巨岩は、迂回するという彼の行為の「原因」ではなく、「動機」と言うべきである。直進してその巨岩の下敷きになった場合なら、巨岩は彼の死の原因と言ってもいいであろうが。



血をめぐる強迫観念

 ユダヤ系の出自を持つということが、当時のスぺインにあってどれだけ深刻な問題を投げかけたのか、私たちにはただ想像するしかないが、しかしそれが一種の強迫観念としてスペイン人の上に重くのしかかっていたであろうことは否定できそうもない。
 もちろんそのことがいつも公然と話題になり、機会あるごとに記録に残されたわけではない。とくに具体的な個人にかかわることであれば、その人がたとえば異端審問所などによって隠れユダヤ教徒として正式に告発でもされないかぎり、たいていは口から口へとひそかに噂されるだけであったろう。もしそうでなかったなら、かくも長きにわたって、歴史の表面からその痕跡が (たとえいかに意図的に隠蔽工作がなされようと、そして事実それがなされたのだが) 消え去っていたわけがない。
 ユダヤの血を引いていないことが、他のどのような価値よりも優先された。異端審問所はしきりに隠れユダヤ教徒を追跡したし、各地方自治体は独自に「純血に関する法令」を発布した。また教会関係のものを含めてあらゆる公的機関の人事は、異教徒の血が混じらない旧キリスト教徒であることを必須条件とした。教会関係者までもが血の純粋性にこだわったのである。
 イエズス会を創設したイグナティウス・デ・ロヨラはそうした差別にまったく組みさない人だったので、彼の同志の中には改宗者の血を引く者が多かった。たとえば彼の後を継いで第二代総会長となったディエゴ・ライネス(1512-65)もそうであったし、腹心の部下であったフアン・デ・ポランコもそうであった。しかしこの修道会にもあらゆる方面から圧力がかかり、ついには改宗者の血を引く者に対して門戸を閉ざすことになる(本命と見なされていたポランコの第三代総会長就任はかくして実現しなかった)。
 この異常とも言うべき血の純粋性へのこだわりが、どのような社会状況を作り出し、さらには個々の人間、とりわけ改宗者の血筋に連なる人たちにどのような影響を与えたかという問題は、事が事だけに(公的にはそうした問題の存在そのものが否定され、また当事者の多くは黙して語らなかったため)、その全体像をつかむのは難しい作業となる。断片的に残された記録を解読するためには多大の想像力を必要とするのだ。カストロの作業もそのようなものであり、そのため反論の余地がつねに残されている。しかし歴史をたんなる出来事として見る視点を離れて、それを生成の状態において、つまり「内–歴史」の視点から、「内部から」見るなら、雑然とちらばっていた諸事実は有機的に結び合わされて新たな意味を獲得する。
  確かにそれまでも主要な事実は周知のものだった。つまりジグソーパズルのピース(断片)はほぼ出そろっていたのである。いや、この場合、ジグソーパズルより「隠し絵パズル」のたとえの方が適切であろう。「この絵には木の茂みと一頭の鹿が描かれています。しかし実は、一人の狩人がこの鹿を鉄砲でねらっているのです。さて、どこに狩人が隠れているのでしょう」。このとき私たちは通常の見方を捨てて別のまったく新しい視点をとらなければならない。従来の見方が間違っていたというのではない。しかし新しい現実を見るためには、新しい視点を必要とするのだ。カストロにはこの狩人が見え、アルボルノースには見えなかった。議論が噛み合うはずがない。
  この意味で言うなら、オルデガも実に貴重な視点をすでに提供していた。彼は言う。「あるものの認識が十分なものであるためには すなわち十分に深く、そして根本的であるためには――われわれの生という、そのあるものが登場し、姿を現し、湧き出し突出する場所、つまりそれが存在する世界の内部に、その位置と方法とを精確に見定めることから始めなければならない」(マタイス・佐々本孝訳『個人と社会』、白水社)



幸いなる罪

  ところで前述のような、血の純粋性にまつわる懸念、あるいは強迫観念はどのような結果をもたらしたのであろうか。まずは不確実性、不安定性の意識であろう(オルテガの言う難破者の意識)。己がよって立つ地盤そのものが揺れ動き、一寸先は闇という意識である。日常は安定性と持続性という属性を失う。人はそのとき、己が何に依拠すべきかを根源から問い、自己同一性を激しく希求するであろう。それがあまりに徹底しているので、あたかも一瞬ごとに自己の生を切り崩しながら生きているかに見える。カストロの有名な言葉を借りるなら、「自己を破壊しての生」である。つねに生の海抜ゼロ地点からの出発である。これをアダム主義と言い換えてもいい。つまり社会や先達たちの蓄積から出発することを潔しとしないのである。
 こうしたメンタリティーがスぺインの歴史にも反映しないはずがない。スぺイン史が分かりにくいと言われるのもここに原因がありそうだ。オルテガの弟子で今まで何回か文化使節として来日したことのあるディエス・デル・コラール(1911-98)の言う「スぺイン史は非連続の連続である」という言葉もそのことを表しているし、堀田善衛が大作『ゴヤ』(全四巻、新潮社)の中で何度かつぶやいた次の言葉もそのことを実に的確に言い当てている。
 「何かが起るようでいて、たしかに何かが起って、しかもなお結果としては、あたかも何事も起らなかったかのような結果になるのは、スぺイン史の謎とでも言うべきものであろう」
 もう一度言おう。誰と誰が改宗者の血筋を引いているのか、それともいないのか、はまったく二義的なことなのだ。大事なのは、改宗者の血筋を持たない者をも含めて、スぺイン社会そのものが血の純粋性への偏執にすっぽりとらえられたということ、そしてそれが独特なスぺイン的「生」の思想が形成されるにあたって重要な役割を演じたということである。かつてスぺインにそのような「葛藤の時代」があったということ、これはスぺインにとって不幸な、できれば隠しておくべき恥部なのであろうか。一部のスぺイン人はそのように考えたようだ。しかし本当にそうであろうか。むしろそれはスぺインにとって「幸いなる罪」ではなかったか。なぜなら、むしろそのことが、その広がりと深さにおいて、イタリア・ルネサンスにけっしてひけをとらない豊饒きわまりない「黄金時代」を作り出す機縁ともなったのであるから。



人文主義と神秘思想


エスコリアル宮

 少々理屈っぽい話が続いてしまった。ここらで少し気分転換をはかろう。たとえば次のように問うてみたらどうだろう。「黄金時代」の思想的特徴を誰の目にも明らかな形で、つまり視覚的に示しているものは何か、と。すると私には即座に思い浮かぶ一つの建造物がある。建物というより建造物。それは現在もマドリード北西約五十キロの、グアダラーマ山脈の麓にあるエル・エスコリアル宮殿である。
 荒涼たるカスティーリャの岩地の真ん中に威容を誇るこの建造物の正式名は、サン・ロレンソ王立修道院。しかしそれは同時に宮殿であり、図書館であり、スぺインの歴代の王たちを祀る霊廟でもある。一五六二年に着工され、一五八四年に完成した。この建造物の建築学的解釈は専門家に譲るとして、ここではただそれの思想的意味について考えてみることにする。
 それにしてもなんという建造物だろう。フェリーぺ二世による建設趣意書によると、これは一五五七年八月十日のサン・カンタン(フランス北部の町)でのフランス軍に対する勝利を記念するため、二五八年の同じ八月十日に殉教した聖ロレンソに奉納されると書かれている。聖ロレンソは、火焙りの刑にあったとき、身体の半分が焼かれたとみるや、今度は別の半分を焼いてくれと言ったと伝えられる殉教者である。しかし、いかにフェリーぺ二世が信心深い王であったとしても、この説明だけではどうも納得がいかない。オルテガも次のように書いている。
 「エル・エスコリアル建立という、わが国の歴史上もっとも偉大な業のひとつが、通りすがりの、ほとんどスぺインの実情とつながりを持たぬ、ひとりの聖人への感謝しか意味していないなどということが、いったい可能であろうか」。そして彼はこう結論する。この記念建造物には、フェリーぺ二世ひいてはスぺインにとっての神、すなわち「より大いなるもの」への全意志、全努力が、「観念や感受性を取り払われた形で、石化しているのである。この建物は全身これ願望であり、切望であり、衝動なのだ」(『エル・エスコリアルをめぐる思索』)
  設計を担当したフアン・デ・バウティスタも、その死後、彼の後を継いだフアン・デ・エレーラも、ともにイタリアで学び盛期ルネサンスの影響を強く受けた人たちではあるが、できあがったものは、またなんとルネサンスとほど遠い代物であろうか。聖ロレンソの拷問具をイメージしたというこの建物の外観は、なんと無愛想で、また禁欲的なのだろう。
  ルネサンスもスぺインに来ると、何かが大きく変質するのである。オルテガは、エル・エスコリアルのスタイルが、ルネサンス自体に起こった変化、すなわちダ・ヴィンチなどの「気品ある様式」から、ミケランジェロなビの「壮大な様式」への変化に呼応したものとして説明するが、しかし彼自身、そのあとの叙述では、それをきわめてスぺイン的なものと締めくくって、ある意味では論理矛盾を犯している。ともあれ彼は、「純粋努カ」という言葉でそうした特徴を表現しているのだが、これはまさに前節で説明しようとしたものにほかならない。つまり、絶えず自己のアイデンティティーをゼロ地点から求めるがゆえに、いったい自分は何のために努力しているのかが分からなくなる状態、と言ってもいいであろう。それはあのドン・キホーテが冒険遍歴の旅の果てにつぶやいた言葉、「実を言えばわしが精魂かたむけて達成したものがなんであるか、わしは知らない」にぴったり呼応する。
 以上述べてきたことが、本章のテーマである人文主義や神秘思想(とくに後者)とどのような関係があるかは最後に触れることにして、まずは黄金時代にいたるまでのスぺインの学問・思想がどういうものであったかを少し説明しておく必要がありそうだ。なぜなら、人文主義にしろ神秘思想にしろ、黄金時代に大輪の花を咲かせたのは、けっして突然でもなければ、たんに外国からの影響によって起こったものでもないからである。



三つの文化の融合

 ところで、スぺインには果たして学問はあるのかないのか、をめぐって争われた「スぺイン科学論争」(一九世紀末)で、スぺインには見るべき学問など存在しないし、あってもそれは外国のコピーに過ぎない、と主張する革新主義者(ヨーロッパ追随主義者)たちに対して、もう一方の伝統主義者(スペイン主義者)たちの旗頭であったメネンデス・ぺラーヨ(1856-1922)が挙げたスぺインの学問的伝統の主なものは、次のようになっている。

  • セネカ(前四?-後六五) コルドバ生まれのローマのストア哲学者。
  • イシドーロ (五五〇?-六三六) セビーリャの大司教、西ゴート時代を代表する学者。
  • アべロエス(一一二六-九八) コルドバ生まれのアラビア系哲学者。
  • マイモニデス(一一三五-一二〇四) コルドバ生まれのユダヤ系哲学者。
  • ラモン・リュル(一二三三?-一三一六) 異教徒にキリスト教の真理を伝えるための普遍学(“大いなる術”)を構築したことで有名。
  • ビーべス(一四九二-一五四〇) 生涯のほとんどを国外で過ごしたスぺイン最高の人文学者。
  • スアレス(一五四八-一六一七) イエズス会の神学者。スコラ哲学中興の祖。

  ここにはスぺイン文化の縮図とも言えるものがはっきり表れている。つまりローマ人のセネヵ、イスラム教徒のアべロエス、そしてユダヤ人のマイモニデスを、スぺイン生まれだという理由でスぺインを代表する学者に挙げているのはご愛敬としても、イシドーロはギリシャ・ローマをはじめ当時のあらゆる宗教的・学問的知識を集大成した人であり、ラモン・リュルも、キリスト教ばかりでなく戦術的にイスラム、ユダヤの学問体系を自家薬寵中の物とした人だからである。つまりスぺインは例の三つの宗教・文化が溜々と流れ込む坩堝のようなものだったということである。
  ところで、今までは少しくどいほど三つの宗教、文化の混在がスぺインに与えた「葛藤」という緊迫した側面を強調したきらいがある。ここではもう一つの側面、すなわち平和裡の「融合」という側面を述べてみよう。とくに、一二世紀から一三世紀にかけてのスぺインは、三つの宗教・文化の共存によって、世界史でも稀な、異質文化の混在によるまことに実り豊かな成果を生み出したからである。
  一般にはルネサンスによって、それまで看過されてきたギリシャ・ローマの学問・文化が発掘され再評価を受けたと言われている。しかし、それまでそれらが(とくにギリシャの学問が)ヨーロッパの中に大事に保管されてきたと考えるのは早計というものである。たとえばアリストテレスの学問、わけてもその自然学は、近代ヨーロッパの学問的基礎を形づくったと言われるが、その彼の著書も一二世紀頃のヨーロッパにはほんの数えるくらいしか知られていなかった(『論理学』など)。プラトンにいたっては、わずかに『ティマイオス』が伝えられていただけであった。
  それでは、それらギリシャの学問・文化はどこに継承・保管されていたのであろうか。それはアラビアである。今でこそアラブ世界は石油はあっても文化的・学問的にはヨーロッパ世界から大きく水をあけられているかに見えるが、かつては世界の学問の中心の一つであった。しかし、それらギリシャならびにぺルシャ・イスラムの文化遺産がいつ、そしてどこでヨーロッパに再流入したのであろうか。答えはスぺインである。コルドバとトレードは、ギリシャ、イスラム、そしてユダヤの学問が研究され、翻訳される二つの中心をなした。とりわけ一二世紀トレードの「翻訳学派」と呼ばれる学者たちの活躍には瞠目すべきものがあった。そのあたりの歴史を少しまとめてみると、次のようになる。
 カスティーリャ王アルフォンソ六世によるトレード征服(一〇八五)のあと、大司教ライムンド(一一二六–一一五二)の庇護のもとに、アラビア人、ユダヤ人、キリスト教徒の学者が多数この町に集まってきた。この頭脳流入というか学問の集中現象は、一一世紀から一二世紀にかけてスぺインに侵入したイスラムの新興勢力が宗教的に偏狭な思想の持ち主たちで、そのため多数のユダヤ人やイスラム教徒が自由を求めてトレードに避難してきたという事情がある。そして、かつてはヨーロッパからほぼ完全に失われていたギリシャの学問、そしてユダヤやイスラムの学問が、スぺイン語に、あるいはラテン語に翻訳されてヨーロッパ各地へと広まっていったのである。
  またその頃、当時のイスラム・スぺイン文化の一大中心であったコルドバでは、後のヨーロッパの学問に甚大な影響を与えることになる二人の学者が誕生していた。先に名前の挙がったアべロエス(アラビア名イブン・ルシュド)とマイモニデス(へブライ名イブン・マイムーン)である。ともにアラブ世界、ユダヤ世界の押しも押されもせぬ大学者と言わなければならない。またその後に登場した賢王アルフォンソ十世(一二二一–八四)は、自らも『七部法典』、『大年代記」を著すほか、中世随一の学術の奨励者として、スぺインを三つの宗教・文化の一大中心地とした。
  要するに スペインは他のヨーロッパ諸国と違って、イスラムやユダヤの学問・文化と直の接触があり それぞれから深い影響を受けたということである。そんなことはスぺインの町々を歩けばいやでも実感させられる。トレードに今も残るシナゴーグ(ユダヤ教会堂)やコルドバのメスキータ(イスラム教寺院)、そしてグラナダのあのあまりにも有名なアルハンブラ宮殿……。



ルネサンスのねじれ

  さて、ここらで本章のテーマに戻ろう。まず人文主義であるが、これは言うまでもなくルネサンスを準備し、生み、またそれを導いた思想である。このルネサンス運動はまたたく間に全ヨーロッパに伝播していった。もちろんスぺインにもその波が押し寄せたが、しかしそこには、前にも少し触れた古典主義とバロックという対立構造とともに、もう一つ、スぺイン独特の事情があった。すなわちルネサンスが標傍した個人の解放と自然人の発見、そしてそれを目指す手段としてのギリシャ・ローマの学問・芸術の復興は、その大筋のところでスぺインにも受け入れられ、それなりに定着したが、しかし非常に重要なある一点でねじれ現象を起こしたのである。それは、ルネサンスが当初から持っていた思想的大前提である中世キリスト教の束縛からの解放という一点で、スぺインは独自の姿勢をとったということだ。簡単に言えば、スぺインは中世との決裂ではなく、それとの連続を志向したということである。
  なぜスぺインがそのような姿勢に固執したかというと、今までの話の流れから容易に察していただけると思うが、スぺインが他のヨーロッパ諸国に先駆けて国家的統一を成し遂げ、イタリア、ポルトガル、フランドルなどに地歩を広げ、なおかつ広大無辺の新世界に進出しようとし、実際にそれを断行したのも、まさに解体の危機に瀕していた中世キリスト教世界の復興であり、それの継続、そして完成だったからである。
  スぺイン人には、自分たちがイスラム世界の脅威からヨーロッパを守ったという誇りが抜きがたく存在する。八世紀にも及ぶレコンキスタも、自分たちのためというより、むしろキリスト教世界全体のための堡塁であったのだという衿持である。
  すでに名前の挙がったデイエス・デル・コラールの言葉を借りれば、八世紀にもわたって国土縮小を強いられたスぺインは、「あたかもふりしぼった弓のように、この地球一周の旅の大いなる矢を放たんがために、身をかがめ力を蓄えた」(『ヨーロッパの略奪』)のである。もちろんこれは、ちょうどドン・キホーテが、当時すでに落日の中にあった騎士道を再興しようとしたように、はなはだ時代遅れの、もっとはっきり言って時代錯誤の企てであったことは間違いない。
  ともあれスぺインにルネサンスが入ってきたのは、もろ手を上げて歓迎されたというよりも、意に反して浸透してきた、と言った方がいい。事実、スぺインは当時、隠れユダヤ教徒(フダイサンテ)やモリスコ(旧イスラム教徒)たちへの締めつけ、危険思想への極度の警戒をその任務とする異端審問所の動きが活発であったし、一五五八年には外国図書の輸入禁止や翌一五五九年には外国留学に対する制限がいちだんと厳しくなっていった(ローマ、ナポリ、ボローニャ、コインブラにあるスぺイン学寮以外のところで勉強することを禁止)。
  ところでスぺインの主だった人文主義者はといえば、終始国外で活躍したルイス・ビーべスを筆頭に、アルフォンソとフアンのバルデス兄弟(一四九一年ころ生まれの双生児で兄・一五三二年没、弟・一五四一年没)、ルイス・デ・レオン(一五二七–九一、アウグスティヌス会士・サラマンカ大学教授・詩人)の名がまず浮かんでくる。しかしスぺイン人文主義の先行者として、すでに登場したアントニオ・デ・ネブリハの名を逸することはできないであろう。私はいま彼らの名を意図的に選んだのではないが、しかし改めて考えてみると、彼らがみな改宗者の血筋を引いていることに今さらながら驚かされる。彼らは表立っては血筋のことで迫害されたわけではないが、いずれも異端審問所ににらまれた。なぜなら、前述したように人文思想そのものが、スぺインでは危険思想と見なされていたからである。
  人文主義の王とも言うべきエラスムス(一四六九?-一五三六)も初めのうちは歓迎され紹介されたが、しだいに警戒され、ついには異端視される。したがってスぺイン思想・学問の表面からはエラスムスの影は見えにくくなった。
  しかし、だからこそそれは、スぺイン思想の内部深くに甚大な影響を与えることになった。こうしたエラスムス現象を、スぺイン黄金時代に鋭く肉薄してみごとに探り出したのが、今世紀最高の外国人スぺイン学者と言ってもいいフランスのマルセル・バタイヨン(一八九五–一九七七)であり、その著『エラスムスとスぺイン』(一九三七)である。この本は、カストロの『スぺインの歴史的現実』に先駆けて、従来のスぺイン史解釈の再検討を迫るという画期的な意義を持っていた。
  従来スぺインは、人文主義とかルネサンスとあまり縁のない国と思われがちであったが、エラスムス現象一つとってみても、実はスぺイン独自の発展を遂げていたのである。しかし残念ながら、ウナムーノの言う「内在的異端審問」の冷たい風にあたって十分な開花を見ないうちに、というよりそれを適切に評価し継承するという状況ができなかったがために、歴史の表面からは消えてしまった。



神秘主義と「生」

  さて、これまでスぺイン人文主義を取り巻いていた、けっして順境とは言えない状況について説明してきたが、黄金時代のもう一つ重要な成果である神秘思想にしても、事情は似たようなものであった。これもある意味では、当時の時代風潮の中で積極的な支持を受けて、順風の中で育ったのではなく、これまた意に反して誕生したのである。つまり当時、国を挙げての対抗宗教改革の中で、教会の権威を媒介せずに個人が直接に神と交流しようという姿勢(これが神秘主義の神秘主義たる所以なのだが()は、ときには迫害、またときには厳しい弾圧を被らずにはすまなかったからである。
  ところでスぺインの神秘主義は、一六世紀中葉、テレサ・デ・へスス、フアン・デ・ラ・クルスを筆頭に、かつてないほどの広さと深さ、そしてボルテージの高さを持った宗教的・精神的潮流を指すが、しかしそれは、たとえばエックハルト(一二六〇–一三二七)のような北方の神秘主義とはだいぶ趣が違う。どこがどう違うかを説明することは難しいが、あえて一言でいってしまえば、現実そのもののとらえ方が違う、ということだ。つまり、「生」を、これは宗教的生、これは世俗的生という具合に分割してとらえることをしないのである。
  これを映画を例に説明してみよう。スぺイン映画などわが国にはまったくと言っていいほど紹介されないが、それでも昔たいへん人気を博したスぺイン映画が一つある。それは『汚れなき悪戯』(原題はパンとブドウ酒のマルセリーノ)という映画で、孤児マルセリーノ坊やの切なくも悲しい物語は、観る人の涙をさそったものである。修道院に拾われた孤児が、やがて屋根裏部屋にあつた磔刑像のキリストと友達になり、最後はそのキリストに導かれて今は亡き母のいる天国に召される、という素朴きわまりない奇蹟譚である。これは他の国ではめったに作ることのできない、実にスぺイン的な映画であると思う。つまり超自然と自然のあいだに境目がない世界というか、垂直的視点がいとも自然に水平的視点と交わる世界というか、いかにもスぺイン・リアリズムの手法が駆使された映画であった。 スぺイン神秘主義、とりわけテレサ・デ・へススの神秘思想の特徴の一つに、什器(身の回りの家具類、すなわち日常性)の中に神を見るというのがある。これも世俗世界から隔絶したところで、あるいは具体世界を超えた抽象世界で神と出会うのではなく、私たちを取り巻くこの日常世界の中で神と出会うことを意味している。そのようなわけで、キリスト教世界の伝統的な二分法である「活動と観想」は、スぺイン神秘思想では一つになっていると言っていいだろう。
  彼女は『完徳の道』や『内奥の域』などで独特の神秘思想を展開したが、しかしそれらは彼女の日常的生(もちろん修道生活のそれだが)から遊離した世界を描いたものではない。ほかにも、ある意味で彼女の最高傑作と言える『自伝』があるが、これは文字通り彼女の半生を内容とするもので、そこでは「生」をまるごと表出するスタイルが確立している。つまり彼女の著作活動全体が (純粋に宗教的な神秘思想までもが)、彼女の「生」の表出という一点に収斂していると言えるのである。



思想家たちの遍歴

  ところで古代人は宇宙中心の世界観の中に、中世人は神中心の世界観の中に、そしてその後にくる近代人は人間中心の世界観の中に生きることになるが、ビーべスやテレサ・デ・へスス(あるいは一般的にルネサンス人)は、もはや中世人ではなく、いまだ近代人でもなかった。
その意味で彼らは、まことに不安定な時代に生きていたと言わなければならない。しかも彼らの場合、さらにユダヤ系知識人という条件が加わり、よりいっそう複雑な様相を呈するのである。
  ビーべスについてはすでに触れたので、ここではテレサの例を出そう。彼女は生涯一度も著作の中で自分の血筋のことに触れたことはない。しかしこのように血の問題にいっさい触れないということ自体、彼女の場合は逆にきわめて不自然なことであった。なぜなら、テレサにとって血の問題はけっして他人事ではなかったからである。彼女の祖父は、もともとはトレードの裕福な商人であったが、そこの異端審問所の一四八五年の記録に次のようなものが残っている。「レオカルディ教区のトレード市民アロンソ・サンチェスの息子たる商人フアン・サンチェス(彼女の祖父)は異端審問判事一同の面前にて、聖なるカトリック信仰に反して犯せる異端と背教の大罪を多数告白せり」
 この異端審問騒ぎは、もちろん聖女の生まれる三〇年も前の話である。しかし一五一九年、すなわち彼女が四歳半のとき、父アロンソと三人の叔父は、サンチェス・デ・セぺーダ家の郷士(この場合は旧キリスト教徒と言うに等しい)の身分を確認するためバリャドリードの法廷に提訴するという事件が起こる。それに対してアビラ市当局は、「彼らはユダヤ系の改宗者である」と反駁するが、翌年、彼らは勝訴し、「郷士の身分」が確認される。しかしこの貴族証明書(エへクトリア)なるものが当時どれほど頻繁に偽造されたか、当時から問題視されていたことは周知の事実である。ともかく、こうした一族の災厄がテレサ自身の人間形成、価値観形成に影を落としていないと言う方が無理というものであろう。
  さてここで本節の振り出しに戻って、エル・エスコリアル宮殿に具体化されているスぺイン思想の特徴と、これまで述べてきた人文主義ならびに神秘思想(とくに後者)との関係をごく簡単に述べて本節を閉じたいと思う。テレサ・デ・へススなどのスぺイン神秘主義をカトリック神秘神学という視点からではなく、スぺイン思想という文脈で考えるなら、やはりオルテガがエル・エスコリアルに触れて指摘したことがスぺイン神秘思想にもあざやかに表れているように思われる。
  一言でいうなら、途方もないもの、より大いなるものを求めるそのボルテージの異常なまでの高さである。ふつう神秘思想家といえば、修道院にひきこもってひたすら祈りと苦行に精進する姿が思い浮かぶが、テレサの場合、それはまったく当たっていない。ドン・キホーテが、見果てぬ夢と、とてつもない偉業を求めて遍歴の旅に上ったように、スぺインの神秘思想家たちも、はてしなき天界を目指して、そして己が存在の究極の根基を求めて、遍歴を重ねたのである(カスティーリャやアンダルシーアの各地には、彼女が創立した修道院が今なお残っている)。
  テレサの生地アビラの御托身修道院前庭にある聖女の立像は、やみがたい焦慮に駆られて、まるでカスティーリャの野を疾駆しているような聖女の姿である。聖テレサは徒歩の、修道服をまとったドン・キホーテなのだ。より大いなるものに向かってのこの焦慮、このとてつもない視圏の拡大は、彼女の血統(カスタ)と「新世界発見」という歴史的大事件が二重にかかわっている(ちなみに彼女の男兄弟のほとんどが新大陸に渡った)。



「新世界発見」と思想


黒い伝説

  一九九二年という年は、たんにスぺインだけでなく世界全体にとっても大きな意味を有する年である。もちろんバルセロナ・オリンピックもセビーリャ万博もそれなりに大きなイべントではある。しかしそれらよりもっと重要なのは、一九九二年が「新世界発見」から数えて五〇〇年目にあたっているという事実である。もちろん、これまでもそれぞれの区切りの年、たとえば四〇〇周年の一八九二年にも、「発見」を記念する行事が行われたであろう。しかし今度の場合、事情が今までと少し、いや大きく違っているように思われる。二一世紀という大台に突入する最後の区切りであるということばかりでなく、人類はいまや政治の舞台にかぎらず、いたるところで顕在化してきた大規模な地殻変動、コロンブスの時代に直面したものに勝るとも劣らない「歴史的危機」に直面しているからである。
  個人的なことになるが、私は昨一九九一年から、フランシスコ・デ・ビトリア(一四九二一-一五四六)のサラマンカ大学における二つの特別講義『インデイオについて』と『戦争の法について』の翻訳を進めてきた。その間、湾岸戦争とソ連邦の解体という二つの大きな事件が起こった。とりわけ湾岸戦争のときは、ビトリアの時代と現代が時空を超えて一挙に重なり、戦争という愚行が今なお地球上から消えず、人間というものが一向に成長していないこと、五〇〇年前に人類が突きつけられたいくつかの重要な課題が、現代なお未解決のままであることをやるせない気持ちで確認せざるをえなかった。
  ビトリアは、わが国ではあまり知られていないが、「国際法の父」と言われるオランダのフーゴ・グロティウス(一五八三-一六四五)より約一世紀も前に国際法の骨格を作り上げた人である。新世界はたんに地理的な空間だけではなく(もしそれだけだったとしたら事はなんと簡単だったろう)、そこにはまた人間が住んでいたのである。彼らは国家をさえ形成していた。それまで世界はすなわちヨーロッパ世界であった。確かにユダヤ教徒、イスラム教徒など、キリスト教世界に敵対する勢力がいるにはいた。しかし不思議なことに、彼らの存在がほんとうの意味での国際法的な問題を提起していたわけではない。
  つまり、彼らは異教徒・夷狄として、いずれ征服されるべきものとして、キリスト教世界の外縁にほんやりと、そしてときにはあからさまな脅威として存在してはいたが、しかしあくまで圏外のものであることに変わりはなかったからである。彼らは、交渉相手や敵ではあっても、言葉本来の意味での「他者」ではなかったのだ。「新世界発見」が突きつけた最大の問題は、インデイオたちがたんにバルバロ一夷狄一であるばかりでなく、同時に「他者」でもあったということから来ている。
  ところで、私たちはいとも簡単に「発見」という言葉を使ってきたが、しかしよく考えてみると、すでに存在し生きているものに対して「発見」という言葉を便うのは適切ではないし、 また失礼な言い方でもあろう。つまり「新世界発見」は、実は発見ではなく、自他を包含する新たな世界観、そして新たな人間空間の創出であるべきではなかったのか。ビトリアや後述するバルトロメ・デ・ラス・カサス(一四七四-一五六六)などの思想が新しいのは、そのあたりから来ている。
  つまり、彼らが頻繁に使う「全世界」という言葉は、それまでのキリスト教世界のみを指す言葉ではなく、実にこの新しい他者をも包含する、まったく新しい現実に対応する言葉であった。
 またそれまでの「万民」は中世以来の古い概念、あくまでキリスト教世界に限定された概念だったが、彼らが考える万民法(のちに国際法と呼ばれる)は、初めてその境界を越えたのである。すなわち彼らが「発見」したのは、旧世界に対する「新世界」ではなく、実は自分たちをも包含した文字通りの意味での新世界であったわけだ。しかし残念ながら、こうした認識に到達できたのはごく少数の人たちだけであり、他者を他者として遇することのない「発見」観がその後の世界の主流となっていく。
  その後も植民地経営の行き過ぎを非難する人はいた。しかし植民地支配を通じてヨーロッパ文明、その政治体制、価値観などを非ヨーロッパ世界に持ち込むことそれ自体は、いわば絶対的な正義であり善であって、これに疑いをさしはさむ人はいなかったのである。そしてラス・カサスなどが終始問題とした「植民地支配そのものは果たして正義にかなったことかどうか」という根本的な問題提起は、いつのまにか「その植民地支配は、適正に行われているかどうか」という論議にすり替えられていく。つまり程度の問題になってしまうのである。
 かくして「良い植民地支配」と「悪い植民地支配」という二分法ができあがる。もちろんスぺインは悪い方の権化とされる。これがいわゆる「黒い伝説」(レジェンダ・ネグラ)である。伝説といっても、具体的にこれとこれという具合に特定できるまとまりのある伝説ではない。長いあいだ折に触れて蓄積されてきたスぺイン批判の総体とも言うべきものである。ヨーロッパ史の中でこの黒い伝説に匹敵するのは、折に触れて噴き出す反ユダヤ感情だけであろう。
  それはスぺインが「新世界発見」によって前代末聞の大帝国を築いたことに対する各国からのやっかみ、と言って言えないことはない。事実、スぺインで発行されている百科事典の「黒い伝説」の項目を引くと次のような説明にぶつかる。
  「近代、スぺイン帝国主義に対して自らの帝国主義的野望を正当化するために、いくつかのヨーロッパの国々が助長した反スぺイン的言説。こうした敵対的姿勢は、スぺインがイタリア、ドイツ、フランドルに対してとった政策や新大陸の植民地化をきっかけとして生まれ、一六世紀を通じて広まった。一九世紀になると、今度はその矛先は、文化、政治、経済面においてスぺインの指導者階級が他のヨーロッパ諸国と歩調を合わせることができないことへの批判へと変化した」
  しかし問題がややこしくなるのは、確かに他国からのスぺイン批判ではあるが、しかし実はその発火点が、一人のスぺイン人であったという事情からくる。その人こそ先ほど名前の挙がったラス・カサスである。もっと具体的に言うと、彼が書いた『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という本である。この本は岩波文庫など二種類の翻訳が出ているから、ぜひ一度目を通していただきたい。そこにはスぺイン人征服者たちが新大陸で行った実に残虐非道なふるまいが、一部に誇張があるにしても実にリアルに描かれている。
  そしてこの本が、現代ならさしずめサルマン・ルシュデイの『悪魔の詩』と似たような衝撃を与えたのである。もちろん一方は史実、他方は虚構とその内容はまったく違うし、その意図するところも、前者のそれはけっしてスぺインを貶めようとするものではなく、同国人に対する烈々たる警告の書であるから、もともと比較は無理な話である。しかしスキャンダラスな衝撃であったという点では似ている。つまりスぺインの「偉業」が、実は当初意図していた神の福音の宣布という目的を遠く離れて、いまや嘆かわしい餓鬼道に陥ってしまったことを厳しく糾弾しているのである。



征服の正当性をめぐる論争

  ところで、「新世界発見」が人類にもたらしたものをここで数えつくすのは無理な話だが、あえてまとめると次のようになろう。すなわち、

  1. たんに空間的な意味だけでなく、意識面でも起こった世界観の拡大(ちなみにコぺルニクスの地動説が発表されたのは一五四三年)。
  2. 人間観の質的深化(人文主義思想のもたらしたものより、はるかに深刻かつ実際的な変化)。
  3. 新世界から持ち込まれた金や銀による世界経済の変質。
  4. 「自然」観の変化。

 もちろん「新世界発見」がもたらしたものには、以後現代まで続く自然破壊・環境汚染の問題とか、帝国主義的枠組み、つまり植民地経営を柱とする搾取の構造などマイナス面も数え上げれば切りがない。しかしここでは、「発見」がもたらした功罪両面での遺産目録を総点検するために、どうしても押さえておかなければならない思想的枠組みに話を絞ることにしたい。そのための一つの手段として、立場の違う何人かの代表的思想家を取り上げ、彼らの関係を図式化してみるという方法があろう。そこで三人の思想家に登場してもらおうと思う。その三人とは、ビトリア、ラス・カサス、そして初めて登場するフアン・ヒネス・デ・セプルべダ(一四八九?-一五七三)である。
  ラス・カサスは初め植民者の一人として新大陸に渡った。次いでローマで聖職者となり、再度新大陸に戻ってエンコメンデーロ(土地と一定数のインディオを割り当てられた植民地経営者、その制度をエンコミエンダ制という)となる。しかし、しだいにその地で行われているインディオ虐待の現実を見て改心、一転して熱烈なインディオ擁護者となり同国人の非道を厳しく告発した。ドミニコ会士となってからは、自説を学問的・神学的に裏づけるための研鎖を積み、国王やインディアス枢機会議などに征服戦争の即時停止、エンコミエンダ制の撤廃など次々と大胆な提案を行った。
  一方、ビトリアは若くしてドミニコ会に入り、パリその他で勉強したあと、サラマンカ大学の神学教授として活躍。しかし新世界での同国人によるインディオ虐待・搾取の実態を知るに及んで、新しい世界秩序のための法的・倫理的(人間学的)考察を開始する。とくに、一五三九年の『インディオについて』と『戦争の法について』という二つの持別講義において、教皇の世俗的支配権の否定、福音宣布を理由とする戦争の不当性など、当時にあっては実に革命的な主張を行った。
  以上の二人(ともに改宗者の血を引く)とは違ってセプルべダは、当時のスぺインにあっての多数派(旧キリスト教徒)の考え方・価値観を代表していた人と言える。つまり中世以来の世界観・人間観に固執して、新しい事態を新しい尺度で考えることができない人と、まずは言うことができよう。もちろん彼は当代稀に見る学者で、学問的な業績だけから言うなら、他の二人をはるかに超える業績を残してはいる。しかし、新しい価値観や世界観は必ずしも学問的な知とは正比例しない例が、ここに見られる。
  さて以上、三人の思想家のごく大ざっぱなプロフィールを紹介したが、彼らの相互関係ということになると、当然それぞれが他の二人に対して持つ関係ということになる。もっとも、彼らの一人ビトリアは、他の二人と直接的な関係を持ったとは言えないが、しかし後述するように、彼とラス・カサスの関係はきわめて微妙かつ複雑で、それだけに新世界問題究明のための重要なポイントとなる。
  いちばん分かりやすく、また実際にも劇的と言っていい関係にあったのは、ラス・カサスとセプルべダである。先ほどの紹介からも明らかなように、この二人はおよそ考えられるかぎり対蹠的な位置に立っていた。そのことが顕在化するのは、両者が国王の召集した、世に言う「バリャドリード論戦」で鋭く対決したときである。
  時は一五五〇年八月、場所はバリャドリードのサン・パブロ修道院、召集者は時の国王カルロス一世、出席者は、インディアス枢機会議から七名、カスティーリャ枢機会議から三名、宗教騎士団枢機会議から四名の計一四名。この会議の当初の目的は、今後の征服のあり方を検討するものであったが、実際には、過去に行われた戦争にまで遡って、ラス・カサスとセプルべダが一歩も譲らずに激しく応酬し合うという論戦となった。論戦を通じていよいよはっきりしてくるのは、インディオという存在をどうとらえているか、もっと根源的に言うなら、その人間観の違いである。つまりセプルべダにとって、インディオはアリストテレスの言う「先天的奴隷」であったということだ。もっと露骨に言えば、彼らは人間以下の存在であった。だからスぺインが彼らに対してそれまで講じてきたあらゆる施策は、すべて神の意志にそったものとなる。
  バリャドリード審議会は翌一五五一年の五月に閉会するが、両者のうちどちらに軍配があがったかは、残念ながら会議の詳しい記録が残されていないので判断は難しい。しかしその勝ち負けより重要なのは、自国の征服戦争の正当性をめぐって、あの一六世紀に、賛否両論の主張が堂々と審議された、という史実の重さである。スぺインに続いて各国が植民帝国の仲間入りをしていくが、そのようなことは以後けっして起こらなかったことは歴史が証明している(バリャドリード論戦については、L. ハンケの『アリストテレスとアメリカ・インディアン』に詳しい)。
  さて先にも指摘しておいたように、ラス・カサスとビトリアの関係は複雑である。両者の比較は従来から繰り返し行われ、ある人たちは、ラス・カサスはあまりにも極端な説を展開したとし、彼をパラノイアと断じる人もいた(メネンデス・ピダル)。とくにスぺインでは、ラス・カサスに比べて比較的穏健かつ現実主義的な立場をとったビトリアの方の評価が高かった。どうしてそのように評価が分かれたかと言えば、結局は次のことに帰着するのではなかろうか。
  すなわち、ラス・カサスが徹頭徹尾インディオ側に立とうとしたのに対し(極端に言えば、彼にとってスぺイン人は悪魔でインディオは天使だった)、ビトリアはインディオの人権その他を認めつつも、彼らを旧世界秩序の中に組み入れようとした。つまりラス・カサスは既存秩序の崩壊をも辞さない過激な理想主義者であったのに対し、ビトリアの方はときに体制護持のイデオロギーに包摂される事態を招くほどに、より現実主義者だったということである。
  しかし事はそう単純ではないのだ。なぜなら、ある点ではビトリアの方がより先鋭であり、ラス・カサスの方がより現実主義的だからだ(たとえばビトリアが、教皇の世俗的支配権を否定しているのに対し、ラス・カサスの方はその点、意外に保守的であったことなど)。それにラス・カサスが、エンコミエンダ制撤廃などいうスぺインの植民地経営の根幹を揺るがす主張をしながら、国王はじめ国政を動かす側からの表だった規制を受けなかったのに対し、ビトリアの方には陰に陽に締めつけがあったことなど、不思議といえば不思議である。こうした不思議な現象は、人間関係にはまま起こりうること、俗な言葉で言えばそれは人徳というものかもしれない。
  しかしオルテガ流に言うなら、その人の「生の構造」がどうであったか、つまり敵をどの位相で迎え撃ったか、あるいは向かい風をどういう姿勢で受け止めたか、にかかわっている。その意味で言うなら、ラス・カサスは実に巧妙に、ビトリアは少々不器用に敵に向かったというわけだ。



生の構造

 ともあれ、新世界問題の究明のためには、彼ら二人のうちのどちらをより評価するかは二義的な問題である。それよりも大事なのは、旧世界イデオロギーを代表するセプルべダを加えた三極構造の中で、それぞれの主張を比較検討することの方だ。そうした作業はようやく端緒についたばかりのように思われる。五〇〇周年を迎えようとしている現在、各地の文書保管室に眠っていた膨大な量の新世界関係の記録が少しずつ刊行されつつある。不当にも無視され続けてきたこれら貴重な全人類的遺産が、もししかるべく遇されていたなら、人類はどれだけ多くの愚行を避けることができたであろう。
 といって、これまでも、「新世界発見」の真の意義をとらえるための材料がなかったというのではない。材料としては十分過ぎるほどの史料があったとさえ言うことができよう。しかし、それら史料の意味を透視するだけの眼力が備わっていなかったのだ。前に挙げた「隠し絵パズル」の例を思い起こしていただきたい。つまり断片(ピース)はほぼそろっていた。
 ただしそれら断片を前にするときは、かつてカストロが錯綜した「スぺイン史の森」に向かい合ったときの視点に立たなければならない。それはウナムーノ、オルテガによって基本的な形を与えられ、カストロによってみごと歴史の分野に応用された「生の理説」にほかならない。
 この視点に立つとき、複雑にからみ合った木々の中に「狩人」の姿が見えてくるであろう。カストロの場合の狩人は、「血の純粋性をめぐる確執」だった(もしかすると、それ以外にも別の狩人が潜んでいるかもしれない)。
 要するに、生はたんに主観的な事実の集積でもなければ、たんに客観的な事実の集積でもないのである。オルテガの「生の理説」の根本である「私は私と私の環境である」という言葉を借りるなら、唯一実在する(あるいは実在した)私は、それら二つの要素、すなわち「私」(デカルトの言う純粋自我)と環境との力学的な統一体、すなわちドラマだからだ。
 ひとりの人間、たとえばビトリアならビトリアという人間の生涯を考えるとき、決定的に重要なのは、形になって現れた、あるいは日付をもって記録された事実より、むしろ彼の内部に響いている天命あるいは呼びかけ(彼自身それを意識する、しないにかかわらず)なのである。したがって、彼の本質的なドラマは、「そう願ったわけではないが、そうならざるをえなかった自分」と、「そうありたいと願いながらも、そうありえなかった自分」との両極をはさんで繰り広げられるダイナミックな関係そのものとなる。
 拙論の最初の部分に登場したマダリアーガは、「新大陸の発見そして植民事業は、人類にとってもっとも大がかりな叙事詩、いまだかつてその偉大さを歌うに値するホメーロスを見いだしていない叙事詩である」と言った。しかし彼の言う叙事詩が、起こった出来事をただ詠嘆調に歌う叙事詩だとしたら、そんなものをいくら書いても「新世界発見」というドラマの真実はけっして見えてこないだろう。書かれるべきもの、見いだされるべきものは、断片として残された史実から透けて見える「生の構造」でなければならない。そしてこの「新世界発見」のドラマが完成して初めて、スぺイン黄金時代の全体像が浮かび上がってくるであろう。
 さて、最後にもう一度、本節の冒頭に戻って、一四九二年という年号の持つ重要性を確認しておこう。つまりその年は「新世界発見」の年であったと同時に、ほかにも三つほど重要な事件が重なっていたということである。それらを時間的に配列すれば、次のようになる。

  1. 一月二日、イスラム最後の拠点グラナダが陥落して国土回復戦争 が終結(ここにいたるまで、改宗者たちが背後で政策立案から財政的支援にいたるまで多大の影響を与えた)。
  2. 三月三一日、カトリック両王、ユダヤ人追放令を発布。
  3. 八月一八日、ネブリハ(改宗者の血を引く)、イサべル女王への献辞を付した『カスティーリャ語文法』を出版(植民地支配に言語が持つ重要性は明らかである)。
  4. 十月十二日、同年八月二日にパロスを出港したコロンブス、新大陸を「発見」(実施にいたるまでここでも改宗者たちが重要な役割を演じた)。

  一四九二年は、あらゆる意味においてスぺイン黄金時代がその壮大な幕を開けた年であるが、この年に起こった四つの重大事件のいずれもが、直接的にしろ間接的にしろ、改宗者(もしくはその血を引く者たち)がからんでいるという事実は、やはり黄金時代の「生の構造」(カストロの言う「生の住家」)が改宗者問題抜きに語れないことを如実に示している。拙論で試みたのは、そうした問題を抱え込んで欝蒼と茂る「スぺイン黄金時代」の森の入口までご案内することであった。




『スペイン黄金時代』共著
NHK出版、1992年